八章 焦燥感、内と外からの板挟み
これまで僕の家に伝わる五つの教えを紹介してきた。あなたが退屈しなかったならいいのだけれど。
最後になるが、僕の家に伝わる伝統曰く、僕も死ぬまでに何か遺言を残さなければならない。僕は九十歳くらいまで生きるつもりだからあと六十年以上あるけれど、とりあえずなんとなく考えていることを残しておこうと思う。
それは夢についてだ。夢というのは、寝ているときに見る夢じゃなくて、将来に達成したい現状とはかけ離れたところにある目標のことだ。僕は最近、夢について考えている。ほかにもいろいろ考えることはあるけれど、夢についてが一番多い。
夢をかなえるために必要なことは何なのだろう。夢について語るときに、よく出てくる二大巨頭がある。それは才能と努力だ。
才能のある人間は初めてでもうまくできるらしい。小説を書き始めて、うまく書けなかった僕には、小説を書く才能がないのかもしれない。それを努力で補おうとしても、努力する才能も持ち合わせていない。
熱中できることをすれば努力はいらないという。そういう人たちは寝る暇も惜しんで、物事に没頭するというのだ。僕にそんなことが起きたことはない。僕には熱中できることなど何もなかった。寝てる暇がなくても寝てきた。何をしていたって、気が付いたら布団の中で携帯をいじっていた。
現実を見ろと言われた。何が現実なのか僕にはわからなかった。僕にとっての現実は、叶えたい理想と叶えるだけの力がない自分の2つだけだった。それ以外のものが入り込む余地はどこにもなかった。
叶えたい夢や理想は常に遠くにあり続けた。それは人生の道しるべのようにも見えたし、蜃気楼のように漂い、ありのままの姿を隠しているようにも見えた。
力のない自分は常にそこにいた。奴は頼んでもないのにずっとそばにいた。何度もさよならをつげたけれど、いつのまにかよりを戻していた。
僕にとって都合の悪い何かは常に目の前にあり続けた。その何かから目を背けることはできたし、今までもそうしてきた。だが、それが消えてなくなることはなかった。その何かは、日に日にその不都合さを増して、おぞましくなっていった。
結局のところ、僕は蜃気楼めがけて歩いていくしかないのだ。たとえ、蜃気楼を抜けた先が見えていた景色とは違っているのだとしても。
『夢追い人と最後の審判——ある男の独白——』
「俺は自分のことを蔑む。また、逃げ出してしまった。俺はこんなことをしている暇はないのに、なんで俺はいつもこうなんだ。すぐ投げ出して、目標を達成できない。どうすれば続けられるんだ。そうやって続けられない現実から目をそらす。目的は夢をかなえることであり、必要なことは十分な水準の能力に達することと、その能力を知らしめることであるはずなのに。続けられないことに囚われる。夢をかなえるための十分な水準の能力を得るために必要なものは何なのか? まず考えるべきはそのことのはずなのに。
俺は鍛錬で自分の能力を伸ばそうとする。その鍛錬を怠ったことを、いつも嘆いている。そうすることで、現実を見なくて済む。夢がかなわないのは、欲しいものが手に入らないのは鍛錬が足りないからだと、自分を納得させる。
俺はますます鍛錬をしようと躍起になり、そのたびに何も続かない自分に挫折する。そのたびに傷ついた心を癒してくれるものを探し求める。それはどこかに転がっている情報かもしれないし、誰かの肯定の言葉かもしれない。はたまた、物事を続けられるようになる秘訣かもしれない。それらは傷ついた心をいやしてくれるが、才能をもたらしてはくれない。
夢を追うことであるべき現実を書き換えたなら、夢を追う過程では現実を見なければならない。どちらにせよ、現実は目の前にあり続ける。そもそも、日々の鍛錬を続けられない俺に、鍛錬し続ける才能はない。夢をかなえる才能がないのではない、鍛錬する才能がないのでもない、ないのは鍛錬し続ける才能だ。そして、もし夢にタイムリミットがあり、その夢を達成するためには相応の鍛錬が必要ならば、タイムリミットが近ければ近いほど夢がかなう可能性は低くなる。俺にできることは、夢に近づくことをあきらめて、夢を俺の方に近づけることだけだ。
いずれにせよ、俺は自分に夢をかなえるだけ才能があるのかどうかわかっていない。俺の無限の才能と可能性はまだそこにあり続ける。何も成さないことで、何をも成し遂げることのできる自分のイメージを守り続けている。そんなものを守り続けるだけの忍耐が、まだ備わっていることに無意識のうちに安どしている。
だが、俺のこの鋼のような忍耐力もいつかは限界を迎える。積もり積もった過去の重圧に押し負ける。俺が必死に守り続けてきた、何をも成し遂げられる可能性は、積み重なった何も成し遂げられなかった自分たちに敗北する。おれはそのときを恐れている。逃げようとしても逃げられない。いつかはわからないが、そのときは確実にやってくる。そのときに死神の来訪を待たずして、最後の審判が下されるのだ」