第2幕 新入者<Second Intruder> Part 1
黒いハンチング帽、サングラスと白いマスク、紺のジャージ、白い軍手をはめた両手で拳銃を握っている。すでに声で判明しているが、どうみても女の体躯だ。さっきまでの男よりも小柄で、手足が短い。ごくわずかな物腰だけで、30代後半から50代のように思えた。つまりおばさんだ。
「はいそこを左へ行って、2番目の信号をまた左です」
すぐに登山道路を下った。トイレに行かせるためだけに通ったのだろうか。
顔を隠し、拳銃を向けている事は同じだが、さっきまでの男と違って善良そうな、穏やかな口ぶりと態度だった。
「ああっ ごめんなさい!」
おばさんの大声に驚いて、急ブレーキを踏んでしまった。後ろの車にクラクションを鳴らされ、慌てて発進する。
「なに!?」と、夫も大声で返した。
「さっきの角を右へ曲がるんでした。ええと、つぎを右に行けばいいのかしら、それともUターン?」
「どっち?」と、苛ついたように問う。
「あ、次を左に行って、すぐまた左に行ってもらえればこの道に戻って来るから…」
夫は乱暴にハンドルを切った。
「ごめんなさいね、まだ新人だから慣れていなくて…」
…新人?
「でも言う通りしていただかないとね、お二人とも殺さないとなりませんのでね、どうかよろしくお願いしますね」
おい、と夫が妻に話しかける。内緒話をするような声量だが、ハイブリッドの、しかも新車であるためにエンジン音や走行音は小さく、よほどの難聴じゃない限りおばさんにも聞こえている。
「どうして変わったんだ、俺がトイレに行っている間に現れたのか?」
どうして? それこそどうして理由がわかるというのか。トイレに行っている間に? そうに決まっているだろう。妻はわざわざ答えなかった。
「無視をするな!」 もはや内緒話ではない。
「どっから来たんだ! さっきのプレハブの中にいたのか?」
「わからない。急に後ろのドアが開いて…」
夫は舌打ちを挟んで、「この状況でよくもそんなにぼうっとしていられるな! そんなだから何も対策を打てずに、店を潰してしまったんだ!」と怒鳴りながら、また乱暴にハンドルを切った。
さっきの道路に戻った時、またクラクションを鳴らされた。反対車線を越えて、強引に割り込んだからだ。
「はいはい、もうやめましょう。勝手に喋らないっていうルールがあったはずでしょう? ルール違反です、はい、イエローカード1枚目」
子供の喧嘩を諫めるような調子に惑わされる。夫は黙ったが、その後ため息と舌打ちをとめどなく繰り返した。
「それとね、雨が降っていて危ないですから、強引な運転は控えてくださいね。万一事故を起こしたり、交通違反で警察の人に止められたりしちゃったらね、その時もやっぱりお二人を殺してね、わたしは殺人で捕まっちゃう事になりますのでね、そんなの、お互い困るでしょう?」
夫は苦笑した。
「お願いしますね」
「新車なんでね、まだ運転に慣れてないんですよ」と、うるさそうに返しつつ、今度はゆっくりとハンドルを回した。
「どうも違和感が、これだから国産車は…」
「お二人は、ご夫婦?」
質問された時は声を出していいのだが、二人は答えなかった。答えたくなかったからだ。
「指輪はしていないようだけど、そう、夫婦間に深刻な問題を抱えていらっしゃるようね。もしかして浮気かしら、お二人とも容姿端麗でいらっしゃるし。もしくは金銭問題かしら?」
強盗か愉快犯に晒すつもりはない。
二車線ある見通しの良い県道に入った。しばらくはまっすぐ進むらしい。
「長く一緒にいると色々ありますよね、わたしにも覚えがあります。夫婦の愛情が一切消えてしまって、どうして同じ家に住んでいるんだろうってなっちゃった時がありました」
夫がまた軽く舌打ちした。妻も態度には出さなかったが、同じ気持ちだった。
「でもそれを乗り越えるとね、また別の種類の感情が生まれるのよ。若い人にはまだわからないでしょうけれどね」
35歳で年相応に見える夫を若い人扱いするという事は、少なくとも40歳以上なのだろう。演技じゃなければおそらく平凡な主婦と思われるこの女が、いったいどういう経緯でこんな犯罪を行っているのか。
「お互いにね、お付き合いしていた頃とか、結婚したばかりの頃を思い出してね、昔話をしてみればいいの。当時流行った音楽とか一緒に聞いてみたりしながら。そうするとね、その頃の気持ちも一緒に思い出すから。それとか、ほら、初めて一緒に遊びに行った場所とか、あ、わたしの場合ね、互いに初めて相手に買ってあげたプレゼントを言い合ったりしたの。ねえ、やってみてごらんなさいよ」
冗談はやめてくれ、そう夫は思っていた。
「ほら、言う事を聞いて。でないとまたイエローカードを出しちゃいますよ」
露骨なため息を聞かせた後、夫が先に答えた。「洋服だ。たしかフランスのブランドで…」
そう、トレンチコートを買ってもらった。10万円以上もした。
「奥さん、覚えている?」
「はい」
「奥さんの方は? なにをあげたの?」
「…それ」と言って、夫の腹を指した。
夫はちらと下を向いて、身に着けているシルクのネクタイを見た。
「ネクタイピンかしら?」
「ええ」
誕生日プレゼントだった。ほんの1万5千円程度のものだが、それでもまだ新卒でお金がなかった私にとっては、精一杯の出費だった。
「へえ~、旦那さん、まだそうやって大切に使ってくださっているのね~」
「もういい加減にしてくれ! おかしくなりそうだ!」と、本当に頭がおかしくなったように大声で怒鳴って、おばさんを驚かせた。
「ご、ごめんなさい。 わ、わたしはね、緊張を解いてさしあげようと思ってね、良かれと思ってね」
銃口が揺れていた。
「まだ直進を続けるんですか!?」
「え? あ、ちょっと待ってね」と言って、右のこめかみに触れた。
「はい、まだまっすぐです」
夫は速度をあげた。
最初の男と比べると、明らかにおばさんの危険度は低い、おおよそ犯罪には向かない性格と思える。夫は態度を強くして、自分が主導権を握ろうと考えた。右車線に移動し、制限速度をオーバーして2台を追い越すと、後ろを煽っているかのように乱暴にもとの車線に戻った。ようやく運転に馴れてきたようだった。
「あの、繰り返しますが安全運転でね。もう少し速度を落としてくださいな」
「さっさと済ませたいんだよ! まだ真っ直ぐでいいのか!?」
「えっと、次の大きな交差点を右に曲がって、左車線に入ってください」
また車線を変更し、矢印信号が消えたばかりの交差点を右折した。左車線に入ると、前の車が詰まっていたのですぐにブレーキを踏む。急制動になって、シートベルトをしていなかったおばさんの体はつんのめり、咄嗟に助手席の背に左手を当てて支えたが、拳銃を握った右手が、運転席と助手席の間にあるコンソールボックスの上に乗っかった。グリップから指が半分以上外れていた。またも夫はこの時、拳銃を奪う行動を起こせなかった。おばさんよりも力が劣っているはずないというのに。
おばさんはすぐに腰を引いて、両手で大事そうに拳銃を持ち直した。
「あらいやだ!」
その言葉の意味を理解するまで、十秒ほどかかった。おばさんが右側いっぱいまで体を寄せて、窓に右頬をくっつけて外を見ていた。
「どうしましょう!」
パトカーが並走していたのだ。




