表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Flower  作者: Machio
15/18

第4幕 背信者<Betrayer> Part 3

 20平米ほどのリビングダイニングキッチンに、その半分もない寝室、トイレとバスルームはセパレートで、ウォークインクローゼットが備え付けられているが、従業員数600人以上の会社社長の居宅にふさわしいとは言えない。立地だけは賃料と比較して優れているため、結婚以前に借りていたものをそのままセカンドハウスとして利用していたのだが、まさか再びここで単身生活を送るはめになるとは思っていなかった。

 冷蔵庫からフレンチビールのボトルを取り出し、栓を抜いた。スーツの上着だけ脱いだ状態でソファに腰掛けると、一気にボトルの中身を半分まで減らす。大きなゲップを吐いて、だらしなく背もたれに上半身を預け、ローテーブルの上に両足を乗せた。右手にボトルを持ったまま左手で両目を塞いで、しばし午前中を思い返す。

 妻が犯行に絡んでいるだと? そんなバカな…


「あくまで可能性のひとつです」

「可能性たって…」

「あの、社長、やはりわたしは外でお待ちします」

 法務部長の気遣いを、今度は受け入れざるを得なかった。

「いったい、その根拠は何ですか」

「この犯行は周到に準備されていました。それには日時、天候、ルート等を都合よくコントロールし、それらを実行犯に正確に伝える役割が必要だったはずです」

「しかし、それを知り得た者は他にもいます。わたしは立場もありますので、休日であっても主な予定は社に伝達しております。兄夫婦やその他にも、妻だって周囲に、友人に話した事があると…」

「ええ、それは分かっております。ですがすべてを、納車されたばかりの新車に乗って出向かわれる事や、ワインショップに立ち寄られる事、高速道路の入口、すべて揃って知っておられた方、またそれを他所(よそ)で詳しく話された方というのは、いなかったと私は思います。ご夫婦以外には」

「そんなのわかりませんよ、自宅から兄夫婦宅へのルートは予測できるものだし、ワインは店に予約してあった。どこで情報が漏れたかなんて…」

「ですが、犯行に都合の良い雨天を選んだのは、ひょっとして奥さんでは?」

「いえいえ、それは兄夫婦の都合もあるわけですから」

「その予定は、いつ頃決められたのですか?」

「いつも2、3週間前には互いの都合を確認し合って決めていましたから、その時も…」

「予定が変わった、という事はなかったですか? それも数日前に」

「いいえ、ありません。それは確かです。予定通りでした」

「そうですか。では雨天ではなかった場合、別の機会にしたかもしれません。たまたま都合よく雨天になるから決行した。その前から準備は整っていた。それほどの組織がバックに付いていた、というわけです」

「…あの、まるで妻が犯人の仲間と決めてかかっているような口ぶりに聞こえます」

「いえ、あくまで可能性のひとつです」

 思わず笑ってしまった。

「警察官ってのは、もっとリアリストだと思っていました。まるで小説や映画ですね。妻にはそんな裏社会みたいなものとの接点はありませんよ。ごくごく平凡な主婦です」

「ええ、そう思っております。しかし犯罪者というヤツは、意外に身近にいるものなんですよ。特に財産や社会的地位を持っていらっしゃる方々にはね、隙があればいつの間にか、すっと近寄っているものなんです」

「隙があった事は自覚し、反省しております。 また言われる通り、夫婦関係は良好ではありません。わたしが過去に一度不貞を働いたというのも事実です。妻がわたしを憎んでいる可能性もあるかもしれません。ですがあれはそんな大した、いや、大それた事をする人間ではありません」

「ワインを購入された後、駐車場で乗車した時に侵入された、という可能性はありませんか?」

「はあ?」

「運転席に乗る時に、後ろを、後部座席を確認されましたか?」

「え? ちょっと、いったい何を言ってるんですか?」

「奥さんが後部座席にワインが入った紙袋と、上着を置かれたんですよね。黒のロングコートです。侵入者がそれに身を隠した、という可能性は考えられませんか?」

「後ろに誰かいたら、そんなもの必ず気づく!」

「そうですか? いるなんて全く思っていなかったら、ミラーに映らない角度に身を隠していたら、気づかなくたって不思議じゃない。最初の侵入者は小柄で細身だったと証言されています」

「駐車場で潜んでいたと? 妻が乗せたと言うんですか!?」

「そういう可能性はないかお聞きしているんです」

「あり得ないですよ! 大体もしもそうなら、それこそ駐車場の監視カメラに映っていたのではないですか!?」

「駐車場にカメラは設置されていませんでした。他の、周辺のカメラにも映っていない。盗まれた車はちょうど死角に停められてあった。…もしかしたら、それも準備されていたのかもしれない。空いていたところは、すべて死角にある位置だ」

「停めてあった車がすべて犯人たちのものだったと? それ、本気で言っているんですか?」

「最初のトイレ休憩時の状況を、もう一度お聞きします」

「な、なんです?」

「奥さんの後にあなたが仮設トイレに入って、5分以上中におられたと」

「…ええ」

「その間に、車が替わっていたという可能性は?」

「はあ? ちょっとあなたね、いったい何を…」

「同じ車種、カラー、内装もほとんど同じ、ですが別の車です。ナンバーが違う、タイヤが違う、ホイールが違う」

「あり得ない!」

「この時すでにあなたの車は盗まれていた。以降、あなたは別の車を運転していた。盗難車はあなた方の証言とまったく違うルートを走った。だから映像が一向に見つからない。同じ車種が、運転席と助手席に人が乗った映像はいくつか見つかったが、追ったところすべてナンバーが違っていて、それぞれ所有者がいた、当然盗難車ではない。 …いや、もしかしたら、その中にも犯人の一味がいるのかもしれない」

「ちょっとちょっと!」

「5分でナンバーを取り替えるのは難しいが、車が入れ替わるのは1分もかからない」

「そんなの、エンジンやタイヤの音で気づく!」

「他にも車が走行していたし、雨の音もあった、気づかない! 奥さんは急いで車を降りて、二人目の侵入者、中年の女が運転していた車にすぐに乗り換えた!」

「も、もしも俺が1,2分でトイレから出ていたらどうなる!」

「トイレのすぐ外に男がいた、入れ替わりの間は出てこられないようドアを抑えていた!」

「GPSも、ドラレコも外されたままだったぞ!」

「当然だ、同じ状態のものを準備していたに決まっている。引き抜かれた後のコードの状態は? それもまったく同じだったと断言できますか?」

「たとえ同じ車種でも、内装やパーツが違っていたら気づく! ナンバーだって、目に入ったらすぐに違和感を持ったはずだ!」

「本当にそう思いますか? 納車されたばかりなんだから、違和感も何もないでしょう。内装は他人が予約していたものを横取りしたわけだから、ほとんど指定する事はできなかったはずだ。ナンバーだって番号を指定していなかったのだから、意識しなければ気づかないでしょう」

「だからと言って、いくらなんでも別の車を運転していたなんて…」

「2度目のトイレ休憩の時は? その時に替わった可能性も…」

「そ、そんな面倒な手を使ってまで、車一台を盗むなんて事があるのか!?」

「三人目が言ったのでしょう? あなたを苦しめる事が、理不尽が目的だと。現にあなたは…」

「もうやめてくれ! もう十分だ! あ、あなたはわたしをバカにしているんだな!」

「バカに? いいえ、変な勘違いをしないでください」

「いや! そうに違いない! 被害届を取り下げられて、捜査を無駄にされたと怒っているんでしょう? それは、本当に申し訳ない事をしたと反省しております! この件についてはわが社に、いえ、わがグループに、ひとつ貸しを作ったと考えてくださいますようお願いしております。ですから、どうかもう許してください!」

 長い沈黙が挟まった。捜査員それぞれが、ため息が混じった深呼吸を繰り返した。

「…さっき申し上げました通り、捜査は続けます。ですが、公開捜査が行われない以上、なかなか有益な情報は得られないと思います。盗難車が見つかれば別ですがね。それに、徐々に捜査人員は減らされていくでしょう」

「それは… はい、そうでしょうね。 誠に申し訳ございません」

 頭を下げて、それから席を立つまでの間、ずっと机の上を見続けた。

 管理官はまた深呼吸をした。

「いえ、こちらこそ言い過ぎました。確かに、被害届を取り下げられた事については不満がございます。上と取引されたらしいですが、自分はそういった政治とは係わりがありません。つまり、ただババを掴まされた、という事ですので」

「あの…」

「なんでしょうか?」

「ほんとに妻がその、犯行に係わっているのでしょうか」

「確証はありません。すみません、自分でもさっきは多少、暴走していたと思います」

 周りの捜査員たちが、少しリラックスしたように感じた。

「ご主人がおっしゃった通り、奥さんにもそういった犯罪組織との繋がりは一切見られません。また繋がりがある場合、車1台分よりもずっと多額の金の動きがあるはずです。奥さんにそういったご様子はありましたか?」

「い、いいえ、ありません。ホントに…」

 そんな余裕などあるはずがない。あいつの口座もカードも、すべて俺が管理しているんだ。

「それに今申し上げた事を…細かい推理は別にして、その、ご主人を恨んでいるんじゃないかという嫌疑をですね、先だって別の捜査官が、奥さんにも直接お伝えしております」

「えっ!?」

「もしかしたらボロを出すかもと、つまり、自白を得られる可能性がございましたので。あくまで犯人である場合ですがね」

 固まってしまって、続けて尋ねる事ができなかった。

「ですが、断固として否認されました。取調官はこれまで何十人と自供を引き出した実績のある凄腕なのですが、少しも動揺しているようなそぶりは見られなかったようです。もしもあれが演技ならば相当なタマだ…いや失礼、平凡な主婦なんかではないだろう、と申しておりました」

 そんな… あり得ない。

「今後、もしも何か少しでも気になる事がございましたら、どうかご相談ください」


 マスクで下半分が隠れていたせいか、余計に捜査官たちの目つきが厳しく見えていた。彼らは妻を疑うと同時に、俺をも容疑者扱いしていたように思える。妻の関与を知っていながら隠している、それもあって被害届を取り下げた、とでも思っていたのだろうか。

 半分残っているビールをそれ以上飲む気になれず、ボトルをテーブルの上に置いた。

 あいつがあんな事を、俺をはめるなんてできるはずがない。美人で愛嬌があるだけで、他にこれといった取り柄のない、普通の女だ。 そう… 俺に一切のプレッシャーを与えない、不満を言わず、ただ傍にいて、黙って話を聞くだけの美しい花。俺はあいつにそういう妻でいる事を望んでいた。なのに… 今は愛嬌さの欠片もない。

 漸く業績を立て直し始めていた矢先にこのザマだ。今だって、様々な業務を副社長に委任し、昼間に帰宅してしまっている始末。…わかっている、もともと俺には社長なんて分不相応なんだ。せめてあと10年は実績を積んで、周囲に認められてから就くべきだったんだ。なのに結婚したからといって、責任ある立場が人間をつくるなんて言われて祀り上げられ、おまけに就任後まもなくパンデミックなんて不運に見舞われて…。

 しかし、今さら後に退くわけにはいかない。一度でも退けば兄に、従弟達に大きな差をつけられて、二度と追いつけなくなるに違いない。そうしてあらゆる場で隅の席に追いやられる。…父のように。 あんな惨めな扱いは絶対に嫌だ。

 足をテーブルから下ろして、神に願うように結んだ両手に額を付けた。

 こうなってはもう… せめてこれ以上傷を広げないようにしなくてはならない。これ以上信頼を失うわけにはいかないのだ。だからもしも妻が犯行に関わっているとしたら、必ず警察よりも先にそれを突き止めて…

 スマホの着信音が鳴った。立ち上がって、ハンガーにかけてあった上着のポケットからスマホを取り出し、表示された名前を確認する。その後数秒間逡巡したが、それでも鳴りやまないので通話をタップした。

「…もしもし」

 返答の前に、少し含んだような短い笑い声が聞こえた。

「やっぱり出た」

「…かけてきておいて、何を言っているんだ」

「それもそうだけど、もう一切かかわりをもたない、と言ったくせに。無視できなかったのね」

 やはり笑っている。

「いったい何の用だ」

「ごめんなさい、きちんとお別れしたのですから、もう二度とお話するつもりなんかなかったのですけれどね。さっきちょっと面白い光景を見かけたので、お知らせしておこうかと思いまして」

「何だ」

「あら、すいぶんそっけない口ぶりね。ほんのひと月前までお店に通い続けて、ずっと口説いてくださっていたのに」

「どうせその気はなかっただろう」

「さあ、それはどうかしら」

「用じゃないなら切る」

「ちょっとちょっと、そう慌てないでよ。〝 慌てる壁穴つっかえる 〟っていうでしょう? 今ね、友達と渋谷にいるんだけど、ついさっき、奥さんを見かけたの」

「なに?」

「それも奥さん一人じゃなくって、若い、20代前半くらいに見える男の子と、一緒に歩いていたの」

「…どんな男だ」

「だから若い子、背が高くてアスリート系の…イ、ケ、メ、ン。 だからね、ひょっとして浮気かもって思って、それならそちらに教えてさしあげようかな、とこうして電話してあげているの」

「本当に本人なのか? からかっているんじゃないだろうな」

「あら、信用してくださらないの?」

「あたり前だ」

「じゃあべつにいいけれど、せっかく写真を撮ってあげたのに」

「…送ってくれ、金を払う」

「お金なんて要らないわよ。 …そういうところなのよね」

 間にため息が混じっていた。

「なんだと?」

 通話が切れた。

 金を払うと言われた事がそんなに気に障ったのか? お前にそんな資格があるのか? はした金で俺を裏切っていたくせに。妻に浮気の証拠を売っていたくせに。いいや、浮気なんてしていない。思わせぶりな態度を見せてはせいぜいキスどまりで、いつも土壇場で身を躱しやがった。俺をずっとからかっていたんだ。どれほど美人だろうが、俺をバカにする女は許さん! お前も、妻も!

 画像が送られてきた。すぐにファイルを開いて確かめる。距離があって、拡大するとかなり解像度は落ちるが、妻である事は間違いない。しかし斜め角度から撮影しているため、横を向いている男の顔はよくわからない。背が高く、スマートだが筋肉質に見える…心当たりはない。

 着信履歴から電話をかけた。

「はい、もしもし」

「俺だ」

「わかってるわ」

「撮ったのはこれだけか?」

「ええ、奥さんじゃない?」

「妻だ」

「浮気の証拠って言うほどじゃないでしょうけれど、少なくとも疑惑の根拠にはなるでしょう?」

 ああ、なる。浮気でなくとも。

「いつ撮った?」

「30分ほど前よ」

「今もその辺りにいるのか?」

「そんなの知らないわ」

「渋谷のどこだ? 場所を教えろ」

「えっ? まさか来る気なの?」

次回

幕間<Interlude>

のみ、3月15日投稿予定です


第5幕(最終幕)は3月末ごろ投稿予定です

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ