04)マデレーナの回想2
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私が熱で寝込んでいた間に、ジョシュアは皆に、私が例のにおいを嗅いだであろうと伝えていた。
あのにおいは大嫌いだけどジョシュアが大好きな私は、毎日、それこそずっとジョシュアについてまわっていた。
ジョシュアはジョンのようにお爺ちゃんじゃないから、何かの間違いだと思いたかったのに、毎日、いつでもあのにおいがした。
「ジョシュアのにおいは森のにおいよ!きらいなにおいじゃないわ!だから大丈夫よ!」
いつもそう言っていたように思う。
ある日、太陽を追いかけている夏の花が花びらをオレンジ色に変えながら枯れていく頃、リュカ兄のお母さんのマーゴが私のところへやってきた。
布と糸がたくさん入った籠を持っていた。
「お嬢様はラインの姫さまですから……まだ早いとは思いますが……ジョシュアのためにお願いします」
マーゴは珍しく、とても言いにくそうにしていた。
いつものマーゴらしくない、申し訳なさそうに、何かにすがるように。
あんな、弱気なマーゴを見たのはあの時だけだ。
『ラインの姫』と呼ばれる時、それは『あなたは特別なのですよ』と言われていることを意味していると気づいたのはいつ頃だっただろうか。
その頃には知っていた気がする。
『ラインの姫だから刺繍をしなくては』『それはジョシュアのためになるのだから』
マーゴの言いたいことはよくわかった。
それが私がすべき事であるということも。
マーゴは意地悪をしないし、言わない。
いつだって、私にとってはちょっと、時にはかなり、難しいことを言うけれど、それがいつだって必要なことだとわかっている。
リュカ兄のお母さんだから、じゃなくて、マーゴの言うことだから、やらなきゃいけないのだと、そう思える程に、私は昔も今も、マーゴのことを信頼している。
そうして、マーゴの刺繍レッスンが始まった。
ゆっくりと、一針ずつ布に刺す作業は、恐ろしく単調で終わりがみえなくて、私の空いている時間はどんどんなくなっていった。
おかげさまでジョシュアのひっつき虫ができなくなってしまった。しかしマーゴが「ジョシュアのために」と言うのだから、仕方がないと思っていた。
どうやら私は刺繍というものとは壊滅的に相性が悪く、あれ以来、十年近く続けているものの一向に美しくならない。
ともかく、刺繍を始めて数ヵ月が過ぎ、雪がパラパラと舞う頃、マーゴの美しい刺繍をお手本に、ガタガタごろごろの歪な刺繍のモチーフをようやくいくつか仕上げていた。
これがジョシュアのためになるのなら、と、マーゴに励まされつつ、すこしも上手にできない刺繍を、とにかくチクチクと刺すのがその頃の私の日課だった。
刺繍のせいでジョシュアの後を追えなくなってしまったが、おやつの時間には侍女ではなくジョシュアがお茶を用意してくれて、一緒に休憩をしてくれるようになった。
なんだかそれが大人の人のお茶会みたいにも思えて、それはそれで私は満足していた。
私は刺繍を刺す手を止め、窓の外の雪をみながら思い出していた。
母方の祖父母は、南の辺境伯だった。
あの日は前日が大雨で、その夜から雪になったんだった。
南部はほとんど雪が降らないから、慣れていない雪道での事故だった。
何か用事があったのだろうか。
いつもなら冬に祖父母が王都にいることはないのに、珍しく王都に来ていた。
今年の冬は王都で越すと言っていたのに、なぜか南の領地に戻る予定が出来てしまい、急遽、領地に戻る時、崖が。
いつもならなんの問題もない、ちょっとした崖が、前日の雨と雪のせいで道幅が狭くなっていて、滑りやすくなっていて。
崖下にはバラバラに壊れた馬車と、二人抱き合って眠るような祖父母、二頭の馬に御者と、落ちた馬車の全てが見つかった。
後続の馬車に乗っていた侍従たちの証言からも、事件性のない事故だとわかった。
事故。
なぜ気づかなかったんだろう。
病気になるのかと思っていたけど、元気でもこんなことがあるんだ。と。
ジョシュアから、ジョンと同じにおいがするのは変わらない。
じーじも、ばーばも、南のじーじもばーばも同じにおいだった。
あのにおいは、私の大好きな人を連れて行ってしまうにおいだ。それは間違いない。
「ジョシュア!」
私は私室を飛び出し、父さまの執務室へ飛び込んだ。
父さまの執務室は、いつも大抵、扉が開いている。
「マディ、どうしたんだ?淑女はノックするんだろ?」
父さまが茶化すけれど、そんなことは無視する。
ジョシュアは父さまの机の傍で、書類を手にしていた。
「ジョシュア!ジョシュア!」
「はい、ジョシュアですよ」
いつもと変わらない、優しい顔で私を見る。
私は腕を伸ばして、ジョシュアのお腹にしがみついた。
ジョシュアはいつものように、少し屈んで私を抱きとめてくれる。
「ジョシュアは病気?病気はないわよね?」
「はい、元気ですよ」
「痛いところはない?」
「ないですよ」
私は、ジョシュアが屈んでくれたから近くにあるその頬にペタペタと掌を当てた。
つるりと滑らかな頬は、私の手を冷やす。
「お熱もないわよね?」
「ないですよ」
そして、その時初めて気づいた。
「ジョシュア、お顔がものすごくきれいなのね!」
ジョシュアの黒い髪も、藍色の瞳も、父や兄と同じ色だ。
これはラインの色。
だけど何か違うと思っていた。
何が違うのか、ようやくわかった。
この間、母さまに見せていただいた、大人の絵本に出てくる王子様のお顔よりも、ずっときれいなお顔だった。
「………………ありがとうございます」
「マディ、お前、今気づいたのか………」
ジョシュアは少し困ったように、父さまは呆れたように、返された。
「母さまがご本の絵を見せてくれて『これが素敵な王子様よ』って言ってたけど、なんかよくわからなかったの………ジョシュアのがずーーーっとずーーーーーーーーっと素敵よ。ジョシュアは王子様じゃないのよね?」
私の力説に、ジョシュアは微笑んで何もいわなかった。
父さまの机の方から『カラリ』と音がしたのでそちらを見ると、父さまが、力が抜けたようにかくん、と頭を落としていた。
仕事をしていたはずなのに手には羽ペンがなかった。落としちゃったみたいだ。
「ジョシュアは……そうだな、確かにどの王子様よりも美しい顔をしてる。うん、ものすごくきれいな顔、合ってる……マディ、よーーーくよーーーーーーーく覚えておけ」
「なぁに?」
わたしはジョシュアに抱きついたまま、父さまに尋ねた。
「きれいな顔の基準は、ジョシュアじゃない。ジョシュアはこの世で一番きれいな顔だ。きれいな顔ってのは………」
「旦那様もきれいな顔ですよ」
ジョシュアが父さまの顔を褒めるけれど「そうね!」って言えなかった。
父さまの顔は、にぃさまとよく似た顔だ。
眉毛がしっかりしてて、目がちょっと下がってて、にぃさまがイタズラするときのちょっと笑っている目と本当によく似ている。
そんな顔が、私を見ている。
安心する顔だけど、ジョシュアのようにきれいなお顔とは思えない。
私が返事をせずにじーーっと父さまを見ていると、父さまは「はぁ」と、ひとつ、ため息をついた。
「………母さまはとてもきれいな顔だ。もちろんお前もとてもきれいになると思う。だが、ジョシュアのきれいは特別きれいっていうんだ。コレが普通のきれいだと思うなよ」
父さまの言うことはよくわからなかったけれど、ジョシュアのお顔がものすごくきれいだって、父さまも思っていることはわかった。
「ジョシュア、わたしはジョシュアが大好きだけど、お顔がきれいだから好きなわけじゃないからね!」
「はい、存じておりますよ」
ジョシュアはあいかわらず微笑んで、私の頭を撫でながらそう言ってくれた。
大きな、ちょっとゴツゴツした手は、小さな頃に大好きだったばーばのふっくらとした手とは違うのに、同じように温かくて、私は理由もないのに少しだけ涙が出てしまった。
その後、ジョシュアに抱っこされて自室に戻り、お茶の時間でもないのにお茶を淹れてもらった。
甘くしたお茶の香りは、ジョシュアからのにおいに消されてしまうけれど、口に含むとその甘さにほっとした。
そんな風に毎日を過ごした。
雪が降る冬を越し、春告げ花が咲いてもジョシュアは風邪ひとつ熱も出さず、健康そのものだった。
庭の花が競って咲き始める頃には、私の拙い刺繍を刺した布も十枚を超えた。
しかし、あのにおいは私の望みを嘲笑うかのように、いつまでもジョシュアにまとわりついていた。
私はその頃になると、仕事をするジョシュアのそばで、つまりは父さまの執務室のソファに座って刺繍を刺すようになっていた。
マーゴに教えられた刺繍のデザインは三種類で、いつまでたっても―――それこそ未だに―――上達しないが、その三種類のやり方は覚えたので、あとはひたすら刺すだけだった。
指先に針を刺したらマーゴのところへ飛んでいき、手当てをしてもらい、ジョシュアのいる父さまの執務室に戻って刺繍を刺す。
そんな日々を過ごし、いつだってジョシュアのそばにいた。
だけど。
あのにおいはジョシュアを遠く、もう会えないところへ連れて行ってしまった。
私の周りからあのにおいが消え、大好きなジョシュアがいなくなってしまったのは、私が七歳になる前のことだった。
それからの私は、なるべく外出しないよう、屋敷の中で過ごすことが多くなった。
続きは、明日の7時30分頃を予定しています。
よろしくお願いします。