兄の話
兄ちゃんは、いつも日陰にいた。
日向に出られるすぐそばまで来ても、すぐにその席を俺に譲ってしまう。
賞賛を受けるのは俺で、非難を浴びるのは兄ちゃん
撫でられるのは俺で、ぶたれるのは兄ちゃん
100点をもらうのは俺で、90点をもらうのは兄ちゃん
愛されるのは俺で、いつも一人なのは兄ちゃん
俺は…そんな兄ちゃんが、夜空のことが誰より好きだった。
哀れみでも同情でもなく…ただ、一人の家族として、兄として…守るべき対象として、愛していた。
兄ちゃんは「優秀」だった。成績も運動も、人並み以上にはできた。手先も器用で、芸術品の審美眼も「人並み以上に」あった。
本来なら、こんなに卑下されるべき人でもないし、両親からの愛に恵まれないのはおかしい...そんな人だ。
でも、それでも彼が愛されなかった…それでも、恵まれなかったのは「俺」がいたからだ。
成長するごとに、その差はどんどん明確なものになっていき、中学を出るころには、うちの後継ぎとして名前が挙がるのは兄ちゃんではなく、俺の方だった。
「弟に劣る兄」「人前に立ってスピーチもできない兄」「本ばかり読んで、人と話さない兄」…「何を言われても、「そうだね」とへらへらしている、プライドのかけらもない兄」…もともとあった引っ込み思案な気性も相まって、兄はそんな烙印を押された。
でも、俺は知っていた。兄ちゃんにもプライドはちゃんとあるし、読んでいる本も難しい経済学書だったり、論文だったり…自分の知識のアップデートに余念がなかったし、スピーチはできなくても、用意した原稿はとても読みやすかったし…料理や植物の手入れ、審美眼等…俺に勝る点だって、兄ちゃんにはたくさんあった。
ー一努力が足りていないのはどっちだ。何も知らないくせに、俺の兄を愚弄するな。
一度我慢ならなくなって、そう両親にかみついたことがあった。それで、少しでも兄ちゃんに対する態度が変わってほしいという願いもあった。
でも、逆効果だった。頬を腫らし、額にガーゼを当てた兄ちゃんが、本当に死んでしまいそうな眼をして「余計なことをしないでくれ」と俺の部屋訪ねてきたのは、その翌日のことだった。
泣いて謝ることしか、できなかった。
その時のひどく困惑した兄の顔は、今も忘れられない。
「ひどく困惑した顔」…つまり、ここまで本気で謝ってくるとは思いもしなかった、ということ。
兄ちゃんは、俺のことも、味方としては見ていなかったのだ。
それから、兄ちゃんは着々と壊れていった。
食事中に席を立って戻らない頻度が高くなり、やがて用意されなくなった…後に、拒食症だと判明した。
真夜中にふらりと消えては、次の日の朝、自身も困惑した様子で帰ってきた…後に夢遊病だと判明した。
兄ちゃんの本棚から、お気に入りだと言っていた本が何冊か消えていた。「もう読めなくなってしまった」と、下手になった作り笑顔を浮かべながら、赤い目元を隠す余裕もない兄ちゃんは言った…後に、ひどいいじめにあっていたのだと判明した。
暑い日にも、長袖の服を好んで着用するようになった…後に、その下から数々の暴力の跡が見つかった。
ー一全て、俺のせいだった。俺が、あの時両親にかみついたからだった。
あろうことか、彼らは俺が兄ちゃんに脅迫されてあんなことを言ったのだと、信じて疑わなかったのだ。
自分の息子だというのに、彼らはもう、兄ちゃんのことを「そう」とは見ていなかった。
早く捨ててしまいたいと…そう考えたのだろう。
そうして、まともに勉学に励む余力もなくなった兄ちゃんは、順当に大学受験に失敗した…いや、「失敗させられた」。
兄ちゃんが受けた大学は、俺と同じ経済学の名門校だった。でも、兄ちゃんの狙いは別のところにあったのだということもまた、俺は知っていた。
兄ちゃんが読んでいた本は、ほとんどが経済学の学術書だったが、その中に紛れるようにして植物図鑑が隠れていたことを知っていた。兄ちゃんの部屋には、いつもみずみずしい植物が飾られていた…今はもう、見る影もないが。
兄ちゃんは…本当は、植物学者になりたかったのではないかと、俺は思っている。
かの大学は、植物学の権威である教授が在籍していることでも有名だった。そして、兄ちゃんがその教授の論文を熱心に読んでいたことも、俺は知っていた。
兄ちゃんはもう、後継ぎになろうという気は毛頭なかったのだろう。ここで、新たな夢を開花させようと、ずっと準備をしてきたのた
……しかし、それすらも簡単に潰えてしまった。俺の、あの言動のせいで。
その後、兄ちゃんは部屋の本と、少しの私物のみを持って家を出た。俺には、止めるすべなどなかった。
幸い、早々にいい仕事を見つけたらしく、人並みの生活は送れているらしい。たまに大学帰りに家に行くと、カフェの仕事で学んだというコーヒーをご馳走してくれる…相変わらず線は細いが、少しずつ、兄ちゃんの顔に生気が戻ってきていた。
4年をかけて大学を卒業した俺は、それから2年とたたず父の跡を継いだ。信頼を得て、家督を譲り受けることは簡単だった。
それまでに稼いだ金で海外に別荘を建てプレゼントしたら、そちらでの生活を気に入り早々に隠居してくれたため、これで兄ちゃんを取り戻す準備は万端……の、はずだった。
「あの…どうでしょうか。お口に合いますか...?」
「…うん。美味い」
「本当ですか!?よかったです♪」
「…少し濃いけど」
「う…そ、そうですか…何がいけなかったんでしょう…」
「…砂糖、減らすといいかも。それか、みりん入ってるし、抜くでも」
「なるほど…」
いつの間にか一人ではなくなっていた兄ちゃんは、とても穏やかな表情をしていた。とても、以前あんなにボロボロだった人間には見えない。
それでも薬は飲み続けているそうだが。それでも、まだ一日一食が限界だそうだが。
……その兄ちゃんの隣にいるのが、俺じゃないということが…一番気に食わない。
「夕飛さんはいかがでしょうか…?」
「……まずい」
「あう…」
「…って、言ってやりたかったけど、美味い。ムカつく」
「!ありがとうございます!」
「というか…そう。兄ちゃん和食好きだったの」
「好きというか…体が拒絶しない。」
「ふうん…」
「筑前煮以外にも、いろいろ覚えられるように頑張りますね!」
兄ちゃんと一緒に暮らしている謎の男「アザレア」は、なぜか人見知りの兄ちゃんによく懐かれている。
俺には見せたことない顔もするし、俺といる時より緊張がほぐれて見える…本当に、ムカつく男。
「…板前雇うから、うち帰っておいでよ。その男の成長待つより、だいぶ早いうえに美味しいよ?」
「!……確かに…」
「お前が真っ先に納得すんのかよ」
「ええ、確かに、その方が合理的だなぁと…ただ、そうなると僕は一ー」
「職場まで遠いから、今のままでいい」
「夜空さん…」
こういう時、兄ちゃんは絶対に、この男と一緒にいられる方を選ぶ。兄ちゃんが、あの家にいい思い出がないことは知ってる。
でも…
「帰ってくれば、兄ちゃんはずっと家いてもいいんだよ?もうあいつらいないんだし」
「…………」
「……そんなに、俺と一緒は嫌?」
「そういう、わけじゃ…」
ああ、言い過ぎたかな。顔色が悪くなってきた。
アザレアがそれに気づいたらしく、いそいそと兄ちゃんに水を差しだす。
…恋人同士かよ、お前ら…本当に腹立つ
「ごめんごめん。ちょっと意地悪だったかな。俺は気にしてないから、大丈夫だよ、兄ちゃん」
「…………」
あの時に近い、暗い目で見据えられる…ああ、そう…俺の知っている兄ちゃんは、こっちだけだ。
「時間見つけてまた来るよ。その時また、家に帰ってくる気がないか…気が変わってないか、聞かせてもらうね」
「…ごめん、変わらない」
「……そう」
ふと視線を感じ目をやると、アザレアが他のことをいぶかしげに見つめていた。その手は、兄ちゃんの白くなるまで固く握られた手に重ねられていた。
…ああ…俺にも、そんな男気があれば、今頃は…
「……?」
「邪魔して悪かったね。それじゃあ」
「あっ……」
「見送りはいいよ。それとも、連れて行ってほしいの?」
「っ……いやだ…」
「ならそのままで…アザレアさん」
「…はい」
「…俺の大事な兄ちゃんのこと、よろしくね?」
「…はい。夜空さんのことは、僕にお任せください」
本当に、ムカつくやつ。
安マンションから出て、停められていた車に乗り込む。
「...邪魔だけど…それは俺の美学に反する」
脳裏に浮かんだおぞましい案を押しやり、自宅へと向けて車を走らせた。
ーー愛しの兄を、俺特製の「鳥籠」に入れるには、もう少し時間がかかりそうだ。
本編作成前の、弟「夕飛」から見た夜空を描いたショート
枢宮の設定が固まる前だったので、だいぶ反社寄りの思考をしていた