第3幕 熟練者<Expert > Part 2
もしもあの警官たちが、パトカーが偽物だった場合、50万ではとても見合っていないのは確かだろう。しかしそれが大きな原因ではない事も確かだ。侵入者たちの目的のひとつは、男が言ったように夫婦を理不尽な目に遭わせる事だ。もしも金銭や車を奪う事だけが目的ならば、とうに済ませている事だろう。誘拐、身代金が目的だとしても、長時間に渡ってドライブさせる意味がない。そしてただ苦痛を与える事が目的ならば、どこかに監禁して拷問でもするはずだろう。こうして、もしかしたら本物の警察に車を止められたり、逆上した夫が抵抗して逃げたり、あるいは殺してしまったりするリスクを冒し続けるのは、不合理という他ない。
夫は、いつからこういう、傲慢な性格になっていたのだろう。妻が作った負債を抱えた事だけが原因ではない。その前から…結婚を機に、大株主である大叔父の力によって社長に抜擢されたことが原因なのかもしれない。創業家出身であっても、まだ三十過ぎだった若輩にかかったプレッシャーは、相当なものだったろう。実績を求められる2~3年目に至ってもなかなか成果を上げられず、むしろ赤字を拡大させ、しかもプライベートでも大きな負債をつくったとなると、その過程で妻や部下に対して、攻撃性を育んでいったとしても無理はない。
妻は、いつからこんなふうに怠惰に、無責任になっていたのだろう。平凡な中流…以下の出自、経歴ではあるが、美貌にだけは恵まれていた。取引先の部長職だった夫と出会い、見初められ、交際2年で結婚へとスムーズに発展した。明るく社交的で、それでいて控えめな、理想的といえる性質だったはずが、唯一の趣味であったファッションに、経済的余裕を持った事で深く傾倒していった事が仇となった。自分のデザインセンスを盲信し、経営センスを疎かにした姿勢はたちまち多くの損害を出して、呆気なく崩壊した。妻は自信を失い、消沈して、家庭を放棄した。夫の資産を減らすと共に、妻としての信頼と価値をも失ったのだ。
「燃料がもうない」
「わかっている」
「のどが渇いたし、腹も減った」
「もう少し辛抱しろ」
「もう7時間以上も運転しているんだぞ! 一体いつまで続けるんだ!」
「大声を出すな」
交渉が決裂し…いや、もともと男に交渉に応じる意思はなかっただろうが、夫の精神は終わりの見えない不条理にますます疲弊していった。少ない対向車にヘッドライトを浴びせられる度に舌打ちし、時にクラクションを鳴らしては、男に諫められていた。
夫はルームミラーを動かして、妻の様子を確認する。半開きの虚ろな両目で何かを見ているわけでもなく、ただ微妙に上半身を揺らしているだけの姿を見て、舌打ちの回数を増やした。
ただ座っているだけのくせに、何をぼうっとしている。高速を走っているわけではないのだから、信号や渋滞で何度も停車しているのだから、その隙に車から逃げられるはずだろう? 周囲の車に助けを求める事ができたはずだろう? この男は拳銃を持っていない。上着にもパンツにもポケットはあるが、拳銃が入っているようには見えない。包帯をしまったポシェットを肩にかけているが、そこから拳銃を出すにはどう考えても3秒以上はかかる。お前が逃げたら、きっと男は慌てて車を降りる。その隙に俺も車外に出て、助けを求める事ができるかもしれない。どうしてそれくらいの事が考えられないのか?
なぜ後部座席にいるのに逃げようとしないのか? 何度も合図を送っているのに無視しやがって、とミラーを使って訴えているのだろう。この雨の中で、スカートとヒールを履いた女が逃げられるわけがない。足を切られた事をもう忘れているのか。邪魔な妻なんか、傷つけられても平気なのだろう。もしも殺されたって、却って都合がいいと思っているんじゃないのか?
クソッ! クソッ!
理不尽と妻への苛立ちを隠せなくなった夫は、車の速度を上げた。雨音にエンジンの音が少しずつ被さってゆく。
「速度を落とせ、事故ったらどうする」
「そうなれば、困るのはそっちだろうな!」
「お前たちは死ぬ」
「あんただって死ぬかもしれん!」
速度はまだ上がっていった。
「もううんざりだ! 無理やり終わりにしてやる!」
「あんたの鼻を叩き折って、ハンドルを奪ってもいいんだぞ」
ハッ、と嘲笑うように息を吐いてから、
「やれよ! アクセルを踏んでいるのは俺だ!」と威勢よく怒鳴った。
妻は両足を座席に上げて、身を屈めた。
十秒ほど空けて、男は「やむを得んな」と呟いた。
ほんの1秒の間に、男はバックルの赤いボタンを同時に2つ押して、助手席と運転席のシートベルトを外した。眼前に迫った男の左手に驚いて「うわっ!」と夫が叫ぶと、すぐに右肩を被せるように上半身を寄せて、右手で夫の両腿を強引に引っ張り、左手でハンドルを握った。夫はアクセルもハンドルも離してしまって、コントロールを男に委ねた。肩で胸を、肘で顔を強く押さえ付けられた夫は苦しみながらも「わかった!」と怒鳴った。だがさらに圧力を加えられて、今度は「わ、わかりました!」と悲痛そうな声をあげた。
男がさっと助手席に戻ると、夫は再びハンドルを握った。夫の両肩が上下を繰り返している。過呼吸のように息を荒くしていた。うう、うう、と小さなうめき声をあげた。震えて、鼻をすすって、泣いているかのようだった。
男はタイミングを見計らっていた。ハンドルを奪った時、前に車はなく、直線の対向車線にも、ずっと遠くまでヘッドライトは見えていなかった。
「あの…」と、妻は男に呼びかけた。
「なんだ」
「わたしが代わりに運転します」
夫は崩れそうになっていた表情を立て直し、ルームミラーに映る妻を見た。
「ダメだ」
「夫は、もう限界だと思います。これ以上はかわいそう」
「あんただって同じだろう。こいつは傷を負っていない」
「足はもう大丈夫です。…おかげさまで」
「ダメだ、大人しくしておけ」
それ以上、妻は求めなかった。夫は反省したかのように安全運転に移行した。
「おい、そいつをよこせ」と、男が妻に向けて右手を伸ばした。人差し指が、後部座席の端に追いやられていた妻の上着と紙袋を指している。妻が紙袋を手に取ると、男は手首を返して手招きするように指先を動かした。
受け取ると、男はガサガサと音を立てて中身の箱を取り出す。箱は3つあって、内2つは同じ大きさだ。一番大きな箱を見て、「ワインか」と独り言のように言うと、すべて開封し、空き箱を紙袋に戻して足元に置いた。
同じ大きさの箱に入っていたペアのワイングラスを、それぞれ夫婦に手渡す。夫は左手に持ったそれに、男が備え付けのオープナーで栓を抜いて注ぐ様子を、何度も瞬きしながら見つめた。妻にも注ぐと、男は2人に飲むよう指示した。
「いや、でも…」
「喉が渇いているんだろ? それを飲んで少しリラックスしろ」
「いや、い、飲酒運転…」
「安全運転は怠るなよ」
男は少し笑ったように思えた。
妻が一気に飲み干すと、男はおっ、と小さく感嘆した。
「お前も飲め」
「いや、しかし…」
少しも減らない夫のグラスに、さらにワインが注がれる。溢れんばかりに並々と。
「こ、こぼれる」
「こぼしたらイエローカードだ」
「イ…」
表面張力で保たれたワインを、夫は慎重に口に運んだ。舗装された道路と新車の安定性のおかげで、なんとかこぼさずに済ませる事ができた。一口飲むと、ようやく渇きを癒された快感に心を奪われ、さらにもう一口、二口と続けてしまい、結果グラスを空けてしまった。
夫婦のグラスに、さらに並々と2杯目が注がれた。代行運転を否決された妻は、躊躇なく再び飲み干した。夫は拒否を繰り返しつつも、男に対する恐怖と自らの欲望に突き動かされ、2杯、3杯と飲み干した。
「よ、酔ってしまう」
「まだ少し残っている」
「もう無理です。あ、あなたが飲んでください」
「ぜひそうしたいが、マスクを外すわけにはいかん」
男は振り返って、妻のグラスに残りのワインを注いだ。妻はそれをも一気に飲み干した。
対向車が続いて、ヘッドライトが車内を照らした。ミラーに映る妻は、両足を座席にあげて横たわっていた。少しスカートの裾が上がっていて、両膝が露になっていた。疲労の上に酔ったせいか、呼吸が大きく、雨と汗で少し濡れた胸元が、上下に動いている。
包帯を巻いた素足を見て、夫は密かに欲情していた。




