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妄想

作者: ラマレート

フライパンの上で、刻んだニンニクが淡く色づきはじめる。ぱちぱちと小さくはじける音と、油に広がる香りの輪郭を感じながら、男は木べらを止めた。


「植物には意識があるんだろうか」


独り言のように呟いた声は、静かなキッチンの白い壁に反射して、すぐに消えた。半分ほどに切った玉ねぎが、まな板の上でじっとこちらを見ているような気がした。あの断面の、透明な層が幾重にも重なる姿は、美しさを通り越してどこか恐ろしい。


火を弱めると、鍋の縁にこびりついた茶色い膜が、ゆっくりと崩れて油に沈んでいった。部屋の窓から差し込む夏の光は、遠くでセミが鳴く音と一緒に、重くまとわりついてくる。


包丁を置き、水を飲むと、喉を通る冷たさに意識が戻る。


「……植物が痛みを感じていたらどうするんだろうな」


頭をよぎったのは、昨日見かけた短い記事だった。植物が音に反応する、だとか、葉が切られる時に化学信号を発して仲間に知らせる、だとか、そんな曖昧な情報だった。たしかに、風にそよぐと葉の向きを変えるし、光の方向に枝を伸ばしていく。反応はしている。でも、それは「意識」と呼べるものなのだろうか。


スマートフォンを取り、油の跳ねる音を背にしながら検索をはじめる。

「植物 意識」

「植物 痛覚」

「植物 知性」


次々と検索候補が現れるが、どれも満足な答えにはならなかった。ある記事には、植物神経生物学という分野があると書かれていたが、別の記事では「擬似科学」と切り捨てられていた。植物は神経も脳も持たない。だが、電気信号をやりとりし、周囲の環境に応じて反応し、成長を変える。それは本当に「無意識」の営みなのか。


気がつくと、炒めていた玉ねぎが少し焦げはじめていた。慌てて木べらで混ぜると、焦げた部分の苦い匂いが立ち上る。無意識に料理を続けながらも、頭の中は散らかったままだ。


「意識って、なんなんだろうな」


言葉にしてしまうと、自分が子どものように思えて少し恥ずかしくなる。

水道の蛇口から水を出し、切ったナスを軽く洗う。ナスの紫の皮が水を弾き、表面に小さな玉をつくった。


そのとき、背後のテレビが場違いなほど明るい音を立てた。いつものように流しっぱなしにしていたニュース番組が、急に画面を切り替え、リポーターの切迫した声が響く。


テレビの中で、オーストラリアの森が燃えていた。煙は黒く重く、空を塞ぐ壁のように立ち上がり、炎は樹々の間を赤く走り続けていた。リポーターが現地の状況を伝えていたが、その声の調子ばかりが耳に残り、内容はまともに頭に入ってこなかった。


「自然発火……か」


ニュースキャスターがそう言ったのを、男はかろうじて聞き取った。


コンロの火を少し弱める。玉ねぎの甘さと、焦げた部分の苦さが混じり合った匂いが鼻を抜ける。包丁を持ち直し、切ってあったナスを再び見つめる。黒紫の皮が、さっきニュースで見た焦げた木々の色に似ている気がした。水気が残っているのか、刃を入れるとぱきりとした音が鳴る。


火元が何だったのか、キャスターが説明していたようにも思うが、はっきりとは思い出せなかった。自然発火とだけ聞いて、ああ、放火じゃなかったのか、とぼんやり思った。


木べらで鍋の中をかき混ぜながら、男はスマートフォンを取り出した。手が油でぬるついていて、指紋認証がうまく反応しない。布巾で軽く拭き取り、ようやく画面が開くと、検索欄に「オーストラリア 山火事 自然発火」と打ち込む。


すぐに記事がいくつか出てきた。乾燥した気候と強風、落雷、そして可燃性の植物が重なると火災は自然に起こることがあるらしい。その中で「ユーカリ」という単語が何度も目に入った。


「ユーカリ……?」


聞き覚えのある名前だった。どこかで、コアラが食べる葉だと聞いた記憶がある。その葉に含まれる油分が、非常に燃えやすいのだという。乾燥して高温になった空気の中で、ユーカリの林は火がつくと爆発的に燃え広がるらしい。


「なるほどな……」


鍋の中の玉ねぎとナスに、トマトを加える。赤が混ざると、一気に料理らしい色合いになる。煮詰めると水分が抜けていき、部屋の中は熱気でむっとした空気に変わった。換気扇の音がいつもよりうるさく感じる。


ユーカリの葉が、自然発火を助長する。そんな記事を読んでいるうちに、男の頭の中で、先ほどのニュース映像が再生される。


料理を皿に移すこともなく、男はフライパンのまま火を止めると、持ち手を布巾で掴んで食卓に運んだ。油が縁から少し垂れて、鍋敷きに小さな染みを作る。じゅっ、とかすかな音がした。


椅子に腰を下ろすと、フライパンの中で煮詰められたナスと玉ねぎの間から、赤くなったトマトが柔らかく崩れていた。箸を手に取り、適当に突いて口に運ぶと、まだ熱くて舌先を少し火傷した。


「……熱っ」


呟きながら、男はもう片方の手でスマートフォンを取り上げた。さっき検索した「ユーカリ」の履歴をもう一度開き、その葉がいかに燃えやすいかという記事をぼんやりと眺める。


火を呼ぶ葉。


さっき見たニュースの赤黒い映像が、また頭の中で再生される。

箸でナスをつまみ上げると、柔らかく崩れて鍋底のオイルに落ちた。


そのままスクロールしていると、「コアラ」という単語が目に入った。ユーカリといえばコアラだという単純な連想だった。指先で検索欄に「ユーカリ コアラ」と打ち込むと、すぐに関連記事が並んだ。


ユーカリの葉は、動物が食べるには毒性が強く、消化しづらい葉だという。だがコアラだけがそれを食べて生きている。低栄養で毒性のある葉だけを食べて生き延びる、その不思議さに関する記事が並んでいた。


(毒があるのに食べるんだな……)


口に運んだナスが少し冷めていて、柔らかさの中に微かに苦味が残る。箸を止め、男は画面に出てきた論文の要約を読み始めた。


かつてユーカリが新しい毒性物質を生成するようになったとき、コアラのユーカリを食べる割合が一時的に減少したことがあったらしい。それでもコアラはやがてその毒に適応し、再びユーカリを食べ続けるようになったのだという。


「面白いな……」


声に出した自分の言葉が、部屋の壁に跳ね返って耳に戻ってきた。

毒を作る木と、その毒を克服する動物。どちらも、ただ生きるためにそうしたのだろう。意識があるかどうかなど関係なく、ただ生存のために毒を生み、耐性を生む。


画面の中で、コアラがユーカリの枝にしがみつき、葉を口に運んでいる写真を見つめる。眠たそうな目をして、のろのろと葉を噛み砕く姿が、どこかひどくのんびりとしていた。


男はまたナスを口に運んだ。部屋の中には、煮詰まったトマトの甘酸っぱい匂いが充満している。外では風が吹き、窓の隙間からわずかに涼しい空気が入ってきた。


男は箸を置き、冷めかけたナスと玉ねぎをフライパンの中でかき混ぜながら、スマートフォンをもう一度手に取った。


「ユーカリ 火事 性質」


調べていくうちに、ユーカリという木が火に弱いどころか、まるで「燃えることを前提にした作り」をしていることを知った。


ユーカリの葉には油が多く含まれており、熱波や落雷で簡単に引火する。その炎で森が燃えれば、地表の他の植物や競争相手は焼き尽くされ、ユーカリは火に耐える強靭な種子で再び芽吹く。火事のあと、灰に覆われた土壌で芽を出した若いユーカリだけが生き残り、そこからまた森をつくるのだという。


(燃えることで、他を排除して生き残る……)


画面をスクロールしながら、男は思わず口角を歪めた。火事で森を焼き払う木が、森を再生させる種子をばら撒く。コアラが食べる葉が、燃え上がりながら新たな森を作り出す。


そのとき、ふと馬鹿げた妄想が頭をよぎった。


(もしかしてユーカリは、毒を克服して葉を食べ続けるコアラを……燃やして殺すために、火を呼んでるんじゃないか……)


滑稽で、子どものような考えだった。

ユーカリが毒を生み出しても、コアラはそれを克服する。食べられ続ける。なら、最終手段は「火」なのだとしたら。燃やしてしまえば、もう食われることもない。


馬鹿げた考えに男は自分に苦笑した。スマートフォンを伏せため息をつく。


「んなこと考える前に……仕事探さないとな」


テーブルの隅に置いてある段ボールが目に入った。農家の実家から送られてきた、タマネギ、トマト、ナス、にんにく。所狭しと詰め込まれた土の匂いがする野菜たちは、まるで「これでしっかり食べろ」と無言で迫ってくるようだった。


「はぁ……肉、食いたい」


男は再びため息をつくと、箸を取り直し、冷めたナスを口に運んだ。味はもうわからなかった。

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