第6話 資格とスタート地点
僕は努力家だ。僕は大抵のことにおいて、努力を惜しまなかった。最近した努力といえば筋トレだ。
僕は筋トレを頑張っていた。血のにじむような努力の末、ベンチプレスで40キロを3回上げれるようになった。このすごさがいまいちピンとこない人は、そのまま流してくれて構わない。どうしても気になる人のためにどのくらいすごいか説明すると、男子高校生が50メートルを7秒後半で走るくらいすごい、とだけ言っておこうと思う。
なにはともあれ、僕は偉業を達成した。この偉業を達成したのはもう二か月以上まえのことで、筋トレを初めてから二週間で達成した。それから筋トレは一切していないから、いまもその偉業を成せるかは神のみぞ知るところだ。
僕は努力家だが、飽き性でもあるのだ。僕が努力の才能を発揮しようとすると、すぐさま飽き性の才能が顔を出し、努力の才能を食い尽くしてしまう。飽き性の才能の好物は努力の才能なんだと思う。努力をやめたときのあの解放感はくせになる。おそらく、僕の中の飽き性の才能がおなか一杯になって幸せに満ちているのだ。
努力の才能のことはいまいちわからない。ぼくにとってそれは、飽き性の才能の餌でしかないのだ。そんな努力が嫌いな僕に、努力について教えてくれた人がいる。彼は僕と違って努力の才能を磨き上げた人だ。飽き性の才能はこれっぽちも持ち合わせていなかったと思う。まずは彼が残した日記から彼の人生を振り返ってみようと思う。
彼は明治時代に本物の努力家として生まれた。努力して努力家になったわけではなく、生まれながらにして努力家だった。彼はその努力によって、生後七ヶ月からずり這いを始めると、一ヶ月後にはハイハイに入り、一週間後にはつかまり立ちをし、さらに一週間後には独り歩きをして見せた。
彼は大抵のことは、なんでもうまくこなした。うまくこなせないことは、その努力によってうまくこなせるようにした。彼が少年だったころ、竹馬に乗れずに馬鹿にされたことがあった。彼は一週間後には竹馬に乗れるようした。けん玉ができなくても一週間後にはできるようにした。走ることや、球技、その他もろもろのことは大抵人並み程度にできたし、努力によって人並み以上にした。
彼はそれらで一番にはなれなかった。竹馬やけん玉、走ること、その他もろもろのことで彼より優れた人間はいた。だが、彼はそれらのことでそこまで努力したわけではなかったし、あまり重きを置いていなかった。
なにより、何かに夢中になっている人たちは他人のことにはまったく興味がなさそうだった。彼らは、ただ楽しそうに走り、竹馬に乗り、けん玉をして、そのついでに賞賛を得ていた。彼のことを馬鹿にしてくることなどなかった。
彼が重きを置いたのは、社会が重きを置いていることだった。学生のころには、勉学に励むことだった。ほかの子供たちが遊んでいる間も勉強した。そのかいあって、優秀な成績をおさめ、高等小学校に進学した。そこでも優秀な成績をおさめ、中学校に進学した。
彼は中学でも遊ぶ暇を惜しんで勉学に励んだ。しかし、中学に入ってからの彼の成績はいつも中の下だった。これまでも彼よりも勉強できる人間はいたが、その数は多くはなかったし、絶対に勝てないほどでもなかった。
彼は寝る暇も惜しんで勉学に励むようになった。これまでの人生を努力によって解決した彼にとって、結果が出ないのであれば、足りないのは努力の量であり、やるべきことは努力だった。
彼の努力の結果に得られたものは、中の中という成績だけだった。ここでは彼は普通の人間にしかなれなかった。これは彼が経験する初めての挫折だった。
彼は挫折を味わっても、努力をあきらめることはなかった。彼はその努力によって、中の中の成績をとり続けた。中学を卒業すると彼の学問のキャリアは終わった。成績の問題もあったし、お金の問題もあった。
彼は、中学卒業後に商社に入社した。彼はそこで、貿易実務や契約管理、物流業務などのさまざまな分野について学んだ。彼は持ち前の努力によって、迅速に仕事をこなした。
彼は多くの取引を成立させたが、大きな取引を成立させるのはいつも別の誰かだった。彼が死に物狂いで成立させた大きな仕事を、別の誰かは散歩に出かけたついでかのように成立させた。日記にはそれらの事実が淡々と記してあった。
人生を通して努力し続けた彼は、僕たちに遺言を残してくれた。タイトルは彼らしく、『努力』である。
『努力』
「まだ足りない。俺の努力が足りなかった。俺は毎日必死に努力した。周りのやつがのんきに寝ている間も、俺は必死に努力した。やるべきことをやってきた。置かれた場所で咲こうと必死にやってきた。周りのやつらとは違う。努力できない人間とは違う。必死に努力したんだ。だが、届かなかった。
俺が信じられなかったのは、俺より努力していない人間が俺よりもはるか高みにいたことだ。あいつらは凡人が寝ている時間に寝ていたし、俺が必死に努力している間も、平然と過ごしていた。ああいうやつらのことを天才というんだろう。だが、天才でない人間ができることは努力しかないんだ。人並み以上に努力することでしか、凡人は強くなれない。俺の努力が足りなかった。もっとやれたはずだ。結局俺は自分に甘えてしまった、そのことが悔やまれてならない」
彼は寝る暇を惜しんで仕事をした。いつもストイックに自分を追い込んだ。自分にも周りにも厳しい人だった。彼は起こる問題のほぼすべてを努力によって解決しようとした。実際、大抵のことは努力で解決できた。
関係ないのだけれど、彼が最初に喋った言葉は、パパでもママでもなく、努力だったのではないかと思う。それも、どっくとか、どおくとか、赤ちゃん訛りはなかったはずだ。どりょくの文字から連想されるひらがなのような丸みも持ち合わせていなかった。それはきっと紛れもなく努力を連想させる音だったはずだ。丸みも訛りもなく、角張った強い音だったに違いない。
僕は努力で解決したことなど、人生で一個もない。もしかすると、解決した問題が何一つないかもしれない。大抵、問題から目をそらすか、別の問題にすり替えることでどうにかこうにか今まで生きてきた。
そんな僕は、努力という言葉を聞くとアレルギー反応を起こしてしまう。努力するのも難しいが、今となってはその単語を聞くだけで具合が悪くなる。少し言い過ぎたかもしれない。
彼は逸材だった。彼は逸材としてうまれ、秀才として死んだ。天才にはなれなかった。少なくとも自分のことを天才だとは思っていなかった。彼は自分のことを凡人だと思っていたけれど、凡人からすると彼は天才で、天才からすると凡人だった。
彼は、自分が一段ずつ必死に階段を上っているときに、エスカレーターに乗れるような人間のことを天才といったのだと思う。必死に階段を駆け上がってもエスカレーターを駆け上がる人間には勝てない。短期的には勝てても階段が長ければ長いほど、差は縮まり、やがて追い越される。階段を登り続ければその分、足は重たくなる。
僕には階段を上り続ける脚力もなければ、エスカレーターを使える資格もない。もちろんエレベーターなんてもってのほかだ。彼は才能のない人間には努力しかないといった。僕には階段を上る才能はない。一生懸命、階段を登ったところでなにができるというのだろう。だけど、階段の下で立ち止まっているわけにもいかない。そもそも、階段を上った先には何があるのだろうか? ちゃんと出口はあるのだろうか? 出口があったとして、そこは僕が向かいたい場所なのだろうか。努力すれば全てがわかるのだろうか。
形式通り、僕が学んだことを残しておく。
『資格を持たぬもの』
「目の前にはとてつもない広さの階段が続いている。階段はまるでコース分けのように、透明なガラス板でいくつかに分けられている。はるか遠くの壁際にはエスカレーターのようなものが見える。あまりの長さにどこまで続いているのかわからない。男が一人その階段の前に立っている。男が立っているコースでは大勢の人々は次々に階段を上っていく。男はエスカレーターに乗るか、もう少し人が少ない場所から上がりはじめようと、階段の前で立ちすくんでいる。そのとき、後ろから誰かに背中を押されて転がるようにして階段に一歩目を踏み出した。押された勢いで二段目、三段目へと足を進める。立ち止まり後ろを振り向くと無数の人たちが階段に向かって歩いていくる。こうしているうちにも、たくさんの人が男の横を通り過ぎていく。その流れに飲まれ、階段を上がり始める。一歩、また一歩と着実に階段を上がっていく。
何人かの人を追い越し、何人かの人が男を追い越していく。隣のレーンではものすごい速さで駆け上がっていく人が見える。階段を上がり続けていると少し遠くの方にエスカレーターがあることにきずく。何人かが入り口からエスカレーターに入っていく。男は自分も乗ろうとするが、入り口まで歩いていくには人が多すぎる。移動しようとしても、人の波に押し返されてしまう。あきらめて、再び歩き始める。
しばらく階段を上がり続けたあと、目線の先に人だまりが裂けている場所を見つける。まるで砂漠のオアシスのようなその場所をめがけて男は速足になる。あそこでいったん休憩しようと心に決め、それだけを頼りに疲れた体に鞭を打つ。そして人だまりが裂けている空間までたどり着き、その場所の事実を知る。
そこには男が横たわっていた。顔は青白く変色して、目はうつろに開かれている。口を少し開けては閉じ、何かをつぶやいているようにも見える。男は恐怖におののき、立ちすくむ。その間にも人々は次々に前に進んでいく。
後ろから押され前に倒れ込みそうになり、とっさに片足を前に出して踏みとどまろうとするが、出した足は倒れている人を踏みつけ、バランスが崩れ前に倒れこむ。膝をたて、後ろを振り返ると男と目が合う。首は力を失い、仰向けになった状態で頭だけがこちらに向けられている。なんの生気も感じられないうつろな目が、こちらを見ている。男は恐ろしくなり、一刻も早くその場から立ち去ろうと、一心不乱に階段を上がり続ける。
先ほどの出来事が脳内で何度もフラッシュバックする。頭から振り払おうとしても、あの生気のない目と青白い顔がどんどん鮮明になっていく。
階段に躓き、転びそうになることで意識の世界から現実に戻ってくる。一瞬でも先ほどの出来事を忘れられたことに満足する間もなく、無意識のうちに階段を登ろうとする。しかし、前に進むことができない。足は疲れて重たくなっているが、動かないほどではない。ただただ階段を上ることができないのだ。そこには壁があって、行き止まりのような感じがする。重たくなった足を何度もあげようとするが、どうしても一歩踏み出すことができない。どこか違う方向に行こうとしても人の波に押し返されてしまい、戻ることも進むこともできなくなる。
男はやがって立っていることもままならなくなり、その場に座り込む。脳内に浮かんでくるのはいつか見た、生気のない顔だ。男は膝を抱え込み、その場にうずくまる。堅い地面の感触が臀部に伝わる。人々の足音と喧騒が耳に伝わる。俺はどこで間違ったのだろうと自問自答するが、答えは出ない。俺は何のためにここまできたんだ? その答えがでないまま、意識はだんだんと薄れていった」