第3幕 熟練者<Expert> Part 1
男はナイロン等の防水性のものを着ているようで、雨を気にかけない様子で傷の手当てをしていた。消毒薬をかけて、傷の長さに合わせたパッドを貼って、少し強めに包帯を巻いてくれている。両手を使っているので、当然拳銃やナイフ等は持っていない。男の背後に近づいた夫は、飛び掛かって羽交い絞めにする事を考えたが、しなかった。できなかった。夫を放置している事をわかっていながら、丁寧に包帯を巻いている後ろ姿に、1、2番目の侵入者達とは桁違いの余裕と迫力が表れていたからだ。
処置を終え、立ち上がって振り返った男に、夫は申し訳なさそうに小さくお辞儀した。
「トイレ、済みました」
ずれた言葉をかけた夫を、サングラスを通してひと睨みした後、男は顎を軽く振って早く車に乗るよう指示した。
「女は後ろだ。安静にしていろ」 低く、落ち着いた美声だった。
妻がゆっくり降車して、男がドアを開けた後部座席に乗る。
「傷はそんなにひどいの…ですか」
「血はすぐに止まる。緊張で消耗しているから、少し休ませるだけだ」
消耗だって? それなら極限状態で運転している自分の方がよっぽど疲れている、と夫は思った。
運転席に座った時に、夫は振り返って、助手席の後ろにいる妻の様子を見た。妻は捲し上げていたスカートを直して、包帯を巻いた素足を隠した。夫は非難めいた目つきに変えたが、妻はそっぽを向いて無視した。今更お前の足なんかに欲情するものか、と夫は思った。お前のせいでこの有様だ、と妻は思った。
エンジンがかかって、移動が再開した。
「どっちですか?」
「右だ」と、助手席に乗った男が答える。
来た道を戻る。まもなく日が暮れて、方角はまったくわからなくなるだろう。
中年の女はどこへ行ったのか。おそらく車でやってきたこの男と交代したのだろう。という事は、2か所あったトイレの場所は事前に準備されていた。つまりあてどもなく彷徨っているわけではなく、ルートは決まっていると考えるべきだ。やはりずっと監視されている。尾行されている。きっとあの警官たちも…
男は妻にリラックスするよう、可能であれば少し眠るようアドバイスした。そっけないが紳士的な振る舞いに、妻は素直に「はい」と返し、とても眠ることはできないが、両目を閉じた。夫もまた、余裕をもって的確に、また時に安全確認を促す男の丁寧な指示に、危機感を抱きながらも気持ちを落ち着かせていった。
暗く、濡れた危険な道を、時速40キロ以下で走り続けた。50メートル以上間を空けて追って来るヘッドライトは、犯人の仲間が点けているものだろうか。
「金銭が目的なんでしょうか、それとも車を奪うためなのか」
夫は意を決したように、力強く話し始めた。
「それとも誘拐でしょうか」
男は反応しない。
「違いますよね。こうしてわたしに運転させる意味がないですから。となると、これは単なる嫌がらせとしか思えない」
少し笑みを浮かべて、余裕のある態度。それとも開き直っていただけか。いずれにせよ、また主導権を握ろうと考えたのだ。これまでの2人にあった粗暴さと狂気が、この3番目の侵入者には感じられない。まともな話ができる、交渉可能と考えたのだ。
「ご存じと思いますが、わたしはそれなりに社会的地位のある、経営者のはしくれです。さしあたって思い当たる節はありませんが、反社会的な立場にいる方々から、何か恨みを買っている可能性はあります」
しばらく間をおいてから、「それで?」と男は返した。
「わたしを脅しているんでしょう。理不尽な境遇に合わせて、わたしじゃなく妻を傷つける事で精神的に追い込んでいる。たぶんこの後どこかに監禁されて、解放と引き換えに何かを要求されるんでしょう。私の会社が、もしくは関連会社が絡んでいるプロジェクトに関係するものなんでしょう」
「それから?」
「…十分わかった、もうこれ以上は必要ない。後日内容を知らせてくれ。社内でしっかり検討して、きちんとそちらに配慮した案を提示する。もちろんその後も交渉の場を設けるから」
男はしばらくの間、道を指示するばかりだった。また入り組んだ狭い道に入って、何度も右折と左折を繰り返させた。
「もちろん警察には届けない。こんな事は二度とごめんだ。だが調整には極めて慎重を要する。時間がかかるのは理解してもらえるだろう?」
「次の信号を左にいって、すぐにまた左だ」
「少しでも反社が絡んでいる形跡を残すわけには…」
「ブレーキだ!」
左折直後に夫はブレーキを踏んだ。狭い道の中央に、ヘッドライトに照らされた黒猫が顔をこちらに向けたまま止まっている。驚いて硬直してしまったようだが、それからゆっくり前進を始めると、猫は意識を取り戻して走り去った。
「気をつけろと言っているだろう」
「頼む、もう俺だって限界だ。精神が…」
「もう少しがんばれ。すぐにまっすぐの道に出る」
言った通り、それから5分ほどで二車線の道路に入った。対面ではあるが車は少なく、暗くとも直線なので、速度の上げ過ぎに注意すれば危険は少ない。
「思いつくのはそれだけか?」
「え?」
「他に恨みを買っている可能性は?」
「少なくとも、あのチンピラやおばさん、あんたの声に聞き覚えはない」
「この車、いつ納車された?」
「…二日前だ」
「購入したのは?」
「ふた月ほど前だ」
「こいつはかなり人気のある車だ。中以下の所得者には高根の花だがな。新車なら納車に最低1年、2年以上かかるのも普通らしい」
「まさか、それが理由? それじゃあやっぱり、この車が狙いだっていうのか?」
夫は笑みを浮かべ、呆れかえったような口調で声を上げた。
「車泥棒ってだけじゃないよな、それならこんな無駄な手間をかける必要がない」
男は返事しない。サングラスとマスクで隠れていない部分が、ピクリとも動いていない。
「つまり恨みか? 本来この車を購入するはずだった者が、その予約を延長させてまで手に入れた俺を、こうして苦しめるために」
「ひどい事をする」呟くように男が言った。
「勘弁してくれ。責めるべきはディーラーだろう? 不履行で訴えるなりなんなりすればいいじゃないか」
「諸事情で納期が延びる場合がある事は、契約書に表記されているだろう。事情なんてどうとでも言い訳できるだろうさ」
「それはわたしの関知するところじゃない。ディーラーの責任だ」
「あんたの会社はディーラーが扱っているメーカーから社用車を十台以上、グループ会社を入れると軽くニ百台は購入しているだろう。車検やメンテナンスの契約もしているよな。つまり大のお得意さま、多少の無理を利かせる事ができるってわけだ」
「だからそれはディーラーの、メーカーの対応の問題だ。カスタマーに責任を問うのは筋違いだ」
「この車は私用なんだろ? その理屈を持ち込むのはフェアじゃない」
「いい加減にしてくれ。 …つまり、あんたか、それとも最初の男か、2番目の女がその予約していた客なのか? 誰だっていいが、ディーラーに言って、予約を最優先させるようにしてやる。もしも他の車でも良ければ、すぐに納車できるようにしてやる。もちろん、今日の事は警察に届けない。約束する」
「信用するわけないだろう。それに、べつにそうだとは言っていないぞ」
「どういう意味だ?」
「それがこの犯行の原因とは言っていない、要因ではあるがな」
「なんだと?」
「2か月後に納車が決まっていたはずが、突然無期限に延長される。どんな理由を説明されたって、理不尽に思った違いない。あんたが今経験しているこの状況も、理不尽極まりない事だろう? つまりあんたが世間に振りまいた理不尽が、まわりまわって別の形であんたに返ってきているだけの事だ」
ハアッ、と夫は唾棄するように息を吐いた。
「理不尽だと? なにを甘ったれたことを! それが資本主義だよ。より利益を追及するために客を選別する事は当たり前だ。 それによって経済が潤い、経済的弱者もその恩恵を受けているんだ。 ちっとも理不尽なんかじゃない、それが道理なんだ!」
「ならその資本主義で、この状況をどうにか解決してみろ」
「だから金を払ってやると言っているだろう」
「いくらだ?」
「…50万だ、迷惑料としては破格だ」
男の頬が動いた。笑ったのだろう。
「その10倍でも全然足らん」
「そんなバカな!」
「手前勝手な理屈で計算するな」
感情を抑えた美声…だが、サングラスの隙間からしわ寄った目尻が見えていた。段々と横柄になっていく夫の態度に気づいて、妻はうすく目を開けていた。少し座る位置をずらし、座席の中央に寄って後ろから様子を見ていた。
夫は学習していない。余裕がなくなっているのだろう。その上から物を言う態度が、チンピラのような男を、おばさんを怒らせたのだ。
次回
第3幕 熟練者<Expert> Part 2&3
は
2月28日投稿予定です




