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Flower  作者: Machio
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第5幕 勧誘者<Recruiter> Part 1

 一流ホテルにあるような豪華な装飾のドアが開かれて、わたしはお店に入った。そう広くはないが、テーブルもソファも一見して高額なものとわかる。バーカウンターの奥にある棚いっぱいの多種のボトルが、宝物のように色鮮やかに輝いていた。

 すぐに黒服姿のボーイが近寄ってきて、「ご予約のお客様でしょうか?」と尋ねた。

「いえ」

「お連れ様はいらっしゃいますか?」

「いえ、一人です」

 3~4秒の沈黙の後、「コートをお預かりしましょうか」と言われて頷くと、ボーイは背後に回った。沈黙したのも無理はない。銀座にあるクラブに、女一人の客はさぞめずらしいだろう。

 テーブルは3割程度しか埋まっていない。ホステスをはじめ従業員、わたしを含めた客全員がマスクを付けていた。緊急事態宣言が解除されてから時間が経っているとはいえ、その後も蔓延防止措置等があって、未だに飲食店などは自粛を求められる風潮が残っている。このお店もあと40分ほど、午後9時で営業を終える。また以前は会員制だったようだが、今は敷居を下げざるを得なくなっているのだろう。

 席に案内された後、チャージ料金を含めると1杯15,000円のアイスティーを注文した。折り曲げていた両膝を伸ばそうとしたボーイを、「あの、指名をお願いしたいんですが」と言って引き留めた。少し驚いたように口を開けていたが、すぐに笑顔に切り替えて、「はい、どなたをご指名でしょうか?」と尋ねた。

「遊姫さんをお願いします」

「あっ、申し訳ございません。 遊姫さんは今、別のお客様についておりまして…」

「そうですか。 じゃあ、お店が終わってからお会いできるか、聞いて頂けますか?」

「あ、いや、そういうのは…」

「ほんの少しの時間でいいんです。大切なお話がありまして」

「すみません、ちょっと出来かねます」

「…わたしの名前を彼女に伝えて頂けますか? それでも無理なら、別の日に改めます」

「はあ… わかりました。ではお名前を」

 名前を伝えると、10段ほどの階段を上がったところにある、ひと際豪華なソファを並べた、おそらくVIP席に向かってくれた。3人の男性客に、それぞれひとりずつホステスが付いている。客が少ない中で指名されているという事は、おそらく彼女は人気上位に入る存在なのだろう。よく見えないが、両肩を出した水色のドレスなんて、肌とスタイルに自信がなければ着られるはずがない。耳打ちされると、ボーイの半分程度に見える小さい顔がこちらを向いた。気のせいか、笑顔のように見えた。

 途中から彼女を隠すように重なりながら、ボーイが戻ってきた。

「それではお店が終わってから、店内で待たれますか?」

「あ…」 願っておきながら戸惑ってしまった。不倫相手の妻が勤め先に現れたというのに、会ってくれる? 笑顔で?

「はい、ご迷惑でなければ」 迷惑に決まっているはずだ。


 閉店後30分程が過ぎて、照明が半分以上消えてうす暗くなっていた店内に、私服に着替えた彼女が現れた。ハイヒール分を加えて、170センチ以上の視点からわたしを見下ろしつつも、「お待たせして申し訳ございません」と丁寧にお辞儀してくれた。穏やかにあいさつを交わし、彼女の誘導でバックヤードを通って、別の…なんの装飾もないドアから店を出た。通りを挟んだ向かいに、ハザードを点けたタクシーが停まっていた。

「あの、どこへ」

「落ち着いてお話ができる所よ」

「あの、ご迷惑でしょうし、手短に済ませますので…」

「あら、別居していらっしゃるんでしょう? じゃあ遅くなってもいいじゃないの」

「で、でも…」

「まあまあ、じっくりしっぽりご相談しましょう」

 彼女の右腕がわたしを抱き寄せ、そのままタクシーの中に誘った。ふわりと甘い、洋ナシのような香りがした。夫の浮気相手だというのに、自分よりも若く、美しい容姿をしているというのに、嫉妬を伴った嫌悪感が沸き立たないのはなぜだろうか。不倫相手の妻と知っての誘いに、危機感よりも期待感を抱いてしまっているのはなぜだろうか。

 薄いピンクのダウンコートにほとんど全身を包んでいるが、飛び出た頭と手足だけで美人と分かる。明るい茶髪に、薄い色の顔肌。つけ睫だけでは説明がつかないほどの印象的な瞳は、大きすぎず小さすぎず、丁度良いバランスで配置されている。マスクで覆っていても分かるまっすぐなで鼻筋と、その真下に位置する口、すべて左右対称、見事な黄金律で整えられている。事前に知ってはいたが、間近で見るともはや感動まで覚えるほどだった。

 しばらく走らせたところで、運転手が「どうやら尾行されている気配はありません」と前を向いたまま言った。

「そう、良かった」

「尾行?」 これほど美人ならばストーカー被害なども考えられるけれど…。

「奥さんが疑うように、ご主人も疑っていらっしゃるかもしれないのよ」

 夫が? わたしを?

「常に警戒しておく事をお勧めするわ。よろしければ後でコツ(・・)を教えてあげる」


 40分程かかって、郊外にある古そうな低層のマンションの前に着いた。彼女はわたしを自宅に招いたのだ。2階にある彼女の自宅に上がると、狭いダイニングキッチンの床に敷かれた座布団の上に座るよう促された。

「狭くてごめんなさい。なにせ不景気ですから…」

 いくら自粛期間が長かったからといっても、銀座で働くホステスにしてはあまりに質素な住まいだった。キッチンもほとんど使っていないようで、おそらく備え付けの小さな冷蔵庫があるだけ。食卓はなく、座った座布団のすぐ傍に折り畳み式の小さなローテーブルが置かれてある。すぐ隣に戸を開けたままの寝室があって、彼女はダウンコートを脱いで電灯を点けたが、そこにもベッド以外に何も置いていない。他に部屋はない。

 収納にコートをしまい、キッチンに戻ってくる。白いショート丈のニットを着て、黒のミニスカート、黒ストッキングを履いていた。冷蔵庫からワインのボトルを取り出し、グラスと共にテーブルの上に置くと、それらを挟んで向かいに、わたしと同じように正座した。

「どうぞお構いなく」と伝えたが、彼女は2個のグラスにワインを注ぎつつ、マスクを外してピンク色の唇を晒した。

「残り物で悪いけれど、そこそこいいものよ」そう言って、彼女はグラスの半分まで注いだワインをぐいと飲み干した。つられて、わたしも一口飲んだ。確かにいいワインだった。

「おつまみは? といってもチーズとおかきしかないけれど」

「いえ、結構です」

「そう?」

 彼女はまたグラスの半分まで注いだ。

「それじゃあ、お話を伺いましょうか」

 なんだか奇妙な雰囲気だったが、わたしは気を取り直し、バッグから封筒を取り出した。中身は数枚の写真…どれも夫と彼女が一緒に映っている。内1枚は、さっきの店のすぐ外でキスをしている写真だ。

「ほうほう、ばっちり映っているわね」

 彼女は本気で感心している様子だった。当然だ、わざわざ探偵(プロ)に依頼したのだから。

「ふんふん…」

 彼女はすべての写真を繰り返し確かめていた、笑みを浮かべながら。

 …今思えば、彼女はすべての写真に心当たりがあったのだろう。きっと探偵が後をつけていた事に気づいていたのだ。

「それで、わたしにどうしろと?」

「とくに…非難するつもりはありません。あなたの本当のお気持ちを伺いたくて参りました」

「わたしの気持ち? それってご主人に対して本気なのか、それとも遊びなのかって意味かしら?」

「たとえ本気じゃなくとも、将来的に婚姻関係を結びたいと考えておられるか…です」

「つまり、ご主人の財産目当て、という意味ね」

「そうです」

「もしもそうなら?」

「金銭のみをお求めになるのなら、他に提案させて頂こうと考えています。しかし立場…つまりわたしに成り代わって社長夫人の座をお求めになる場合は、それ相応の代償をあなたと夫に課すつもりです。つまり財産分与に加え、賠償金を請求します」

「ふーん」

 彼女はわたしの顔を見た。それも美しい笑顔で。それはわたしを蔑むものではなく、親しい友人に向けるような、朗らかなものに思えた。

「な、なんでしょうか?」

 居心地の悪さを感じていたものの、彼女の容姿には逸らせた視線をすぐに引き戻すほどの誘因力があった。

「奥さん、きれいね」

「え?」 思わず、照れてしまった。

「まあまあそんなに警戒なさらず、もちょっと楽にしてくださいな。ほら上着を脱いで、足も崩しちゃっていいから。あっ、ちょっとクッションを持って来ますわ」

 調子を狂わされつつも、彼女に従い、コートを畳んで床の上に置いた。床はきれいに掃除されていて、埃ひとつ落ちていなかった。本当に寝室から持ってきた厚みのあるクッションを手渡され、わたしはそれを壁と背の間に挟んで、彼女に倣って正座を崩し、両足を横に流した。

 なぜか…もうすでに彼女に心を開きかけていた。異様なほど整った容姿、気品とかわいらしさが混在した仕草とその色香、若いのに艶っぽい声で女性語を堂々と使いこなす不思議なキャラクターに、あっという間に魅せられてしまっていた。敵にするよりも、味方になってほしいという願望が芽生えていた。

 ごくわずかに残っていた敵意を前面に出しつつ、交渉に戻った。夫との不倫関係が今後発展するものであるならば、いずれ訴訟問題に繋がる。もし彼女にそのつもりがないならば、わたしから提案があると、もう一度繰り返した。

「でも、ホステス相手にこの程度の写真じゃあ、不倫とまでは言えないんじゃないかしら?」

「…ええ」

「それもまた、ご提案に繋がるというわけね」

 彼女は本気じゃない。夫程度じゃあ釣り合わない、そう確信していた。

「もしもこの写真よりも決定的な証拠が得られれば、相応の金額をお支払いしたいと思います」

「つまり、わたしに協力を求めている?」

「ええ」

「相応の金額って、具体的には?」

 わたしはネットで調べたホステスの、平均年収の半額程度を提示した。しかしそれが銀座で働く彼女の美貌にふさわしいものか、まるで自信が持てなかった。

「社長夫人が手にする財産と比べると、随分少額ね」

「で、ですが短期間で得られます。それに、煩わしさを回避できます」

「それはそうね。でも、その金額を奥さんがお支払いできるのかしら? ご主人の話によると…」

「浮気の証拠を突きつければ、夫はあなたに解決金、つまり手切れ金を用意するでしょう。相場よりも高額にするよう、わたしから強く求めます。足りない分はわたしが…」

「失礼を承知でお尋ねするけれど、もしもご主人があなたとの離婚を望んだ場合は?」

「それは、…ありえません」

「あらどうして? 言い辛いけれどもご主人は…」

「離婚を望んでいるでしょう。しかし…」

 夫はわたしに対する不満の数々を話しているだろう。ショップの経営に失敗し、多額の負債を作ったわたしの無能さを、彼女はよく知っている。それくらい承知している。

「夫は… 自分からは、その…」

 急に喉が詰まってしまって、うまく話せなくなった。

「慌てないでいいから、ワインで喉を湿らせて。他にはお水しかないんだけど、汲んできましょうか?」と、彼女が労わるように言った。

「い、いえ…」

 ワインをひと口飲んで、数秒間両目を瞑った。何度もシミュレーションしてきたというのに、なんて情けないんだ。

「…すみません」

 声が震えていた。不意に夫の浮気相手に頼みごとをしている自身を憐れんでしまって、感情を昂らせていた。咳ばらいをしたが、なかなか次の言葉が出てこない。

「あ、あの、すみません、今日のところは…」

「ご主人の不貞を理由に、離婚はできないのでしょう?」

 …そ、そう。

「結婚を契機に社長に就任したというのに、碌な実績をあげないまま自身の浮気が原因で離婚なんてしたら、抜擢した人の顔に泥を塗る事になるでしょうね」

 そう、彼女は理解してくれている。

 穏やかな口調に、わたしは素直に慰められた。不思議と気分が落ち着いて、空気がすうっと喉を通り始めた。

「つまり奥さんは、ご主人の弱みを握りたいのね。浮気されても構わない、それと引き換えに夫に対して優位な立場を得たい、というわけね」

「…そう考えて頂いて結構です」

「なるほどね~ 形勢逆転を狙っているのね~」

 屈託ない笑顔で、わたしを覗き込むように顔を近づけた。味方になってくれるかも、そう期待した。

「でも、もしも本気の場合はどうするの?」

「え?」 

「わたしが、ご主人を本気で愛している場合は?」

 そんなはずはない。そんなふうには思えない。

「もしもこの会話が録音されていたら、あなたが浮気の捏造をわたしに依頼しようとした事の証拠になる。わたしはご主人と肉体関係があるとは認めていない。ただお店の常連さんに、営業としてキスしただけの事よ」

 素敵な笑顔、優しい口調は変わらないままだった。

「もしもこの録音をご主人に渡せば、あなたの立場は一層不利になる。それこそ彼の方から離婚を求める正当な理由になりうる。うかつ過ぎるわね」

 収まったはずの感情が、再び沸き立った。両目に涙が溢れ、零れ落ちそうになる。とても止められそうになかった。

「失礼します!」上着を取って立ち上がったわたしを、

「待ちなさい!」と大きな声を出して、彼女は制止した。

 短いため息をついてから、「まあまあ…」と口調を穏やかに戻した。

「どうか落ち着いて。〝 慌てる物乞い 施し減らす 〟と言うでしょう? ちょっと意地悪な言い方だった事は謝ります。録音しているのは本当だけど、どっちの味方をするかはまだ決めていないわ」

 怒りと恥ずかしさ、情けなさで感情がグチャグチャになっていた。おそらく彼女はこの時も優しい笑顔だったのだろうが、自身の泣き顔を向ける勇気は持てなかった。だけど、もしもここで逃げ帰ってしまったら、もう彼女が味方に付いてくれる可能性はなくなると理解し、背を向けたままぎりぎりで踏み留まった。

「ゆっくりお(はなし)しましょう。時間はたっぷりあるわ。そうだ、もしよかったら泊っていって頂戴な」


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