第2幕 新入者<Second Intruder> Part 2
上下を白と黒に塗られたの国産乗用車が右を走行している。近すぎて見えにくいが、フロントとリアのドアに渡る白地の部分に、おそらく〝 群馬県警 〟と記されていたと思う。
助手席に座っている制服姿の警官が、夫を見ている。夫もまた、細かく何度も顔を向けていた。合図を送っているつもりだった。
「いけませんよ!」と、おばさんが甲高い声と厳しい口調で制した。
「それ以上やると、奥さんを撃ち殺さなくちゃなりません!」
ドアに右肩をつけて、おばさんは両手で銃を構えた。サイレンサーの先は妻の頭に向けられている。
「き、聞いているんですか!? 奥さんの後は、あなたを撃ちますよ!」
「なにがいけないんだ! 言うとおりに運転しているだけじゃないか!」
自分を撃つと言われてから、夫は反応した。
「目くばせを送っているでしょう!」
「そんな事していない! 隣にパトカーが来たら、つい見てしまうのは普通だ。わざと目を逸らせていたら、余計に怪しく思われる」
「大きな声を出さないで! そっ、そう言われればそうかも知れないですね。でも、もう十分でしょうから前を向いてください。それからゆっくり離れていって…」
「二車線しかないんだ。速度を上げるか下げるかしない限り離れられん」
「後ろを向かないで! じゃあそのまま、向こうが離れるまで安全運転を!」
夫は返事せず、かといって歯向かわずに、顔の向きを前に固定した。パトカーはその後たまに前後にずれたが、しばらくの間並走した。警官は何度も夫の横顔に目を向けていた。
夫は妻に横目で合図した。自分の代わりに警官に合図しろ、との意図だ。妻はわずかに振り返る。小刻みに震えている銃口を見て、夫の横顔を睨む事で返した。もちろん拒否だ。
夫はハンドルから右手だけ離して、自分の鼻を掻いた。しかしそれはカムフラージュで、その人差し指は肩越しに後部座席を指さしていた。何度もそれを繰り返し、それと合わせて顔も小刻みに振って、警官に視線を送る事を繰り返した。
「ちょっと! 気づいていますよ!」
おばさんが、本気で怒った口調になったが、夫はやめなかった。
「いい加減になさい! 死にたいんですか!」
夫は賭けに出たのだ。おばさんに人を殺す度胸はない。銃が本物だとしても、それを扱う能力はない。たとえ妻を撃ったとしても、その後車外に出た夫を狙えるほどの腕前はない。そして警官に逮捕されるか、射殺されるだろう。
今度は左手をハンドルから離した。シートベルトを外そうとしている。急ブレーキを踏んで、すぐさま車外に出ようとしているのだ。一応事前に合図らしき顔(眉と口をゆがめた)を妻に見せた。銃口を向けられているのに、ベルトを外す動作をできるはずがない。妻は小刻みに頭を振ったが、夫はさらにゆがめた、怒りを込めた表情を向けた。
妻は気づいて、左手で指さした。それは夫を通り越して、窓の外に向けたものだった。道が混んできて、周囲を含めて速度はかなり落ちていた。異様に接近していたパトカーのウィンドウが開いて、助手席の警官が呼びかけている。
夫が困惑していると、おばさんは「窓を開けて、適当に話してやり過ごしてください」と言った。ウィンドウを開けると、警官は「大丈夫ですかー!」と声をかけた。最大のチャンスであり、最大の危機でもあった。夫は「あ、はい」と答えた。言われた通りやり過ごすのか、また助かる機会をスルーしてしまうのか。
「安全運転でお願いしますよー!」
大きな声を出した警官は、帽子を目深にかぶっていて、白いマスクを付けていた。運転席の警官もまた、陰に隠れて顔がよく見えない。警官はマスクの前に右の人指し指を立てて、それを左右に二度ゆっくり振った。その後ウィンドウを閉めた時、後部座席に視線を動かしたように見えた。
交差点に差し掛かり、パトカーは右折するために停車し、距離が開いていった。
「窓を閉めて! ハンドルの上に両手を置いて!」とおばさんが怒鳴る。夫は従うしかなかった。
それからも直進が続いた。渋滞が収まっていって、速度は時速50キロまで上がった。
「言う事を聞かないで、わたしを軽く見ていましたね。バカにしていましたね」
ため息で返した夫に、おばさんはさらに怒りを募らせた。
「かわいそうですけれど仕方ありません、イエローカードです。2枚揃いましたので、ええ、罰です、ペ、ペナルティですね。ええ、これはもうね、仕方ありませんからね」
泣いているかのように言葉は詰まり、声が震えていた。それからおばさんは身を乗り出す。左手で銃を持って、右手で上着のポケットから何かを取り出した。
「奥さん、ごめんなさいね。こ、こんな事、したく、ないんですけれど、ほんとに、ほんとにごめんなさい」
何かを握ったままの右手を伸ばし、2本の指で妻のスカートを強引にまくると、グリップから飛び出した刃先をさっと滑らせて、白い太腿に赤い線を引いた。線はたちまち太く、広くなって、波を象った。
ああっ!と妻は叫んで、すぐに両手を重ねて傷口を覆った。
「な、何をするんだ!」
夫は怒鳴ったが、頭に銃を向けられて「黙って運転しなさい!」と凄まれると、硬直したまま前を向いた。
「あなたのせいですよ! 奥さんがこうして痛い目に合うの、あなたのせいです!」
おばさんはさらにさっき傷つけた箇所の先、膝に近い部分に刃先に当て、✔を入れるかのように手首を回した。
妻はまたうめき声をあげて、身をよじっておばさんに背を向けた。
「ああっ スカートに血が付いちゃうから動かないで!」そう言ってナイフをまたしまうと、同じポケットから出した青いハンカチを妻に差し出した。
「これで強く抑えて!」
「わ、わかった、謝るから、もう二度としないから、どうか、許してくれ」と、夫がかすれた声で懇願した。おばさんに向けてというよりも、神仏に縋っているようだった。
「夫の不始末をね、妻はいっつも辛い目に、痛い目に合いながら片づけているんですよ! それをわかっているんですか!? 奥さんが黙っておとなしくしているのに、どうしてあなたはそんなふうに反抗的なんです! 自分でなんとかできるなんて思ったんですか? 女相手なら勝てるなんて思ったんですか? 命を賭けるなんてできないくせに、妻の命ならどうなってもいいと? なんて卑劣なんでしょう! なんて自分勝手なんでしょう! それならほら、今この銃を奪ってごらんなさいよ!」
右手に持ち替えた銃口を夫の腹に押し当てた。引き金に指がかかっている。
「す、すまん、言う通りするから、どうか落ち着いて、許して…ください」
夫はかすれた声で懇願し続けた。脅えて、慄いている。無理もない。顔を隠していても伝わる。おばさんは興奮している。異常と言えるほどに怒っている。
「あ、あなたも、いつまでも痛い痛いなんて言ってないで、もっとしっかりしなさい! 女はね、主婦っていうのはこんな事くらいで泣いてちゃ、この先とても務まらないものなの! あなたがもっとしっかり夫にね、わたしの言う事に従うよう強く言っていたら、こんな事にならなかったのよ! まったく、二人ともだらしないのよ!」
先の侵入者と比べて、危険度ははるかに高いと知った。




