第5幕 勧誘者<Recruiter> Part 3
夫が新しく買った新車を奪う。ただ盗むだけじゃなく、いやむしろ、真の目的は夫を苦しめる事だ。だが決して夫の命を奪う、体を傷つける事はなく、複数のプロが監督して事故を防ぐ。また仮に失敗して誰かが逮捕されても、わたしの関与は決して明かされない。ただしわたしが失敗の原因となった場合は、テストは失格と見做される。
わたしの役割は…ただ被害者になるだけだ。ただし侵入者に指示された事に、絶対に従わなければならない。後部座席のドアを開けてそっぽを向く。夫がトイレに入った後、車の外に出て、2分程両目と両耳を強く塞ぐ。足をナイフで切られても我慢する。道を覚えない。逃げない。泣かない。怒らない。夫がどれほど醜態を晒しても、決して笑ってしまわない。
夫は苦しみ、醜態を晒し、車とお金を失い、信用を失った。それでわたしの目的は果たされたのか。テストに合格して、彼女は自身の代わりを、わたしという協力者を得る事ができたという事なのだろうか。それを確かめたくて、わたしは事件後に何度も彼女にコンタクトを取ろうとした。しかし彼女は2回だけ、それもそれぞれほんの数分会ってくれただけで、警察の目がわたしと夫にも向けられている事を伝えてくれた以降は、一方的に連絡を断った。
そして1か月ほど前、わたし宛に封筒が送られてきた。差出人は書かれていなかったが、それは彼女からのものだった。彼女と夫が映っている写真が20枚以上も入っていて、デート中のツーショットや、頬や口にキスをしている、されているもの、そしてホテルの一室と思われる場所で、服は着ているが二人が抱き合い、夫が彼女の胸部に触れている写真が3枚あった。いずれもスマホ等で自撮りをしているもので、それは夫か彼女によるものである事は明らかだった。そして同封されていた手紙には、それらを夫に見せるよう指示が書かれていた。
事件後に何度も銀座を訪れていたわたしは、夫が雇った探偵ではなく、警察にその行動を掴まれていた。(夫はとうに探偵への依頼を止めていた) そのために彼女はストーリーを描いた。つまり彼女が浮気の証拠写真を提供するため、わたしと数回会って相談していた、というストーリーだ。もともと夫を脅迫するために写真を撮っていたのではない。彼女は罪悪感に苛まれ、不倫関係を解消したいと思うようになったのだが、夫がなかなか応じてくれないため、やむを得ずわたしにすべて明かした、という事にしたのだ。そしてそれを、彼女から聴取を取るためにお店を訪れた刑事に説明したのだった。
指示に従い、わたしは夫にそれらを見せた。夫は開き直っているのかのように、ただ沈黙していた。すでに発覚していた事だし、それ以前の、秘書との浮気についてもいくつか証拠を押さえられている。今更それが増えたところで、最悪の状況は変わらない。数々の失策を犯し、周囲の信用を失った挙句、浮気相手にも裏切られ、失意のどん底に落ちていただろう。いささか哀れに思えるくらいで、わたしはそれ以上責め立てはしなかった。
しかし、わたしもまた写真を見て動揺していた。彼女は夫との肉体関係を否定していた。いつもぎりぎりで躱していると言っていた。だがホテルでのこの状況から、果たしてうまく躱せたのだろうか。本当に夫との肉体関係はないのだろうか。わたしは彼女じゃなく、夫に嫉妬していた。
わたしはその後も繰り返し彼女へメールを送った。警察の捜査を警戒して、 ‶ 相談させて欲しい 〟とだけ記したが、わたしの気持ちは伝わると思っていた。しかし彼女からは ‶ 不倫の証拠は全部お渡ししました 〟‶ あなたの望みは叶ったはずです 〟と返ってきただけだった。
わたしの望みはまだ叶っていない、それどころか増えてしまった。それにあなたが望んでいた…わたしをあなたの代わりにすると言っていた件はどうなったのか。ストーカーのようにしつこくメールを送り続けるわたしを危険視したのか、切手が貼られていない手紙が送られてきた。彼女からのものかどうかは分からない。しかしわたしはその内容に従い、渋谷にやって来た。…もちろん尾行に警戒しながら。
わたしは服を着たが、画面にはまだ中年男が映ったままだった。しかしスピーカーからは彼女の声が鳴っている。
「離婚の危機は回避されたわ。それにあなたの立場も以前より強くなったはずでしょう。ご主人はあなたに浮気以上の負い目を感じている。あなたを見捨てて、自分だけ助かろうとしたんですもの。彼はそこまで不感症じゃないわよ」
分かっていて、少し挑発するような言葉を選んでいる。
「ええ、ですが他にも目的があったはずです。わたしが、あなたの代わりになるためのテストだと聞いていました」
「それはこっちの都合よ」
「わたしはそれを承知していました。 いいえ、望んでいました。あなたの代わりになる事を、あなたの仲間に、友人になる事を」
「お友達にくらい、いつでもなってあげるわ。むしろもうそのつもりよ。ほとぼりが冷めたらまた一緒に遊びましょう」
「もっと親密にお付き合いしたいの」
「えっと、 キスくらいまでなら…善処するわ」
その中年男を映したままで言わないで欲しい。
「そういう意味じゃない。あなたの事をもっと知りたいの。本当の事を、昔の事、今の事、先の事だって話し合えるように…」
「そんなの話したら、あなた引くわよ」
「引きません」
「引くわ、ヒラマサくらい」
「引かないって!」 それに意味が分からない。
「悪いけれど、わたしは望んでいないわ」
「では、テストは不合格という訳ですか」
「ええ、あなたは不要よ」
「どういった点が悪かったのでしょうか!」
「し、しつっこい点よ!」
二人とも、徐々に声が荒ぶっていった。
「それは今、この状況においてでしょう!?」
「ま、まままま、 双方ともどうか落ち着いて…」
中年男が両腕を広げて仲裁してくれた。
「いやいやいや、どうやら奥さんは、もともと我々の仲間になりたいと思ってくださっているんですね? 聞いていた話と違うな~」
聞いていた?
「それなら私の、ゾンビのお話は必要なかったんですな」
「それを必要とするところは、この世のどこにもないわ」と、彼女が冷たく言った。
「どういう事ですか?」
「いや失礼しました。きっと彼女はあなたを気遣ったんでしょう。あなたが我々の、つまり非合法な組織に加わる事を防ごうとしているんです」
「でも、彼女が誘ってくれたと思うんですが…」
「当初はそのつもりだったのでしょうが、彼女はこう見えて情け深いところが多い、複雑な人でしてね。あなたと親しくなって、思い直してしまったんでしょう。まあツンデレとでも思ってください」
…ツンデレ?
「勝手な事を言うとそのカツラを取りあげて、されど同じ髪型にしてやるわよ」
男は思わず禿頭を、カツラを両手で押さえた。
「それじゃあ…」
「あなたは合格ですよ。もともとそれほど厳しい条件があるわけじゃありません。適性を見て、それぞれに適した役割がふられますからね。あとはやる気の問題です。あなたは度胸があるし、美人だし、大企業の社長夫人だ。きっと活躍できる場面は多いでしょう」
「勝手な事を言わないで!」
大声を出して男を黙らせたが、それでも画面には出てきてくれない。
「遊びじゃないのよ。一度法の外に出たら、そう簡単に中には戻れないわ。きっと碌な目に合わない。事と次第によっては逮捕される事もあるし、命の危険にさらされる事だってある。あなたは目的を果たした。これ以上危ない所に踏み入る必要はない」
「目的は、まだ果たしていません」
「そこらへんで留めておくべきよ。見たでしょう? こっちには碌なのがいないわよ。僻みっぽくて、嫉妬深くて、負けず嫌いの…全部同じ意味だけれど。 とにかく卑屈な、質の悪い理想主義者、いえ、犯罪者だらけのジェラシックワールドなのよ!」
ジェラって… それでも、あなたはそこにいるのでしょう?
「わたしも同じです。結婚して、違う世界の人間になったつもりだったけど、変わっていない。頭が悪くて、才能もない、なにもできない劣等感の塊。だから、ほんとはお金持ちなんて大っ嫌い! 偉そうで、思い通りいかないとすぐに不機嫌になって、裏ではずるい事ばかりしているくせに、表ではいつも清廉ぶった事を言って…」
「偏ってるわね」
「狼狽する夫の姿を見て、爽快だった。何度も笑ってしまいそうになった」
「それにとっても幼稚」
「ええ、それがわたしの本性なんです」
「…わたしは、いつかはこんな世界から抜け出るつもりよ。決して好きでいるわけじゃない」
「じゃあ、それまではどうか仲良くして」
数十秒間も沈黙が挟まった。それでも彼女は画面に現われてくれない。中年の男が背をもたれて、リラックスしたような笑みを浮かべている。少し斜め上を向いた視線の先には、おそらく彼女がいるのだろう。
「本当に、もうご主人に対する愛情はないの?」
「愛情?」
「彼は善人とは言えないでしょうけれど、悪人というほどでもない、普通の人間だと思うわ。今は自信と余裕を失っているから他人に、妻にすら優しくなれないのよ。時間が経って、環境が変われば昔のように戻るかもしれない」
「…ええ、それは分かっています」
「そう、 ならこれ以上文句はないわ」
再び沈黙が挟まる。
1分を越えても、まだ彼女の声が戻らない。中年男の笑みは、今度は正面を向いていた。
「あの、遊姫さんは…帰ってしまわれたのでしょうか?」
「あなた、裏社会なんかより、よっぽど難儀な世界に踏み入りましたね」
「え?」
「彼女は天性の人たらしです。男も女も、みんな彼女に恋してしまいます。競争は相当熾烈ですよ」
「彼女の事、よくご存じなんですか?」
「それではまたいつか、次はもう少し踏み込んだお話を致しましょう」
「次って…」
若い男が頭を下げながら間に割り込んできて、ノートPCを閉じてしまった。…さっきわたしの裸を見てしまったからだろうか、少し顔を赤らめている。よく見ると、地味ながらすっきりした、整った顔立ちをしている。
後ろでドアが開く音が鳴った。
瞬時に期待して振り返った。そしてその期待通り、彼女が立っていた。ネックリボンが付いた黒いワンショルのフリルブラウスとジーンズ、ピンヒールがよく似合っている。彼女は化粧やファッションでがらりと印象が変わる。控え目なメイクを施した彼女は凛々しく、それでいてかわいらしい。
抱きついてしまいたくなる衝動を抑えつつ、わたしは彼女に一歩だけ近づき、お辞儀した。彼女はため息をついたけれど、素敵な、そしてどこか挑発的な笑顔を浮かべた。
「まだ見習いだけど、さっそく実習を行うわよ」
そう言って近寄ると、小さな手提げの紙袋をわたしに手渡した。画面に映っていない時よりも、口調が幾分かドライに聞こえた。
「これは何? 実習って?」
「その前に、改めて自己紹介するわね」
「え?」
軽くお辞儀しながら、彼女は言った。
「氷川龍子と申します。一応、本名よ」
次回
終幕 誘惑者<Temptress>
は
4月上旬に投稿予定です




