みんなの居場所 ーカフェ・エスポワールー
カフェ・エスポワールの扉を開けると、最初に目に入るのは大きな窓だった。
外の光をやわらかく取り込むその窓には、白いレースのカーテンがかかっていて、暖かな日には少し開けた窓から風が入る。
風が吹くたびに静かに揺れるカーテン。
午後になると、木の床に淡い陽だまりが落ち、店内はいつも少しだけ明るくなる。
店内は決して広くはない。
二人掛けのテーブルがいくつかと、一番奥に四人掛けのソファー席が一つ。
後は壁際にカウンター席が並んでいた。
椅子やテーブルは、派手さはないが、触れると木の温もりが伝わってくるものばかりだった。
長く使われてきたことがわかる家具は、不思議とこの店によく馴染んでいる。
カウンターの奥には、丁寧に磨かれたコーヒーマシンと、ガラス瓶に入った数種類のコーヒー豆が並んでいる。
店内には、コーヒーの香ばしい匂いと、焼き菓子の甘い香りがほんのりと混ざり合っていた。
壁には、季節の草花を描いた小さな絵や、陽子、貴史夫妻が経営していた頃の喫茶店の写真が飾られている。
この店には、BGMらしい音楽は流れていない。
代わりに、カップが置かれる音や、コーヒーを淹れる湯の音、ページをめくる小さな音が、穏やかに響いている。
カフェ・エスポワールは、何かを語らなくても許される場所だった。
ただ座って、飲み物を口にし、外を眺めるだけでもいい。
誰かに話したくなったら、カウンターの向こうにいる隼人が、いつでもそこにいる。
一人の男性がカフェに来店した。
彼は初老の男性でいつもカウンター席の一番奥に座る。
「いつもので。」
男性が隼人にオーダーする。
「はい。」
隼人は慣れた手つきで珈琲を淹れていく。
「どうぞ。」
そっと男性の前に珈琲を置く。
「君はまだ若いけど、一人でこの店やってるの?」
男性が珍しく隼人に話しかけた。
「はい。たまに手伝ってくれる人はいますが、基本一人です。」
「そうか……。僕もいつも一人でね。
仕事も終わってしまったし……。
何かやりたいとは思うんだけどね。」
「急がれなくて良いと思いますよ。
ゆっくりで。」
隼人の答えに男性は頷き、カップにそっと口をつけた。
その表情はどことなく和んだようだ。
次に入ってきたのは、小学校の低学年位の男の子を連れた母親だった。
「あっ、僕、ここにする。」
男の子は、窓際のテーブル席に座った。
平日の昼間に小学生がいるのは珍しいことかもしれなかったが、この店ではいつもの光景だ。
オーダーを取りに来た隼人に母親が尋ねた。
「あの、ジュースもあります?」
「はい、ございます。
オレンジとアップルをご用意しています。」
「そうなんですね。
たくちゃん、どっちが良い?」
「僕は……オレンジにする。」
たくちゃんが答えた。
しばらくして、隼人がミルクティーとオレンジジュースを運んできた。
「あの……カウンセラーさんからこちらのカフェを聞いて。
少しお話しても良いですか?」
「勿論です。」
隼人がそう答え、しばらく母親の話を相槌を打ちながら聞いていた。
たくちゃんは無邪気にジュースを飲んでいるようで二人の会話を聞いていた。
たくちゃんは、絵が得意だという。
「たくちゃん、ここでも絵を描いていく?」
「うん!」
隼人はカウンターに戻り、スケッチブックと色とりどりのクレヨンやサインペンを持ってきてたくちゃんの机に置いた。
「はい、好きに描いてみて。」
母親は少し驚いたように隼人を見たが、ふっと緊張していた雰囲気が柔らかく変わった。
たくちゃんが熱心に絵を描いている間、母親はのんびりと外を眺めていた。
たくちゃんの描きあげた絵はお母さんとお父さんとたくちゃんが動物園に行った時の絵だった。
「あぁ、良い絵だね~。綺麗な色使い。
お家に持って帰る?」
「う…ん。」
「ここに飾ろうか?」
隼人の言葉にたくちゃんの顔がぱっと明るくなった。
「良いの?」
「うん。良いよ。」
「お父さんが来られる時にまた、ここに来て絵を見せてあげて。」
帰り際に隼人がたくちゃんに声をかけると
「わかった!」
とたくちゃんが元気よく答え、バイバイと嬉しそうに手を振った。
その後、たくちゃんの絵は額に入れられて店内に飾られた。
カラフルな色合いは、お客さんの間でも評判になった。
ある時、たくちゃん親子が店を訪ねてきた。
たくちゃんの父親が
「息子の絵は……。」
と聞いて、隼人が絵のある場所を指し示すと
「この絵ですか。」と彼は絵の前に立ち、しばらく黙って眺めていた。
そして、涙を一筋流すと
「良い絵だなぁ。」と呟いた。
「パパ、そう思う?」
たくちゃんは、嬉しそうに父親を見上げた。
「うん。また、行こうな、動物園。」
「本当に?」
たくちゃんは、父親の涙には気がつかず、はしゃいでいた。
母親は、軽く隼人に会釈した。
たくちゃんは、それからもカフェに来ると色々な絵を描いた。
時々、額に入れられた絵も変わり、お客さんたちの目を楽しませていた。
中には、同じ位の小学生の女の子もたくちゃんの絵に目を留めて、「私の絵も飾ってもらえますか?」と控え目に聞いてきた。
「勿論。」
隼人が優しく答えると、女の子は家で描いてきた絵を隼人に手渡した。
そこには、彼女が飼っている愛犬が描かれていた。
「まん丸な目をしてるから、マルちゃんって言うの。」
「そう。可愛いね。」
隼人が絵を受け取って眺めていると女の子も自然と笑顔になった。
そのうち、色々な年齢の人の絵やスケッチ、ハンドメイド作品等が店内の一画に飾られるようになった。
そこには、誰でも自由に過ごしたり、作品を鑑賞できる雰囲気が漂っていた。
ある雨の降る静かな日に30代くらいの若い女性が隼人のカフェを訪れた。
窓際の席に腰掛けると隼人にカフェオレを頼み、窓を伝う雨粒を黙って見ていた。
「お待たせしました。」
隼人が女性の前に丁寧に淹れたカフェオレを置いた。
「ここでは、雨の音がよく聴こえますね。」
「そうですね。雨音、お好きなんですか?」
「はい。
雨が降ると困る人も多いかもしれませんが、私は雨が好きなんです。」
「そうなんですね。」
「雨音が聴こえるとほっとするというか……。
どこかに無理に出かけなくても良いよって言われているような、何だか黙ってそこにいて良いんだって思えて癒されるんです。」
隼人は窓の外を眺めて、黙って頷いて言った。
「本当に。そんな気持ちになりますね。」
女性は、「わかってもらえます?」と顔を上げて小さく笑った。
隼人はカウンターに戻ると洗い物をしたりして過ごした。
雨のせいか、客足も悪い。
ふと、さっきの女性が自分を呼ぶ声に気がついた。
「あの……すみません。お勧めのケーキってありますか?」
「はい。
例えば、こちらのチーズケーキとか……
フワフワのシフォンケーキもございますよ。」
ガラスケースの中のケーキを見ながら、隼人は答えた。
「実は、このケーキ、私の母親の手作りなんです。」
隼人がにこやかにそう言うと……
「まぁ、お母様の手作りなんですね。
じゃあ、シフォンケーキをいただこうかしら。」
女性は、少し驚いたように目を見開き、シフォンケーキを注文した。
「美味しい……。」
シフォンケーキを一口食べると幸せそうに女性は微笑んだ。
由紀の手作りケーキは、次第に評判となり、珈琲や紅茶といっしょに頼んでくれる人も増えてきた。
店のコーヒー豆は、商社に勤務する父親の壮一が海外の良い豆を選んで仕入れてくれた。
隼人は、陽子さんから受け継いだこのカフェを家族と一緒に経営していたと言っても良いだろう。
自分一人だけで頑張るのではなく、色々な人の手を借りながら、誰にとっても居心地の良いカフェを作るーー。
そんなカフェを実際に経営できている自分をこの上なく幸せだと隼人は感じていた。




