眠り
「ーーあ……」
気が付くと、そこは暗くて冷たい、牢の中だった。
懐かしい、本当は二度と戻りたくなかった、大嫌いな場所…でも、あの千年間に比べれば、これから起こることなんてどうってことはないだろう。
もう、見慣れたあの小屋も、旭陽さんの声も、パトロンさんの突飛な話も、聞くことも、見ることもない。
……ずっと帰りたかった、あの質素なワンルームに戻ることもない。
「……ぅ、あ……ああ……!」
泣くシーンではなかったのに。もっと辛いことは、これから始まるのに…喜びかも悲しみかも分からない謎の涙が、なぜか止まらなかった。
千年と、百年ちょっとぶりの地獄は…慣れることはない。
やっぱり苦しかったし、辛かった。
何度も、痛みに耐えられず悲鳴を上げた。
何度も、助けてほしくて名前を呼んだ。
涙腺が焼き切れるのではないかと思うほど、泣いた。
彼が手入れをしてくれた髪を切られるのが、辛かった。
彼が愛してくれた身体が…心が汚されていくのが辛かった。
最後に重ねた口づけが、欲に上書きされるのが、辛かった。
辛い、辛い、辛い、辛い、辛い、辛い……
ーーどうして、僕がこんな目に
幸せな過去は、絶望に塗りつぶされていく。忘れたくないことだけ、忘れていく。
あの人と、何をしたっけ?あの人に、何を言われたっけ?あの人を…僕は、どうして好きになったんだっけ?
…ああ、でも…これだけは忘れてない…これだけ忘れていなければ…もういい。それ以外は、全部絶望に攫われてもいい。
「一一囚人、何か言い残したいことはあるか?」
松明が揺れる。星のない夜空に、真っ赤な火が揺れる。
ーー赤い、花…僕の花、みたいだ。
「……よ、ぞら…さん…」
つぶれた声帯を震わせ、最期に名前を呼ぶ。理由なんてどうでもいい。これだけ…この気持ちだけ、覚えていればそれでいい…
「ーーあい、してます」
憎しみより、僕の心は…あなたのものでありたい。
「ー一放て!」
足元から、死が迫る。花のような炎が迫る。
麻の服に燃え移り、手足を縛る鎖を熱し、皮膚が収縮し、焼けていく。
激痛なのに、もう声は出ない。もがくこともできない。
いや、もう死を確信している僕は、それにすがることもない。必要ないとわかっているから、こんなに体が動かないのだろう。
これで死んだらまた…あなたに会えるかな…いや、おそらくそれは叶わない。僕には魂がない。僕は「不思議」だから……生き物ではないから…。
最期僕は、どんな顔をしたんだろうか。物語に描かれたように、憎しみに染まっていただろうか。苦しみに歪んでいただうか…。
ーー願わくば、あの時の彼と同じように…笑えていたらいいな。
僕の願望か、真実だったか…それはわからないが、僕を包む炎がいつもより、大きく感じた。
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アザレアさんの本を、燃やした。
絵本に戻った後、あの結末を読みたくなくて、開くこともせずに燃やした。
パトロンさんにそのことを伝えようと再度屋敷に赴いたが、もう、僕には資格がなくなってしまったらしい。たどり着いた場所は、何もない空き地だった。
なんだか家に帰りたくなくて、そのままあてもなく、陽が沈んだ街を歩いた。
俺くらいの子供は、もう帰る時間なのだろう。周りの大人が、たまにいぶかしげに俺を見てくる。
放っておいてくれ…俺はついさっき、この手で…言葉で、最愛の人を殺したばかりなんだ…
でも、世間はそんな、ひねたクソガキのことを放っておいてはくれないらしい。
「ちょっと、君!」
声をかけられ、腕をつかまれる。ああ、俺もついに補導デビューか…そう思って顔を上げる。しかし、そこにいたのは…どこかの制服を着た、同い年くらいの女の子だった。
「危ないよ、こんな時間に一人で歩いてたら…パパとママは?」
「...…うっせ」
「あっ、さては君、家出少年だな!?だめだぞ〜、そういう時は、ちゃんと頼れる人を確保してからーー」
「いたよ!!」
思わず声を上げる。いた。頼れる人は…さっきまではいたんだ……俺が、殺したんだ…
「さっきまでは……いたんだよ…」
うなだれる俺を見て、女の子は少し驚いたようだ。腕を振り払って逃げればよかったのだが…それをする気力は、今の俺にはなかった。
「…そっか。別れた直後だったんだね」
どう解釈したのか、女の子は少しかがんで俺の顔をき込む。
「ごめんね、急に声かけて…でも、君が心配だったからさ。今にも倒れちゃいそうだったんだもん」
「…………」
「……私、リサ。里に桜って書いて、里桜。うち、子ども食堂やってるんだ。よかったら…まだ帰りたくないんだったら、来る?」
女の子…里桜は、手に持った買い物袋を掲げると、快活な笑顔でそう問うた。
「おねーさんが、奢ったげる!」
最終話の原型