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Flower  作者: Machio
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第1幕 侵入者<First Intruder> Part 1

 すぐに車に乗るからといって傘じゃなく上着を手に持ったせいで、雨粒が肩の上に落ちて、女はビクッと体を震わせた。思いのほか冷たい。厳冬はもう通り越したと思っていたのだが、首だけじゃなく鎖骨まで外に晒すには、あまりにも気が早過ぎた。

 モヘヤニットの広く開いたVネックから、雨粒が胸元に滑り落ちていく。小降りの雨といえども、傘もささないままでは数分で体を冷やしてしまう。バッグとコートを片手で持って、一度ドアハンドルを引いてすでにロックがかかっている事を伝えているはずなのに、運転席に座っているシャドーチェックのスーツ姿の男は、その後10秒が経過しても解除しないままでいる。ナビゲーションを操作したり、デジタルで表示された計器を確かめたりしているようだが、気づかなかったはずはない。単にいじわるで、女を無視しているのだ。

 握りこぶしをつくってドアを強めに叩くと、男は、女の夫はようやくロックを外した。助手席に乗って、後ろを向いてリアシートの上にバッグとコートを置く妻の濡れた肩に、夫は「おい、新車なんだぞ」とため息交じりの息を吹きかけた。妻が気に留めない様子でいるのを気に入らないのか、「おい」と少し怒気を含めてもう一度言う。

「なに」と前を向いた妻が平坦に反応する。

「新車だって言ってる」

「え? なに」

「気安く叩くなよ」

 さっさと外してくれたら叩く必要なんてなかった、そう文句を言いたくなったが、それをきっかけにまた不毛な言い争いが始まってしまう。すっかり懲りていた妻は「ごめんなさい」とひと言だけで謝罪した。夫はその発音と態度に確かな抵抗を感じとったのだが、自分もまた懲りているので、ため息をもうひとつ吹きかける事で一旦留めておいた。

 結婚後4年が経過しているが、その仲は冬の雨よりも冷たくなっている。2年までならば、夫はわざわざ車を降りて、ドアを開けてくれるほど優しかった。妻は満面の笑みで感謝を伝えるほど愛嬌があった。だが3年を経た頃、互いに信頼を失う事情を作ってしまったのだ。妻は資産家の生まれであった夫の財力を資本にして、幼い頃からの夢だった洋服やジュエリー、化粧品を扱うブティックの経営者となった。しかし開店当初から経営は芳しくなく、何の実績もないくせに立ち上げた自身のブランド商品の開発費とその販売不振が経営を圧迫し続け、半年ほど前に大きな負債を抱えたまま、わずか2年で閉店する事になった。夫は自身や専門家である知人のアドバイスを嫌った妻に、不信感を募らせていた。そしてそれを理由、または言い訳として、夫は不貞を働いた。自身が経営する会社の、よりによって秘書課の若い女性社員に手を付けてしまったのだ。しかもそれが発覚して清算させられたというのに、つい2か月ほど前に別の女との浮気もまた発覚し、それは今も継続しているのだ。

 妻は不倫の継続を知っているし、夫はもはやそれを隠そうとしていない。とうに心は離れている。2人の間には鎹となるかもしれなかった子供はいないし、もう生まれる事はないだろう。

 開き直って家事を捨てて浪費を繰り返す妻に、夫は本音では離婚を言い渡してやりたいのだが、浮気を示す証拠をいくつも握られているため、離婚時には慰謝料が加わった多額の財産分与が発生する。またもしも社員との浮気を周囲にばらされてしまうと、自身が経営する会社を含めた数社を束ねている会長である大叔父から厳しい叱責を受け、多少の懲戒処分を受ける可能性が高いため、容易にはできないのだ。

 夫はいっそ妻の不貞を望んでいるが、その気配すらない。浪費癖もまた、ショップを倒産させた事以外は度が過ぎる範囲を越えていないため、不倫と比べると断然不利だ。その事に夫は大いに不満を抱いている。妻が作った負債を、夫は自身の財産で補った。そのひとつとして、まだ2年しか乗っていなかったイタリア製の高級スポーツカーを処分したのだ。いくら比較的裕福な環境に育ったとはいっても、約四千万円もの負債を簡単に精算できるほどの余裕があるわけじゃなかった。生活レベルを周囲に目立たないよう落とすには、贅沢品の処分しかない。親兄弟には〝もういい年だから虚栄心は捨てるよ〟なんて言ってごまかしたが、本当のところ、想定していた以上のダメージを被った。愛車及びその他の損失で味わった精神的被害が、浮気による妻のものと比べて劣っていると言えるのか。もともと浮気の原因は、妻の放漫経営によって積み重なっていったストレスのせいであるのに。そうした思いと共に妥協を重ねて購入したばかりのこの国産乗用車を、無神経に叩いた妻の態度に心底腹が立った。

 妻もまた、夫の不貞だけでなく、度重なるパワーハラスメントに精神を摩耗させている。パワハラの主な内容はやはり、負わせてしまった債務についての不満とその苛立ちを、言動や態度に露骨に込めてぶつけてくる事だ。それは不倫発覚後、収まるどころか逆に倍増して、会話の度に蒸し返された。その過剰な攻撃性は浮気の責任を覆い隠すため、つまりは逆ギレとしか思えず、うんざりした妻は次第に会話そのものを拒絶するようになった。本来ならば夫が運転する車になど、少しの間も乗りたくないのだが、今日は定期的に招待される夫の兄夫婦の自宅に、未だ円満夫婦を装っているため一緒に訪れなくてはならない。ひとりでタクシーに乗って、兄夫婦宅前で合流したいところだが、最近はクレジットカードの利用状況にもいちいちケチをつけられるし、また他の理由もあって同乗する事にしたのだ。しかしこの車に乗るのは今回が最初で最後と、妻は心に決めている。


 濁った雲が空だけじゃなく、傘をさして歩く、また雨を避けて走る人々と、夫婦の表情をさらに暗くしている。

 相変わらずこの辺は混雑している。頻繁にアクセルとブレーキを踏みかえる運転に、夫はむしゃくしゃしている。とは言っても、以前の車と比べて断然運転はし易いはずだし、居住性も優れている。だがひどく退屈なのだ。窓から見える景色が違う。以前なら周囲の歩行者や並んだ車から、常に羨望と嫉妬が交じり合った眼差しが注がれていた。それは胃を(くすぐ)るような、何とも言えない心地よさを与えるもので、たとえ雨の下でも、渋滞の中でも心を弾ませてくれていた。しかしそれはもうない。それなりに高品質で人気の高い車種なのだが、それだけに珍しくもなく、どこを走っていても見かける程度のものだ。到底あの眼差しを得られるものではない。

 夫はちらりと左にいる妻を見た。6つ年下でまだ30手前、結婚前の美貌を保ち続けていると言えるが、ファッションやメイクはずいぶん変わっていってしまった。ブランドで身を包み、過剰なヘアとアイメイクを施したその姿はいっぱしのセレブ気取りで可愛げがなく、まったく男心を分かっていない。中身がない分外見を繕う事に執心し、見栄を張り続けた挙句に失敗したのだ。やはり知能が低いとしか言いようがない。能力がないならば、ただ後ろに控えて愛想良くしておけば良かったのに、いったい何を勘違いしたのか。

 夫は2~3分おきに繰り返すため息で、妻を責め続けている。

 妻は夫の顔をいっさい見ようとしない。見なくたってどんな表情をしているのか分かっている。ずっと不機嫌であるし、それをどうにかしたいなんてちっとも思わないから、どうでもいいのだ。

 夫の腹の内は手に取るように分かる。その本性をこの2年足らずの間で思い知るほどに理解した。さっさと邪魔者を追い出したいのだろう。そして新しい浮気相手を、自宅の超高層マンションに招き入れたいのだろう。

 夫婦は実際のところすでに別居しており、妻は郊外にある自宅マンションで、夫は別宅として借りている都心の賃貸マンションで暮らしている。別宅は普通の1LDKで、富裕層の住居としてはあまりに不十分なものだ。そこでもう1年間生活している夫は、そろそろ臨界点が近いように思える。

 相当怒っているだろう。資産を減らす原因となった私を恨んでいるだろう、憎んでいるだろう。しかし私はそれ以上に恨んでいる、憎んでいる。夫は、お前は、以前はたとえショップがうまくいかなくても気にするな、と言ってくれていた。思い切ってやればいい、たとえ失敗したとしても、それを糧にできたなら無駄じゃない、と励ましてくれていた。しかし実際に赤字が積み重なっていくにつれて、励ましと説教の比率があからさまに逆転していった。全力でサポートすると言ってくれていたのに、友人だと言って連れてきたコンサルタントは陰でわたしに色目を使い、何度も無遠慮に私の体に触れた。我慢できなくなって拒絶すると罵倒され、何もかも否定された挙句、些事を投げられた。ただバカにされただけで、何もしてくれなかった。それなのにお前は逆に私を責め立て、こともあろうにその友人に謝罪した。その頃には、すでにお前は私を裏切っていた。不倫していたのだ。

 散財と不倫、どっちが悪いのか。どれほどの金額ならば、どれほどの期間の不倫に見合うというのだろうか。その資産状況にもよるのだろう。夫婦の関係性の具合にもよるのだろう。それぞれの立場で言い分が変わる。弁護士が、家庭裁判所がどういう判断をしても、ほとんどの者が納得できないのだろう。 2人の間に愛情は失せている。もう少し時間をおけば、互いの生活になんらかの変化があれば、それもまた変わるのかもしれないが、今はただ、怒りや恨みしかない。


 兄夫婦への手土産を購入するため、馴染みのワイン専門店に立ち寄った。店には駐車スペースがないため、近くにあるコインパーキングに車を停めなければならないのだが、狭路に入ったところにあって、夫は駐車に手間取った。何度も切り返しをする夫に妻はまるで無関心な様子で、それは新車だからといって必要以上に慎重を期す夫を、冷ややかに見ているとも言える。

 1本30,000円もするワインと、サービスで付けてくれたワイングラスが一組入った紙袋を妻が持ち、後部座席に積んだ。店内では仮面夫婦に徹し、店を出てからは一切口を効かず、目も合わせない。車に乗って、濡れた体をそれぞれが、それぞれのハンカチで拭った。


 夫は何度もブレーキを踏んだ。なかなか高速道路の入口に辿り着かない。本降りになった天候と、また高架下のせいで、時刻はまだ正午を過ぎたばかりだが、周囲は日暮れ時のように暗くなっている。

 後部ドアが開いて警告音が鳴るまで、まったく気配に気づかなかった。突如現れた侵入者は、手に持った拳銃を振り返った2人に見せつけた後、その銃口を妻が座る助手席の後ろに当てた。


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