第3幕 熟練者<Expert> Part 3
すみません 3幕残り1話
昨晩投稿し忘れたまま寝ました
道路を照らす灯が少なく、ヘッドライトを頼りに安全走行を続けた。道は次第にカーブが増えていって、車線も狭くなっていった。角を曲がって、上り坂と下り坂を数回繰り返しながらしばらく進むと、また広い道幅に戻る。周囲が田畑ばかりなって、他に車はほとんど見なくなった。
「怖いか?」と男は呟くように言った。
「え?」
「ずいぶん速度を落としている。暗い、知らない道を走るのは怖いのだろう」
「気をつけているんです。ワインを飲まされたから…」
「昔は…限度はあるが飲酒運転くらい普通だった。多少酔ってたって、真夜中だろうがどの辺を、どっちの方向を向いて走っているかなんてすぐにわかった。ナビなんて要らん。お行儀が良くなったのも、便利になったのも結構な事だが、楽をする分、人間の感覚機能は衰えていくんだ」
男はかなり年輩なのか、少なくとも40半ばは超えているのだろう。
「そう言って自分を過信して、事故を起こすバカがたくさんいる」
「そうだ。肝臓と感覚が劣っているんだ。自分の弱さを知らないバカが事故を起こす」
「…それとこれに何の関係がある?」
「なに?」
「飲酒運転を強いる事に、どんな意味があるんだ」
「そんなもんない。酒を飲んだらまともな運転ができない、ナビがなければ自分がどこにいるのか分からない、お前はそういうやわな人間だと教えてやっているだけだ」
夫は首を左右に軽く振った。
「それが言いたくて、GPSを壊して、酒を飲ませたと?」
「だったらどうする?」
「そんなバカな話…」
「あり得ないよな」
照らされるのは濡れた路面とガードレールばかり。たまに赤信号で停車しても、周囲に建物がなく、さっき止まった交差点と同じ場所に思えた。アルコールと雨の音が、徐々に思考を奪っていったのだ。
「もう少し行くと左手にガソリンスタンドがある、そこで給油とトイレだ」
給油という事は、この後も…きっと夜通し運転させられるのだろう。男はまた誰かと交代して、予測できない恐怖と緊張がずっと続くという事だ。…とても耐えられない。
男が言った通り、ガソリンスタンドがあった。どこでも見かけるような、3台分の給油機を備えたセルフのスタンド。だが電灯が消えていて、車は一台も止まっていない。
「入れ」
「しかし、閉まっているんじゃ…」
「いいから入れ」
中央の給油スペースに停車した。車内のデジタル時計は20時45分を表示している。こんな田舎にあるスタンドならば、もう閉店していたって不思議じゃない。
男が右手を伸ばし、クラクションを三度鳴らした。すると事務所の電灯が点いて、紺色の繋ぎの作業服を着て、同色のキャップを被った男が1人、外に出てきた。
「給油は俺がやる、交代でトイレを済ませろ」
夫は振り返って「おい」と呼びかけたが、妻は返事しない。体を背もたれ側に向けて、上着を枕にして横たわっている。空になったグラスが、顔と背もたれの間に横にして置かれていた。
「おい、…まさか眠っているのか?」
妻は寝返りを打って、顔を夫に向けた。うすく目を開いている。両足を腿まで露出し、両腕で寄せた豊かな胸の谷間を、Vネックの隙間から覗かせた。
「…トイレだ」
「…そっちが先に行って」
夫は呆れたようにため息をついて、妻を睨みながらシートベルトを外した。
「5分で戻れ、でないと…わかっているな?」
小さく頷いてドアを開ける夫に対し、男は少し口調を強めて、「返事をしろ、5分で戻らないと妻を殺す、わかったな?」と言った。
「…わかりました」
夫は事務所に向かって歩いた。入れ違いに店員が給油機に向かってくる。きっと閉店間際だったため、すでに落としてしまっていた電源を入れ直すのだろう。
事務所内に他の店員はいない、当然客も。トイレを済ませた後、スマートウォッチを確認する。まだ2分以上残っている。事務所内には粗末な4人掛けの応接セット、奥に飲料の自動販売機が1台と、その横にカウンターがあって、内側にレジと電話機が置いてあった。ドアが開いて、さっきの店員が足早に入って来ると、カウンター内に入った。夫は飲料を選ぶふりをしながら、片づけ物をし始めた店員と電話機を見つめた。残り1分20秒だが、走れば10秒で車に戻る事ができる。まだ考える時間がある。
もう無理だ。すっかり酔いが回ってしまって、このままではいずれ事故を起こしてしまう。そうなれば結局2人とも殺される。侵入者たちはそう言った。もしくはただの脅しの場合は? ずっとこのまま従い続けてなんの意味がある? あの男が言ったように理不尽が、俺をこけにする事が目的ならば、それはもう十分果たせているんじゃないのか? ただ可能な限り続けているだけなのかもしれない。予約していた車を横取りされたからって、それで殺しまでするはずがない。やはり反社からの脅しだとしても、俺を殺してしまってはなんの意味もない。そんな無謀なやり方をするはずがない。やるとしても…妻の誘拐がギリギリのラインだろう。
残り40秒を切る。夫は店員に話しかけようとした。助けを求め、警察に電話するよう頼もうとしたのだ。だが… 店員はキャップを深く被っていて、顔を隠しているように思えた。もしもこの店員が、あの偽警官たちと同じように男の仲間だったら? もしも拳銃が本物だったら? もしも理不尽が、嫌がらせが、最終的には夫婦の命を奪う事も厭わない程のものだったら?
「あの、もしかして…」 あなたも彼らの仲間なのか? そう尋ねてしまっていいのか? もしも仲間なら、またイエローカード、もしくはレッドカードを出されて妻が、いや、今度は自分が傷つけられる。そして地獄のドライブが継続されるのか? 冗談じゃない! もう限界だと何度も言っているだろう!?
「どうしました?」と店員が問う。その発音に、善意と悪意の両方を感じた。
残り…10秒を切った。…が、夫は店員の顔の下半分しか確認できないまま、そこに立ち尽くした。きっと男が連れ戻しに来るだろう。少し殴られて、首根っこを掴まれて連れて行かれるかもしれない。店員が仲間じゃないならば、様子がおかしい事に気づいて警察に届けてくれるかもしれない。そうなれば不可抗力だ。俺は妻を裏切っていない。見殺しにしていない。ただ小便を出すのに、少し手間取ってしまっただけだ。
しかし一向にドアは開かない。もう30秒以上オーバーした。
夫はおそるおそる外に出た。納車されたばかりの新車はいなくなっていた。激しくなっていた雨の音にかき消されて、車が発進した事にまったく気づかなかったのだ。雨のせいだけではない。夫は精神だけでなく、肉体的にも異常をきたしていた。
視界が回る。天と地が何度も入れ替わって、3台の給油機と事務所が、メリーゴーランドのように上下しながら回っている。
夫はゾンビのように左右によろめきながら、事務所の中に戻った。店員が近寄ってくるが、高速回転する顔など認識などできるはずがない。
「けい…さつに電話をかけて…。 車を、盗まれた」
「え?」と店員が問う。
「早く… 妻を、攫われたんだ」
夫は粗末なソファに、崩れ落ちるように座った。
「それより先に、水をくれ、自販機にあるだろう。…金は払うから」
そして間もなく、眠ってしまった。
その眠りを邪魔しないよう、事務所の灯りが消えた。
次回
第4幕 背信者<Betrayer>Part1
は
3月中旬投稿予定です




