第4幕 背信者<Betrayer> Part 1
「それで奥さんは、翌朝に目覚めるまで意識がなかった、その間の記憶は一切ない、という事ですね?」
「はい」
「その、ほんの些細な事でも、定かでなくとも、うっすらと覚えているような事もありませんか?」
「すみません、これまで何度も申し上げたとおりです」
警察の聴取を受けるのはこれでもう7度目だ。話せる事は、記憶している事はもう3度目で出し尽くしているというのに…。
「いいえ、こちらこそすみません。こうして同じ事を繰り返しお尋ねするのは、これはまあ我々の仕事なんですよ。実際、時間が経ってから甦るものもございますし、それが事件の解決に結びつくケースもございますのでね」
警視庁で初めて事情聴取を受けて以来、聴取者はずっと同じペアだ。主に聴取を行うのは眼鏡をかけた細身の、真面目そうな中年の男で、温和で紳士的な態度を崩さないが、回数を重ねる毎に少しずつ距離感が近くなっているような気がする。補助は女性でおそらく30代前半、基本的には後ろでノートPCを使って調書を作成しているが、内容によっては…例えば、仮設トイレに入った時や、3番目の侵入者に傷を手当てしてもらった時の状況説明など、ほんの少しでも性的な要素が含まれる可能性がある場合、役割を交代した。二人ともスーツ、ノーネクタイ姿。またいつも白いマスクで顔の下半分を覆っているので、未だにどんな顔をしているのかよく分からない。
「奥さんが目を覚まされた場所は、通報があったガソリンスタンドから、県を二つ挟むほど離れていました。高速道路を使えば2時間程ですが、監視カメラの記録にはご主人の、つまり盗まれた車が映っているものは今のところ見つかっておりません。ならば一般道を夜間に何時間もかけて移動したか、もしくは途中で車を乗り換えて移動したか、という可能性が生じます。もしも奥さんに車を乗り換えた記憶が、その、体を抱えられたりしたような記憶がね、少しでも残っていましたら、捜査範囲の幅をいくらか狭められるのですが…」
「すみません」
「やっぱりわからない?」
「ええ、ガソリンスタンドを出てからの記憶が、まるでないんです」
「う~ん、そうですか~」 軽く舌打ちして、取調官は両腕を組んだ。
あれからもう3か月以上が経過した。夫が5分経ってもトイレから戻らない事を伝え、男は車を降りずに運転席に移って、発進した。すでに意識を失いかけていたが、おそらく5分から10分程度走った後に停車したところまではかすかに覚えている。その時に男が仲間と合流して給油したか、もしくは別の車に乗せられたかは、本当に記憶していない。
翌朝、マットレスと毛布だけのベッドの上で、わたしは目覚めた。水道も電気も通っていない空き家だったが、埃まみれの廃屋というわけではなく、きちんと清掃されていて、そのまま売りに出されていてもおかしくないものだった。フローリングの床にスマホが2台、電源を切ったまま置かれていた。屋内に誰もいないことを確認してから、スマホで自分がいる場所を調べ、警察に通報した。30分以上かかってパトカーがやってきた。もちろん本物のパトカーと警官たちだ。
わたしが警察署で身体検査及び薬物検査を受けている間に、夫からも通報があった事を伝えられた。夫はガソリンスタンドの事務所で眠っているところを、出勤してきた店長に発見された。つまりあの時の店員は偽物で、侵入者たちの仲間だったと思われる。スタンドの事務所や電源装置の鍵は壊されていたわけではなく、また監視カメラの映像も消去されていたため、店長をはじめ店員の関与が疑われたが、それぞれにアリバイが立証されたため、それらは侵入者たちの仲間、つまりこの犯罪は複数のプロによる仕業と断定された。
財布やその他身の回りのもの、スマホは夫のものも含めて電子マネーや各口座に被害はなく、情報を奪われた可能性の心配だけが残った。車の盗難以外では長時間の監禁、拳銃(真偽のほどは不明)による脅迫、嫌がらせ、そして傷害致傷の被害を申告する事になり、本庁を中心に、複数の県警による連携捜査が行われることになった。
しかし未だ容疑者はおろか、目撃者の1人も見つけられないままでいる。被害者の証言、記憶が明確さに乏しいため、スタンドを出た後も含めて盗難車が通ったルートを確定できず、関東、東北、中部の交通網に設置された膨大な量の監視映像の調査は、ずっと難航し続けている。雨天、夜間故に映像の解像度についても支障があり、盗難車が広く流通している車種、カラーである事もマイナスに働いた。
「今回ね、少し聞き辛い事をお尋ねすることになるんですが、どうかご理解いただきたいんです」
「はあ」
「ご夫婦の関係をね、つまりその、仲が良好でいらっしゃるか、ちょっとその、うまくいっていない所があるか、それを教えて頂きたいんです」
「え、その、べつに…普通だと思います」
「普通っていうのは?」
「え?」
「普通に仲が良いって事でしょうか? あまり会話もしない事が普通っていう夫婦もいらっしゃるでしょうし…」
「会話は、あまりしませんが、その、とくに喧嘩しているわけでもありませんので」
「ですが現在、別居していらっしゃるんじゃないですか?」
「…別宅はございますが、本住所は二人とも同じマンションです」
「書類上はそうでしょうけれど、実際は別々に暮らしていらっしゃるんでしょう? それも事件よりずっと前から」
「何を仰りたいんでしょうか?」
「すみません、こういった失礼な事をお聞きするのも、捜査の一環なんですよ。僕だって非常に心苦しいんです。被害者に対してなんというか、プレッシャーをかけるような真似をするなんて、ほんと警察ってのは嫌らしい仕事です。 ところで奥さんは、昨年経営していらっしゃったお店を閉められたんですよね。それは、うまくいかなかったというわけですかね? なにか他に理由があっての事ですか?」
「…わたしに、経営能力がなかっただけの話です」
「いやあ、時期を考えると無理もないでしょう。オープンして間もなく緊急事態宣言が発令されたわけですから、運が悪かったという他ない」
そう… 運が悪かった、どうしようもなかった。わたしに能力が足りていなかったことも確かだけれど、それ以上の要因もあった。なのに…
「ネット販売もされていたようですが、やっぱり女の人は実際にお店で服を着てみたり、化粧品なんかも試してみたりしてから購入したいでしょうしねぇ」
後ろを向いて補助官に同意を求めたようだが、彼女は気づかなかった。
「それに…」
ひと呼吸を挟んで、言い辛そうに演じつつも、はっきりと問う。
「ご両親を続けて亡くされたんですねぇ。それはさぞ、お辛い思いをされたでしょうなぁ」
「…ええ」
「お父さん、お母さんを失い、お仕事も失った。まだお若いですし、精神的に追い詰められてしまって当然です。それが原因で、夫婦仲が悪くなっちゃったのかなぁ?」
気を遣っているように見せかけて、その実プレッシャーをかけている。本当に警察は嫌らしいし、油断ならない。
「もしかして、私を疑っていらっしゃるんですか? 夫を憎んでやったと?」
「いやいや、誤解なさらないで」
「夫はわたしが作った負債を支払ってくれました。感謝こそすれ、恨む筋合いはありません」
「では、どうして別居していらっしゃるんでしょうか?」
「わたしが迷惑をかけてしまったから、それで少しギクシャクしているのは確かです」
「あなたに落ち度があるとおっしゃるならば、狭い別宅で暮らすべきはあなたの方じゃないですか?」
「それは夫の善意です」
「う~ん、そうでしょうかねぇ」
聴取者…いや、取調官は腕組みを解いて、両手のひらを机の上に載せた。
「奥さんがご存じかどうかはわからないのですが、まあ、警察はいろいろな可能性を吟味して捜査しますのでねぇ」
「なんのお話ですか?」
「うん、いやまあ、今のところそれは置いておきましょう」
夫の身辺を、浮気の事を調べたのだろう?
「以前にも話しましたが、我々が解せないのは、この犯行がね、利益に見合っていないところなんですよ。 そうでしょう? お二人が言うように3人の侵入者、複数の監視者、ニセ警察官2名とニセスタンド店員、ニセパトカー、それに閉店後のスタンドや空き家の工作、もしかしたらプレハブや仮設トイレの設置、撤去までして、新車とはいえ普通乗用車一台だけを盗むなんて、それはあり得ませんよ」
「夫が話したと思うのですが…」
「嫌がらせ、ですか?」
取調官は苦笑した。
「車の納品を不当に延期された方は、この事件に一切関係がありません。それは断言します。事実を知らされて、お店を訴えると相当怒っておりました。反社組織については、まだ捜査中ですが、今のところ疑いのあるものは出ておりません。 では、他に恨みを買っているような心当たりはありますかね? 奥さんとご主人それぞれに、大金をかけてまで嫌がらせをするような人物の」
「それも何度かお答えしました。思い当たる節はありません。それに、わたしは夫に恨みを抱いておりません」
「それでは、ご主人の方はどうでしょうか?」
「え?」
「資産を減らした妻を、恨んでいるなんて事は?」
「二人ともひどい目にあったんですよ」
「傷を負ったのはあなただけです」
「夫だって最初の男に頭を殴られていました。長時間運転させられて、怒鳴られて、バカにされて… ずっと苦しめられていました」
「あなたがそう思い込んでいただけでは?」
「どういう意味ですか」
「演技だった場合は? 苦しんでいるふりをしていた。頭を殴られたって言っても、傷がつくほどのものじゃなかった。長時間の運転たって、8、9時間程度なら、度が過ぎているとまでは言えないでしょう。トイレ休憩もあったわけですし」
「お酒を無理矢理飲まされました」
「ええ、しかしその後3、40分ほどでスタンドに入ったんでしょう? お二人が朝まで眠ってしまったのは、おそらくワインに混ぜられた薬物を飲んだ事が原因です」
「演技だなんて思えません。夫は俳優じゃありません」
「妻が脅える様子を見て、楽しんでいたのかもしれません」
「あり得ません。夫が演技しているかどうかくらいわかります」
「いいやあ、わかりませんよ~」
取調官は嫌らしそうに笑った。
「結婚歴たった4年なんでしょう? それくらいじゃあ分からない事の方がずっと多いですよ。僕なんて結婚してもう20年ほど経ちますが、妻の気持ちなんてまるで分からないですよ」
同意を求めようとまた振り返ったが、補助官はまた気づかなかった。もしくは無視していた。
「捜査が進展しないからって、無理やり被害者を犯人に仕立てようとしないでください」
「違いますよ、あくまで可能性のひとつを当たっているだけです」
取調官は息をつくと、机から手を下ろして、軽く頭を下げた。
「いや、ま、どうか落ち着いてください。どうもすみません、ずいぶん失礼な事を言ってしまった。疑いを持つことが警察の仕事ですが、ちょっと行き過ぎましたな。どうかお許しください。 おっしゃる通り、高速を降りた後の足取りがなかなか掴めないままですので、焦っているのは確かです。目撃者がいないものですから、お二人の証言そのものを疑う意見が出てくるのも、致し方ない事なんですよ」
「ご面倒をおかけしている事は、重々承知しております」
「いえいえ、それはもう、それが我々の仕事ですから。 しかしですね、お二人に疑いの目を向けてしまったのには、大きな理由がございましてね。奥さんもお分かりだと思うのですが…」
「え、ええ…」
「もう一度お尋ねします。どうしてご主人は、今になって被害届を取り下げられたのでしょうか?」




