剣客、京洛に在り
大阪の陣も過去の話となった、江戸時代初期の寛永年間。
太平の時代がやってくると、職業軍人たる武士階級はやることがなくなった。領主のもとで事務官僚などになれた者はまだよい。完全に収入の道を立たれてしまった「浪人」が増えていった。
乱世なら浪人や下級武士にも、腕前と知恵を磨くことで出世する機会がある。だが完全に平和になると、なまじ「能力のある者」はもはや秩序を乱す存在となってしまう。
そんなころ……
「辻斬りが出るそうな」
京都の東、清水寺に近いあたり。一軒の水茶屋で、数人の町民が世間話に嵩じていた。
離れたところで、一人の浪人者が縁台に腰をおろし、刀を抱いて、木の椀で水を飲んでいる。
「聞いたわ聞いたわ。もう何人もやられとる。剣術自慢のお武家も斬られたそうやな。」
「辻斬りはんも腕利きのようどすなあ」
職人のご隠居風の好々爺が噂話に加わっていた。
「剣術の腕利きいえばなあ、わたいの若い頃に、宮本武蔵ゆうお人がおりまひて。」
「知っとるわ。蓮台野で吉岡憲法の四代目と決闘したんやろ? で、吉岡の負けや。」
「ご隠居はん。まさかあんた、それ見てはった言うんやないやろな?」
「まさか。」
ひとしきり笑いとなる。
聞いていて浪人者は、心の中で毒づいた。
侍が決死の覚悟で刃の下をくぐり、命の危険を侵しながら雌雄を決しても、町人どもにとっては笑い話のタネにしかならない……そんな時代だ。
「吉岡流なんてのは所詮、小手先の技やで。宮本武蔵の剛剣に敵うわけないわな。その後、吉岡の道場はつぶれたんやろ?」
「今はどないなってるん?」
「剣を捨てて染物屋になったそうや。もう剣なんか恐くてヤになったんやろな。」
「ははあ、そうかもしれませんのう。」
隠居の相槌に、また笑いが起きた。
剣を向けられることが恐くないわけなど無い。その恐さに立ち向かうことが侍の矜持だ。
この町人たちだって、剣を向けられれば恐くて震え上がるに違いない。そんな自分を棚に上げ、少なくともその恐怖に立ち向かっていった者を、「勝負に負けた」というだけで笑いものにしている。
腹の立つことこの上ない。この場で斬り捨ててやりたい……。だが、ここではまずい。
浪人は椀を置いて立ち上がった。
夕暮れ時。鴨川の河原で、一人の若い侍が手をあげた。それを見て、浪人者が土手を降りていく。
「だいぶ噂になってしまったようだ」
浪人者がつぶやいた。
「かまいません。我々の剣の腕が知られるんです、仕官にも有利でしょう。」
この二人は、まだ出世を諦めていない。剣の腕を磨いて、いずれはどこかの大名のもとで出世することを夢見ている。
「だけど、腕試しに辻斬りなんて……誘われときは驚いたけど、やってみるとなかなか面白いもんですね。」
二人は話しながら歩き始めた。空も暗くなってきている。
このころの町には灯りなど無い。日が落ちればどこの家も雨戸を閉め、町の通りには月明りくらいしかなくなる。
そんな暗い中を、静かに歩く二人の侍……
「今宵もやるぞ。」
「おう、やりましょう。」
細い月が空にかかっていた。夜は大路といえども暗い。かろうじて月明かりで、人が通ることが分かるというくらいだ。
その大路を、小さな灯が近づいてきた。ちょうちんを持った町人らしい。一杯機嫌で酔っているようで、かすかに鼻歌が聞こえる。からころと下駄の音を立てながら、ちょうちんがふらふらと揺れている。
そののわずかな火明かりから、それが、肩に長手ぬぐいをかけた老人であることが見て取れた。
「お……」
路地に隠れている浪人者は、昼間を思い出した。水茶屋にいた隠居だ。侍を愚弄する話に加わっていた、憎たらしいじじい……。
「よし、今宵はあいつだ。」
「あまり斬り甲斐はなさそうですが……ま、試し斬りにはなるでしょう。」
隠居が近づいてくると、二人は飛び出してスラリと抜刀した。月明かりに刀身が青くきらめく。
隠居は驚いたようで、目を見開いた。
が、悲鳴もあげなければ背も向けない。素早くちょうちんを地面に置いて、両手を広げて前に出した。
「待った。」
予想もしなかった反応に、刀を振りかぶったまま、二人の動きが止まる。
「!?」
老人は静かに下駄を脱いで裸足になった。そして、器用な手つきで長手ぬぐいをひねり、くるくるっと襷にしてしまった。
二人が呆気にとられて見ていると、隠居は帯に差していた扇子を右手に持ち、こちらに向けて
「さあ、どうぞ。」
とつぶやいた。
「な……なめるなあっ!」
若侍が、雄たけびを上げながら斬りかかる。刃が風を切る音がした。
タンッ!
……それは、斬撃の音ではなかった。
「!」
扇子が若侍の右手首に当てられ、剣は隠居の左側へ大きく逸れていた。
「はい、右手がなくなりはった。」
「……このォ!」
浪人者も斬りかかる。
隠居は跳ねるように体をかわし、扇子で浪人者の刀の峰を叩いた。刀は勢いを増して地面に切り込み、浪人者の体勢が崩れる。
その次の瞬間、老人の扇子が浪人者の喉もとに当てられていた。「突き」だ。
「あんたは死なはった。……次。」
隠居が振り向いて若侍に声をかける。
「うぉりゃあああっ!」
叫び声とともに、若侍は背中から斬りかかる。隠居は浪人者を突き飛ばし、若侍の刀の横から左腕の肘を当ててそらすと、扇子で彼の胸を軽くつついた。本来は一振りの刀で行うが、「しのぎ削り」という技だ。
「こちらも死なはった……次。」
浪人者は歯軋りした。この隠居、剣の心得がある……。しかし町人の、しかも老人に敗れたとあっては、「剣の腕で仕官」どころの騒ぎではない。
今度は逃げられないよう、胴を薙ぎに行った。が、隠居は扇子で下から剣を跳ね上げ、その下をくぐって、すれ違いざまに彼の額を横向きに扇子で叩いた。頭蓋骨を斬って飛ばす「皿飛ばし」だ。
「はい、死なはった。次。」
若侍も、容易ならぬ敵と認識したようだ。正眼に構えてジリジリと隙を狙う。
隠居はそれに対し、扇子を斜めに構えている。若侍には、小さな扇子の後ろに隠居の全身が隠れてしまったかのようにも感じられた。
打つ手も無くなった若侍は、岩に飛びかかるような感覚を覚えながら、やけっぱちで、袈裟斬りに刀を振って突っ込んだ。
が、腹に扇子が当たる感覚がしただけだった。「抜き胴」だ。
「またまた死なはった。次。」
「いえっ……もう結構です!」
浪人者が、裏返った声で叫ぶ。腰が抜けてしまったのか、汗だくで地面に座り込んでいる。
若侍も膝がくだけて、そのまま倒れこんでしまった。四つん這いとなり、真っ青な顔でがたがたと震え、肩で激しく息をしながら、やっとの思いで顔だけあげて、こちらを見た。
隠居は二人を見下ろしながら、扇子を帯に戻して、静かにため息をついた。
「近頃のお武家様は、情けない人が増えまひたなあ。あんたら今夜……何度死なはりまひた?」
襷を解いて、隠居が手ぬぐいをはたく。パンッ!という乾いた音が、月明かりの薄闇に響き渡った。
「辻斬りなんぞやめて、もっと剣の修行に精だしなはれ。宮本武蔵はんみたく。」
そして、辻塀に手を置いて寄りかかりながら下駄を履く。
「見たとこ お二人ともスジはそう悪うおまへん。まじめに修行すればおそらく、そこそこまでは行けるんやおまへんか?」
そう言って、背を向けようとした。
呆然と見ていた浪人者が、あわてて道に両手をついて土下座をした。
「ご老人! お、お名前を!」
隠居は、ちょうちんを拾って、裾の汚れをはたいた。
「名乗るほどの者とちゃいますわ。わたいは染物屋の隠居。剣術使いやあらへん。」
若侍も浪人者に並んで座をただし、頭を下げた。
「そんなことはありますまい! あなた様の神技は間違いなく剣の達人!」
「どちらの先生であられますかっ! ぜひ、ぜひご尊名を!」
「…………」
二人の必死さに、隠居はもういちどため息をつく。そしてポツリと名乗った。
「……『けんぽう』や。」
絶句している二人を残し、隠居はまた鼻歌を歌いながら、ふらふらとちょうちんを揺らして去っていった。
四代目吉岡憲法・清十郎は、蓮台野の決闘で宮本武蔵に敗れ、その名声が地に落ちてしまった。
その後、清十郎は剣を捨てて京都の染物屋になったと記録されている。彼が工夫した「吉岡染」という黒染めは、京都の伝統としてその後も長く伝えられた。
そんな経緯から、現代の時代劇等では情けない弱い侍として描写されることもある吉岡清十郎だが、その晩年の出来事として、こんな話も伝えられている。
記録によれば吉岡清十郎は、数々の勝負を繰り広げ、鹿島林斎などの多くの武芸者を打ち破ってきた剣の達人だ。ただ一度、武蔵に敗れることさえなければ、「無敵の剣客」として歴史に名を残していたかもしれない。
すべては過ぎ去った過去の話にすぎないが。
---終




