第4幕 背信者<Betrayer> Part 2
捜査首脳陣、つまり刑事部長をはじめ、捜査一課長、担当管理官ほか、4名の警視庁捜査官が同席した本庁内の応接室で、夫はあいさつ直後、床につけそうなほどの勢いで深く頭を下げた。個室に9人も集まっているため、全員がマスクの着用を義務付けられた。
「この度は多大なご迷惑をおかけして、誠に申し訳ありませんでした」
隣に立つ中年の男もまた、同様に頭を下げた。彼は会社の法務部長であり、此度の夫の8度目の聴取、及び被害届の取り下げについて説明するため、同席したのだ。
「まあまあそんなに畏まらず、どうか顔を上げてください。皆、ご事情は理解しておりますので」
「いえ、もうわたしには、こうして頭を下げてお願いするしかございません。まったく不徳の致すところでございまして…」
二人とも、もう一度頭を下げた。
「まあまあ、どうぞお座りください」
部長が〝理解している〟と言っている以上、もはやどれほど異議を唱えても無駄だろう。しかし管理官をはじめ、実際に捜査を行ってきた捜査官たちはそう簡単に引き下がるわけにはいかない。容疑者を見るような視線を2人に注ぎ、夫もまたそれを認識していた。
「御足労頂きありがとうございます。早速ですが、被害届を取り下げられた理由をお聞きしたい」
夫の向かいに座った管理官が、丁寧ではあるが強い口調で尋ねた。
「おいおい、それはもう分かっているだろう?」と部長が諫めたが、
「改めてご本人から説明を伺いたいのです」と譲らない。
「しかしね…」
「他県警や所轄を含めて、この事件の捜査には200名以上が動員されているんです。皆昼夜を問わず広域に渡って聞き込みや、数千時間もの監視カメラの映像とにらめっこしてきたんですよ。どうかそれを慮ってください」
管理官の隣に座った課長が、夫から視線を外さないまま言った。2名の捜査官がそれぞれ課長と法務部長の隣に腰を下ろし、席がない2名が立ったまま夫たちの背後に回って取り囲む。部長を含めて全員が警察官らしい威厳と迫力をもったスーツ姿の男で、おそらく皆自分よりも年上のため、夫は委縮せざるを得なかった。
「ではわたしから…」
「いや…」 弁護士資格をもつ法務部長を、夫は片手をあげて制した。
「恥を偲んでお話します」
その後、時々法務部長が代行したが、概ね自身で説明した。
盗まれた新車は…会社が購入したもの、つまり社用車だったのだ。夫はその車を私用で使うため、別宅である賃貸マンションの駐車場に常駐しようとしていた。社用車の私的利用は社則違反であり、社長が兄夫婦宅を訪問するために使用する事は、まぎれもない私的利用だ。また税務上でも問題がある。保険をかけてあったため、被害届を出すと同時に盗難保険の適用を保険会社に求めてしまったのだが、私的利用を指摘され、大問題になってしまった。今のところ社内では事情を知った一部のもので留めているが、もともと刑事事件が絡んでいるため、会社グループ上層部に詳細説明が必要となり、当然会長である夫の大叔父にも伝えられた。夫は大叔父から直接的に、事件被害への労りは無視され、強い叱責を受けた。社長ともあろうものが、600万円程度の私的支出を会社に負わせた事、そして認識及び確認不足のまま社長指示で保険会社に申請させてしまった短慮を強く責められ、社長失格の烙印を押されてしまったのだ。必死の嘆願で懲戒処分、つまり社長からの降格を保留してもらったが、それには条件があった。
「それで被害届を取り下げて、公開捜査を行わないようにしたい、という事ですか」
管理官はため息をついた。
「やれやれ、じゃあ聞き込みも制限されるんですかね。マスコミに嗅ぎつかれないように」
課長は漸く夫から視線を外した。
「公開しなければいいんでしょう?」と、後ろに立っている捜査官が言った。
「捜査は頭打ちなんだろう? 公開捜査は検討されていた」と、部長が挟む。
「ええ、ですが現状でも有力な情報がまったくないわけではありません。鋭意調査中です」
管理官が両腕を組んだ。彼はまだ厳しい目つきで夫を睨んでいた。
「たとえ被害届を撤回されても、これは強盗致傷、監禁、それに銃の所持が疑われる重大事件です。捜査は継続されます。それはお分かりですね?」
「ええ、それはもちろん…」
「今後も取調や現場確認など、捜査協力は求められますよ」
「はい、その…犯人はぜひ捕まえて頂きたいのです」
「ただマスコミには漏らすな、って事だ。幸い今のところは特に注目されておらんだろう?」
「ええ、まあ殺人でも誘拐でもありませんからね。車が一台盗まれたってだけじゃあ…。ただ犯行内容自体はなかなか珍しいケースですからね、漏れ出たら記事にする奴が出てくるかもしれません」と、課長がうすら笑いを浮かべて言った。
「だから漏れないよう厳しく言っとけって事だよ」
「言うだけは言いますがね、保障はできませんよ」
「保障しろ、被害者の情報漏洩は許さん」
「無茶言いますな~」
「何卒、お願い致します」 夫と法務部長は机に額をつけんばかりに頭を下げた。
「最大限の努力はします。 しかし… その、税金の方はきちんとされるんでしょうなあ」
「は、はい、当然です。保険の申請は取り下げました」
「その辺はどうかお願いしますよ」
「まあまあ、脅かすのはその辺にしておきなさい。これから日本経済も立て直しに取り組んでいかなくちゃならないんだから。大企業さんにはしっかりと牽引していってもらわなくちゃ。もちろん適正会計で以てね」
「はい、肝に銘じますので…」
視線を下げたままの夫を、管理官はじっと見つめた。課長も、まわりの捜査官も、それぞれがこれまでの捜査情報を踏まえて熟考した。
不正は車一台程度では済まないのかもしれない。それは夫の会社だけでなく、グループ全般に蔓延しているかもしれない。税務署やマスコミに痛い腹を探られたくないが故、こうしてプライドを捨てて、何度も頭を下げているのだ。
夫は保護された当初、ガソリンスタンドへの不法侵入を疑われたため、憤慨していた。それは理解できるが、以降の聴取、スタンドでの現場検証、車に同乗しての走行ルート検証等においても、初めの頃はずっと不機嫌で横柄な態度を取っていたため、応対した捜査官たちからの評判はすこぶる悪かった。さっさと社長から降ろした方がいいぞ、と会長に忠告してやりたいくらい、とまで陰で言われていた。
しかし、こうなると捜査官たちの間でまことしやかに囁かれていた、被害者犯人説の信憑性が揺らぐ。夫が社長といえどもまだ若いゆえに愚かで、妻の失敗で失った資産を幾分か補填するために車を盗ませて、あとでその車を売った金を利益にする、という説だ。夫を嫌った捜査官から発生した冗談話がもとで、当然穴だらけの推理だったが、なかなか発展しない捜査状況の中で、その穴を埋める説明を他が勝手に付け加えて、どんどん発展していった。3人の侵入者は当然、ニセ警察官やニセスタンド店員も夫の仲間で、それ故に再三のトイレ休憩時にも一切反撃しなかった、妻を被害者かつ目撃者にして証言を補強させる、あやふやな走行ルートの証言、普通免許を持っている妻に運転させなかった、また傷つけて後部座席に追いやったのはルートを記憶させないため、そして何よりも夫に疑いを持った理由は、ガソリンスタンドに入った時間帯が、スタンドの店長の証言とずれていたからだ。夫が証言した時刻、午後8時45分に対して、店長は午後9時までの営業を証言したのだ。アルコールと薬によって意識混濁していたとの見立てで、捜査はそれから2時間以上を足して、つまり午後11時まで枠を広げたのだが、有力な情報は得られていない。そればかりか、漸く見つけた車が映った映像のいくつか…といってもわずか数点で、どれも雨や夜間のせいで特定できないもの(つまり車種やカラーは同じだが、ナンバーやドライバー、同乗者の顔等が確認できないもの)なのだが、それらもまた、夫がルート検証時に証言した時刻と、悉くずれがあったのだ。
夫は度々自身の腕時計や車内のデジタル時計を確認していたつもりだが、激しく動揺していたので記憶違いをしているかもしれない、と弁明した。それはもっともな理由と考えられる。しかしそのいい加減な証言のせいで、捜査を攪乱されている事は確かなのだ。
だがこれはあくまで根拠が薄い疑惑である事を、全捜査官が理解している。夫を犯人の一味とするならば共犯者、つまり盗難車の、おそらく海外への密輸を生業とする犯罪組織との繋がりが必須となるわけだが、夫の身辺調査を行ったところ、その疑いは今のところ皆無だ。またたとえ繋がりがあるとしても、たかが600万円の車1台では、夫の取り分はいいところ100万程度で、まったく割に合わない。しかも結果的に車の保険金は得られず、夫は責任を取って会社に車の代金を返済する事になったのだろう。つまり差し引き500万円もの損害を被った事になるのだから、こんな馬鹿らしい話はない。いくらなんでもそこまで愚かではないだろう。
また夫婦の共犯、つまり狂言という説もあった。夫婦が芝居を打って犯罪をでっちあげ、保険金をせしめようとした、というものだ。そう考えると目撃証言がない点、未だトイレ休憩の現場が2カ所とも見つからない事や、ニセ警官、ニセパトカーの存在を示す証拠も見つからない事に説明がつく。つまりニセ警官などもともといないのだ。証言があやふやな理由を納得させて、捜査が難航するストーリーを描いた、という事だ。 が、素人が考えて実行するにはあまりにもハードルが高い。どこかでボロが出るはずだし、もしもそうならもうとっくにそのボロが出ているはずだ。それに盗難車の隠し場所や売り先、ガソリンスタンドや空き家の工作など、結局は裏社会との繋がりが必須になる。却って損害を被る結果となったのも先の説と同じだ。夫婦ともに愚か、という理由だけで企んだとするには無理がある。
二人をそれぞれ担当した取調官の話では、事件内容の証言について、嘘をついているような気配は感じない、との事だ。もちろん取調官の印象だけで判断してはならないが、それぞれ有能で、実績のある取調官である事も確かだ。しかし、それにしたって犯行を示す証拠が少なく、しかも確定できるものがないのは不自然だ。監視カメラを邪魔する雨天を狙った犯行と推測できるし、それに合わせて仮設トイレやスタンド、空き家の準備を行ったという事は、プロの犯罪集団、組織が関わっている事は間違いない。夫婦が兄夫婦宅を訪れる予定、また自宅から行きつけのワインショップに寄り道して走行するルート…それを知る者は、兄夫婦を含めて複数いる事は確認している。そこから漏れ出た可能性も高い。しかしより確実な情報源がいたと考えた場合…。 それに1人目の侵入者が現れた時、つまり車に侵入した時の目撃証言がない事もおかしい。監視カメラには惜しくも映っていなかったのだが、渋滞中の車の間を縫ってから侵入したとすると、その姿を見ていた他のドライバーがいて当然だ。だが、侵入時前後に盗難車の周囲にいたと思われる車のドライバー数名を調べ、聞き込みを行ったところ、目撃証言は出なかった。…公開捜査を行えば他に見つかるかも知れないのだが。 もしかして、それ以前に後部座席に乗って、身を伏せていたという可能性はないだろうか。
結果的に保険金は得られず、却って車代金の損害を被った。それに加えて夫は社内の、グループ内の信頼を失い、会長からの評価をかなり下げた。犯行目的を嫌がらせのみとするならば、かなりの成果をあげたと言えるのではないか。
「粉河遊姫さん、というお名前の女性、ご存じですよね」
管理官が落ち着いたトーンで沈黙を破った。
「え? あ、いや…」
「すみませんが、少し身辺を調査させて頂きました」
「えっ、 いや、それは…」
「おい、場所を弁えろ」と言って、刑事部長は夫の隣にいる法務部長に目をやった。
「社長が最近親しくしていらっしゃる方です」
部長の視線に気づいて、法務部長は席を立とうとした。
「わたしは一旦席を外します」
「い、いや、いい」
もうばらしたも同然だ、と夫は考えた。
「通っているクラブの、ホステスです」
「客としてのご関係だと?」
「ええ」
「男女のご関係では?」
「おい~」と部長がまた諫めるが、課長が「まあまあ、我々は少し席を外しましょう」と言って席を立った。管理官の肩に片手を乗せて「あとはよろしく頼むよ、くれぐれも穏便にな」と力強く言うと、部長を促して一緒に部屋を出て行く。立っていた捜査員が、空いた席にそれぞれ腰を下ろした。
「どうでしょうか?」
「いえ、そういう関係ではありません」
「盗まれた車を購入する際、その方と一緒にディーラーを訪れていらっしゃった。つまり店外デートをするくらいの仲ではあるのでしょう?」
「車好きと聞いたから、選ぶ時に付き合ってもらっただけです」
「ですが、現在奥さんとは別居中でいらっしゃる」
「それとこれと、一体なんの関係があるのでしょうか?」
「ご夫婦の関係を確認しております」
「ですからっ 何の関係があるんです!」
傲慢さが若干顔を出し始めた。
「以前にも浮気をされていたという情報がございます。粉河さんとの関係もまた、同様のものではございませんか?」
「そんな事! 答える義務があるのでしょうか!?」
「浮気が原因で、かなり前から夫婦仲が非常に悪化している。奥さんがあなたを憎悪している、という状態ではありませんか? あなたを心底苦しませたいと思っているほどに…」
「な、何を言っているんだ!?」




