二人の体育祭
沙耶は、隼人の母親の態度にかすかな違和感を抱きながらも、
「隼人君、お大事に。
私はこれで……失礼します。」
と挨拶し、隼人に小さく手を振ってからマンションを後にした。
隼人も笑顔で手を振り返してくれた。
その後、彼の荷物を母親が持ち、エレベーターに向かって二人が歩いていくのが見えた。
帰宅してからも、沙耶は何故か隼人の母親のことが気になって仕方がなかった。
何故、隼人君のお母さんは私を見てあんなに驚いた顔をしたんだろう?
初めて会ったはずなのに……。
しかし、自分の母親に隼人や隼人の母親の話をするのも何だか気が引けて、できずにいた。
「別に大したことじゃないよね。
私の考え過ぎかもしれないし……。」
と呟き、沙耶は、もやもやとしたこの気持ちをそのまま心の奥にそっとしまっておくことにした。
そして、それから1週間程経った10月の初め--
いよいよ沙耶と隼人は、体育祭の日を迎えた。
空は高く澄み渡り、校庭には色とりどりのクラス旗がはためいていた。
放送委員のアナウンスが響き渡るたびに歓声が起こり、競技に臨む生徒たちの顔は緊張と笑顔で輝いている。
午前中の競技が次々と進んでいき、沙耶が出場する二年生女子の借り物競争が始まった。
沙耶はスタートラインに立ち、少し緊張した面持ちで走り出す。
机に置いてあった封筒を開くと、「眼鏡をかけた人」と書かれていた。
周囲を見回すと、高一の応援席に眼鏡をかけた男子が座っているのを見つけた。
「すみません、お願いできますか?」
その男子に声をかける。
「あっ、僕ですか?」
「『眼鏡をかけた人』なんで……。」
と紙を見せて、沙耶は彼を伴ってゴールに向かって走った。
二人で並んで走りゴールすると、会場から拍手が上がった。
幸い沙耶たちは、2位でゴールできた。
「ありがとうございました。」
と眼鏡をかけた男子に沙耶が声をかけると、
彼も「いえ……。」と少しはにかんだように頭を下げた。
観客席を見上げると、母が手を振ってくれていた。
見てくれていたんだ……。
そう思うと恥ずかしさよりも嬉しさが胸に広がり、沙耶の顔にも自然と笑みが浮かんだ。
自分の席に戻ると佐織が
「沙耶、2位なんて凄かったね!」
と自分のことのように喜んでくれた。
「うん、ありがとう。
無事にすんでホッとしたよ。」
と沙耶も笑顔で答えた。
昼休憩をはさんで午後の競技も順調に進んでいく。
そして最後の種目、全学年の代表によるクラス対抗リレーが始まった。
それは体育祭のクライマックスであり、全校生徒と保護者が固唾をのんで見守る大舞台だった。
隼人はアンカーとしてバトンを受け取ると、一気にスピードを上げる。
真剣なまなざし、風を切るような走り。
足の捻挫はもう完全に治っていて、軽やかなフォームが観客を魅了した。
最後の直線で隼人は見事にトップでゴールを切り、会場から大きな拍手と歓声が沸き起こった。
クラスメイトたちが隼人を囲み、肩を叩きながら「やったな!」「すげえ!」と口々に讃える。
その輪の中で照れくさそうに笑う隼人の姿を、沙耶は涙が滲んでキラキラと光る瞳で見つめていた。
良かった……本当に……。
足もすっかり良くなったみたいだし……。
沙耶は、隼人の足の具合を心配していただけに、彼の華麗な走りに感激していた。
観客席では、隼人の母、由紀が立ち上がり、息子の活躍に割れんばかりの拍手を送っている。
由紀の隣りには、隼人の父である壮一が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
一方で、校庭の反対側の観客席には沙耶の母もいて、娘の姿を探しながら時折手を振ったり、他の母親たちと談笑している。
しかし、同じ校庭に居合わせながら、二人の母親が顔を合わせることはなかった。
秋の爽やかな風が、熱気を帯びた体育祭の会場を冷ますかのように吹き抜けていった。