月への願い事
王宮の奥深く、中庭に面した石造りの大きな窓に乙女は腰かけていた。
白い華奢な手に、凝った模様がほどこされた高価な白いカップと、銀の小さなスプーンを持って。
月は中空高くかかり、惜しげもなく煌々と美しいその光をあたり一面に振り撒いている。
乙女は、その月に向かってカップを差し出した。
カップの中には清んだ水が半分ほど入っていて、一片の赤い薔薇の花びらが浮かんでいる。
可愛らしいピンクの唇が、小さく祈りの言葉を紡ぎだす。
「月よ。私の祈りをお聞き届けください」
乙女はカップを覗き込み、月がその中の水に揺らめき映るのを見届けると満足そうに微笑んだ。
「私とあの方が永遠に結ばれますように。
あの方が私だけをずっと愛してくださいますように。
月よ。願いをかなえてください。
どうぞあの方と、永遠に添い遂げられますように。
私の心は変わりませぬ。
あの方以外の方と、恋に落ちることなどありえませぬ。
どうぞこの恋が、永遠に続きますように。
あの方が一生、私だけを想ってくださいますように」
そこで深く呼吸をする。
それから自分の名と、かの想い人の名をカップの中の月に向かってつぶやくと、注意深く左手で銀のスプーンを差し込み、丁寧にかき混ぜはじめた。
まるで月と水と薔薇の花びらをひとつに混ぜ込もうとするように。
やがてその美しい目を閉じると、乙女はカップの水を花びらごと静かに飲み干した。
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「お願いよ、エレナ」
フラーヴィア姫は、その蒼く美しい大きな瞳を涙で曇らせながら訴えた。
「わたくしにはフィリップ様しか考えられないの。それはあなたにもわかるでしょう?」
エレナと呼ばれた少女は自分と見た目はさほど変わらないが、実際はかなり年下の可愛い姫君を苦しげに見た。
「ええ、姫君。お気持ちはわかりますけれど」
「わたくしにはあの方しかいないのよ。フィリップ様が、永遠の恋でわたくしのすべてなの」
フラーヴィア姫は憂いに顔を曇らせながらも、その彼の君の名前を甘く、誇らしげに発音した。
『ええ、そうね』
と心の中でエレナは、苦く想う。
『あなたのいうその永遠の恋が実れば、私はこんなに苦しまなくてすんだのよ』
「でも、フラーヴィア様」
「お願いよ、エレナ。これしかないの。わたくしにできることは、もうこれしか残っていないのよ」
『そうね、それもいいかもしれないわ』
エレナは小さくうなずいた。
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エレナの前に現れた彼は、とても不機嫌そうな顔をしていた。
華奢な身体に、黒のシャツに黒い細身のズボンスタイルで、淡い緑色のサッシュを腰に巻いている。
金色の巻き毛は腰までゆるやかに流れ落ち、左目はその前髪に隠されて見えない。
噂では確か隠されたほうの目に、魔力が宿っているらしい。普通の魔術師とは多少素性が異なる、と聞いたことがある。彼は、魔道具も薬草も貴石もほとんど必要としない、とも聞いている。
そしてなにより腕の立つ魔術師のリストの中に、必ず入っている名前であることは間違いない。
今、彼はその端正な顔に『不機嫌』としっかり書いたまま、エレナの前に現れた。
長い足を乱暴に投げ出して、どっかりと凝った造りの豪華な椅子に座ると、鋭い緑の右目でじろりとエレナを見た。
「僕がマリオンだけど。で? 僕に何の用事あるんだって?」
声もかなりきつく険しい。
彼は女性に優しいと聞いていたのに。
よほど間が悪いところへやって来てしまったのだろうか?
話す前からエレナは少し怖気づいていて、無意識のうちに膝に置いたレースのハンカチをきつく握り締めていた。
不機嫌な彼は、まだ少年のような顔立ちで、とても腕の立つ魔術師とは思えない。人形のように可愛らしいメイドが運んできた紅茶のカップに、生真面目な顔で大量のミルクを注いでいるところは、どう見てもどこかの貴族の王子様といった感じだが、しかし魔術師の実力は見た目どおりでない、ということはエレナ自身がよく知っている。
実際、彼の力は、この巨大な城自体にもよく現れている。
どこからどう見てもここは、魔法でできた仮の城には見えない。
大きさといい、精密な細部までの実体の持ち方といい、堅牢強固な「本物」にしか見えない。
多少魔力があるエレナが見ても、かりそめの城には見えなかった。
だが、ここは本来、このような城が建つのに適切な場所ではない。
何しろフランベル国一大きい、とされている湖のど真ん中だからだ。何故、魔術師がここへ城を建てたのかは謎だった。
(※通行の邪魔にならないからだろ、と、マリオンなら言うであろう)
湖の岸からは湖水上に霞がかかっているようにしか見えず、城の存在はまるで感じられない。岸辺から見えない階段が延々と空中に続いているのを、初めて足下に感じたとき、エレナは震えた。
その魔力の強力さと、それにより自分の願いがかなうその狂喜に。
この魔法によって巧妙に隠された城へ来ることが出来たこと自体が、奇跡に近いかもしれない。
彼を探し出すために、エレナはフラーヴィア姫の名前を使い、大枚を支払い、人も使った。
王国に魔術師など幾らでもいそうだったのだが、フラーヴィア姫は名実ともに一流でなければ嫌だとなかなか首を縦に振らなかったのだ。
また、フラーヴィア姫の願いを聞き届けるためには、半端な力の持ち主ではできないだろう。
残り時間も少ないのだ。
エレナは、占い師ギルドのマスターに場所を聞き出すのに大金を寄付するからと、なだめすかしてやっとのことで「一流の魔術師を知っている人間」にたどり着いたのだ。
それから後は、とんとん拍子にうまくいった。
なぜならマリオンが、その人間の頼みをあっさりと聞いてくれたからだ。
その人間にどんな弱みがあるのか、エレナは興味をもったがもちろん訊くのは控えた。
ご機嫌を損ねたら、さすがに二度と城へ入れてはもらえないだろう。
エレナの微力な魔術ではとうてい太刀打ちできない。
フラーヴィア姫の願いを聞き届けるために、どうしてもこの女名前の魔術師の力が必要だった。
エレナにはない強大な彼の力が。
そもそもエレナは王宮の呪い(まじない)魔女であった。
王国における呪い魔女の役割は明日の天気予測や農作物の耕作管理、あるいは戦時下の各地の状況の遠見と仔細なことから国の存亡に関わることまであらゆることでいろいろな場合に託宣を行うのがその主な役目だ。
呪い魔女はそれぞれ自分の得意とする分野以外でも簡単な魔法なら使うことができる。
逆にいえば自分の得意分野以外の魔法は、ほとんど知らないといってよい。
そのあたりは普通の魔女、魔術師とは異なる。
この場合の呪い魔女は本流は同じだが、魔術師とは微妙に異なったところに位置しているといっていい。
呪い魔女は専門職として独立したものであった。
魔女や魔術師、というものは元々は誰でも選べる『職業』だった時代もあった。
効かぬ呪い(まじない)や当たらぬ占いを繰り返していた時代もある。
だが、その研究研鑚が進み、魔術と言うものが学問として捉えられるようになると、その魔術に向き不向きという者がいるということがわかってきた。
誰でも簡単になれるようなものではない。だからといって、その向き不向きが何処にあるのかというその一番肝心なところがわかっていない。
なろうとする者は、何年も何年も金銭と時間と無駄な努力を重ねて結局はものにならないかもしれない、ということも考えておかなくてはならない。
また魔術を使うということは様々な魔道具、薬草、貴石、その他いろいろな物品を消費するということでもある。魔術師になるためには、才能とそれなりの学問と財力がなければならないのだ。だが、財力があるものになべて才能があるわけではない。逆もまた然り。
そこでギルドができた。財力のあるものがないものを援助するために奨学制度を設けたのだ。財力がないエレナのような者たちはそこで学び、やがて得意分野別に選別される。
無事に魔術師として認められた者たちは、ギルドのために何十年か働かなくてはならない。ギルドのいうままにエレナはその呪い魔女として、二十の歳からあちこちの王侯貴族へ奉公していた。その先々で彼女は魔女の才能のほかにそれ以外の勤めぶりでもなにかと重宝がられた。
学問を進めることによって魔術がある程度身に付くようになると、それは一般的に魔女と呼ばれる。魔女はすでに人間とは少しだけ質が異なっている。
魔術師の加齢は緩やかだ。持ちうる魔力によってもその速度は異なる。
人によってはその逆を望む場合もあるのだが、魔女と呼ばれる女性の場合は、百人いれば百人に近い割合で若く美しく見えるほうを好む。
エレナの場合もやはりその例に洩れないらしい。
エレナの若々しく可愛い顔は、現在仕えているフラーヴィア姫とあまり違わない年齢に見えるのだが、実際のところその二倍にも近い年を重ねている。
だが、幼い頃からギルドと王宮のみで暮らしてきたエレナはあまりすれておらず年齢の割りにフラーヴィアとあまり変わらない精神構造であり、その辺も含めてエレナはフラーヴィア姫に気に入られていた。
実は、エレナはついこの前まで隣国シザリアスの王宮でやはり同じように奉公していたのだが、シザリアス王の崩御に伴い、王宮内が揉め、暇を出されてしまった。
自分としては残りたかったのだが、暇をだされてしまっては無理にとどまることは出来ない。
しかたなく所属するギルドに泣きつき、近場で呪い魔女を必要としているフラーヴィア姫の国フレンベルへたどりついたのだ。
そして、それからそろそろ一年がたとうとしているところだった。
フラーヴィア姫は先月、十六歳になったところだ。
早咲きの薔薇の蕾のような美しさで、明るく誰からも愛される可憐な姫君だが、このごろは憂鬱そうな顔でふさぎこんでいることが多い。
それというのも最近、縁談話が持ち上がってしまったからだ。
隣国シザリアスはエレナが暇を出されてしまった後、揉めに揉めた挙句、第二王子だったジョゼフを王位に就けることでようやく落ち着きを取り戻したところだった。
その第二王子、-いやじきに王であるが-ジョゼフとの縁談がフラーヴィア姫に持ち上がっている。
王国と王国の間には、あるいは貴族の間には、えてしてそのような政治的婚姻がなされることは多い。いや、ほとんどがそれだ、といってもいいだろう。
だから幼い頃から王侯貴族たちは、自分の子供たちにそのように言い聞かせ、躾を行う。
彼らが自由な恋をすることができるのは本当に平和な時期に限られていた。
それすらも身分の壁に阻まれて制約のあるものではあったが、それなりに自由ではあった。
だが、たとえ今のように比較的穏やかで平和な時期であっても、恒久的安定と和平を考える者たちにとって隣国の姫君が第二王子であったジョゼフの花嫁となることは、大変望ましいことであった。
フレンベルは軍事力のある国であったから、この婚姻によってシザリアスは強力な後ろ盾を得たことになる。また特に資源を持たないフレンベルにとっても豊かな自然と資源に恵まれたシザリアスとの友好は心強い。国情が安定したシザリアスなら、なおのこと歓迎であったことだろう。
両国にとってこの縁談は望ましいことで、すぐにも式をとり行おうかという勢いだった。
この場合、フラーヴィア姫とジョゼフ王子がどう思っていようと、(あるいは思っていなかろうと)、そんなことは露ほども国には関わりのないこと。
両国の民が安定して平和で安全に暮らしていければよい。そのために姫君は隣国へ嫁いでいく。
それが貴族の義務と責任というものだ。
「ジョゼフ王子はお優しくて本当にいい方ですわ、フラーヴィア様」
エレナがジョゼフの人となりを心をこめて話すのだが、実は別の恋に夢中のフラーヴィアの耳には、まるで止まらない。
「フィリップ様だってとってもお優しいのよ。聡明でいらっしゃるし、それに」
ちらりとフラーヴィアはシザリアスから贈られたジョゼフ王子の絵姿に目をやる。
明るい茶色の髪に暖かそうなやはり茶色の瞳、きっちり結ばれた意志の強そうな、だがどこか甘さを秘めた口元。
フラーヴィアより二つほど年上のはずだが、優しげな顔立ちは少し幼く見えるかもしれない。
しかし、その絵姿をフラーヴィアはろくに眺めてもいない。
かわりにフラーヴィアは胸に下げた大きなロケットを手にとり、蓋をぱちんと音を立てて開けた。
「フィリップ様は、銀の糸のような綺麗な髪よ。目の色は深いアメジスト。この白い額の凛々しいこと」
フラーヴィアは、ロケットの中のフィリップの細密画を眺め、うっとりしている。




