第1幕 侵入者<First Intruder> Part 2
夫はその間まったく反応できず、妻の命が危険にさらされているという事をまだ理解していない。かといって拳銃をモデルガンと思って、タチの悪いイタズラだと断じる事もできず、抵抗はおろか、声を荒げる事すらしない。「動くな」と言われて動かず、「黙ったまま運転を続けろ」と言われて黙ったまま前を向いて、ゆっくりアクセルを踏んだ。
高速道路の入口をスルーさせられて、渋滞中の高架下を徐行している。徐々に事態を理解していったのか、夫の動揺が車の挙動に現われていた。前車との車間距離が10メートル以上開いて、後ろからクラクションを鳴らされた。急いでアクセルを踏むと、速度を上げ過ぎて迫った前車のブレーキランプに驚き、急ブレーキを踏んでしまう。何度もノーズダイブを繰りかえしている様に、周囲から奇異の目を向けられている。だが外からでは、後部座席にいる男が握っている拳銃は見えないだろう。
「おい、落ち着いて運転しろ」と侵入者が諫める。防寒用のグレーのニット帽を被り、濃いサングラスと白いマスクで顔を隠した、いかにも不審者の格好。黒革の手袋をはめて握っている拳銃がたとえ偽物であろうと、強盗か暴漢に見える事は間違いない。
「おい聞いてんのかよ!」
無言の夫に対し、侵入者は運転席の背を乱暴に蹴ってさらに問質した。
「な、なに!」と夫は漸く声を出した。
「聞いてんのかって言ってんだよ」
「き、聞いてる」
「言うとおりにすりゃあ命まで取らねえよ、リラックスしろや」
その下卑た口ぶりは、男が悪い性質であることを想像させる。いわゆる輩、不良、反社といったイメージだ。だが黒いジャージに包まれた体躯は細身で小柄に見える。年齢はわからないが、子供や老人ではないだろう。
「な、なにが欲しい、なにが目的なんだ、金なら、現金なら10万くらいなら今出せる」
「言う通り運転すりゃあいいだけだよ」
「コンビニで金を降ろすからそれで…」
「黙ってろ」
「20万くれてやるから、警察には届けないからそれで…」
「黙ってろって言ってんだろうが!」
男はまた運転席の背を強く蹴った。さらに二度、三度と蹴り続けながら
「こっちが質問した時以外は勝手に喋んじゃねえ! なにが20万だ! なにがくれてやるだ! てめえなに上からモノ言ってんだよ! ああ? この状況わかってんのかよ! 夫婦共々ぶっ殺すぞこの野郎!」と怒鳴った。
「わ、わかった、黙る」
「敬語使えや! このクソ野郎」
蹴られた時におもわず踏んだブレーキを緩めた。
十数秒のノーアクセル走行の間に、夫と侵入者はお互い頭を冷やした。
「おい」
「え?」
「敬語を使え」
「わかった、いや、わかりました」
渋滞中にもかかわらず、前後の車間距離は開いていて、左右に車は並んでいなかった。
妻は両目を瞑って、顎を上げて、深呼吸を繰り返している。落ち着こうとしているのだ。夫もまた黙って運転に集中する事で、やや平静を取り戻していった。
男の指示通りバイパスに乗り、そのまま高速道路に入る。しかしそれは兄夫婦宅と全くの逆方向だ。男はナビゲーションを切るよう夫に命令した。
夫はナビの電源をOFFにして、「どこへ行くんだ、…行くんですか?」と問うた。
「勝手に喋んな」
言う通り夫は黙ったのだが、30秒ほど経ってから男は「あ? なんだって?」と尋ねた。
「どこへ向かっているんですか」
「教えてやんね~」と、小ばかにするような口ぶりで返す。
「約束があるんです、逆方向だから遅れてしまう」
「知るかよ、状況わかってんのかよ」
「あの…」
妻が声を絞り出すように言った。
「なんだ?」
「電話していいですか? 先方に、今日は急用ができて行けない、と伝えたいんです」
男はしばし考え込んで、「ラインかメールでいいんじゃねーの?」と気安く言った。
「はい、じゃあメールで…」
「いや、ちょっと待て」また考え込んで「よし、じゃあ電話をかけろ。妙な事を口走ったら足を打ち抜くぞ」
男は身を乗り出して、ベージュのスカート越しに妻の太ももに銃口を当てた。砲身には筒状のパーツ、つまりサイレンサーが取り付けてある。マガジン式の、女性が持つような小さな黒い拳銃。夫の視線に気づいて、男は銃口を夫の脇腹に向け直した。おどけるようにバンッと銃声をまねる。からかっている。男は夫を嫌っているようだ。
妻は兄嫁に電話をかけて、言った通り、夫にどうしても行かなければならない仕事が生じてしまったので、また日を改める意向を話した。謝罪し、「ええ、大丈夫です」という言葉で締め括って電話を切った。
どこがだ、ちっとも大丈夫じゃねえだろ、そう心の中で言って、夫は軽く舌打ちした。
「他にもう用事はねえな?」
「はい」
俺に確認もしないで勝手に決めつけんじゃねえよ、舌打ちを繰り返した。
「よし、スマホをよこせ」
妻は素直に従った。
「おい」
「え?」
「え? じゃねえよ。お前のもだよ、決まってんじゃねえか、バカか」
強盗風情にバカ呼ばわりされる覚えなんてないぞ! 俺は本来お前なんかが口を効く機会も得られない種の人間なんだ! 素質が違うんだ! 前に向けた表情がそう訴えていた。
「オラさっさと出せ、ボケ」
スマホを取りあげた男はシートに座り直した。遊んでいるかのように銃口を妻と夫の背に交互に向けつつ、もう片方の手で2台のスマホの電源を落とした。
常磐道に入って北東へ進んでいたが、やがて降りて下道を走った。しばらく走行し、周囲が田畑ばかりの道に出ると、男は「そこで止めろ」と指示した。
対面2車線ではあるが道幅は広く、交通量も少ないので路肩に寄せれば大して交通の邪魔にならない。また直線道路なので見通しも良い。ハザードを点けて停車したが、それからしばらくの間、男の指示はなかった。
夫は少しだけ振り返って男を見た。片方のこめかみに手を当てて、少しうつむき加減。何か考えているように思えた。
男が顔をあげると、夫はすぐに前を向いた。
「エンジンを止めろ」
「え?」
「いちいち聞き直すな! エンジンを止めろ、つってんだ!」
夫はパワーボタンを押してエンジンを切った。
「動くなよ」そう言って男は車外に出た。車の後ろを回って、運転席側に足早にやってくる。この時咄嗟にエンジンをかけ直して急発進するか、バックして男を轢く事ができたかもしれないのに、夫は動けなかった。尚も怯んでいたのか、単に考えが及ばなかったのか。
運転席のドアが開く、左手に持ち替えた銃の先を夫の腹に押し付けると、夫は「うわ、やめて…」と悲鳴に近い高音を発した。妻はこの時、思わず笑みを浮かべてしまった。
「おとなしくしてれば何もしねえって」と呆れたように言いながら、男はダッシュボードの上に右手を伸ばす。運転席寄りに取り付けてあったそれを掴み、引きちぎった。ほんの2~3センチ四方程度の黒い箱状のそれは、GPS受信機だ。上着のポケットにそれをしまうと、続けて上方にも手を伸ばし、ルームミラーの裏側に取り付けてあったドライブレコーダーのコードを抜いて、それから本体を無理矢理引きはがした。
侵入者はずいぶん迂闊で、思慮の浅い男だった。車を降りたのもそうだが、GPSやドラレコを外すのも、夫婦のどちらかにやらせれば良かったのだ。男はいつか、何かでヘマをして逮捕されてしまうかもしれない。しかしおそらくは、何も知らない捨て駒の1人なのだろう。




