02)紅珊瑚のラペルピン2
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自宅に戻ると、出迎えた執事に濡れたマントを預け、執務室で簡単に今日の出来事を書き付けた。
「リュカ」
エリオスは視線も上げずに執事を呼ぶ。
マントを片づけた執事は先程から部屋の隅に控えている。そのまま物音も立てずにエリオスの執務机の傍に侍る執事に、先程の書き付けを預けた。
「これを父上に。早急に。戻りは?」
書き付けの内容に目を走らせた執事は、自分の主の意図を探る。
「領地で為すべきことは?」
「僕からはなにも」
「ならば五日で」
「五日?四日だろう?」
エリオスは左の眉だけを軽く上げ、茶化すように言った。
ライン領へは通常の早馬で片道三日かかる。
いつもならば馬扱いの巧みな他の者に頼むところだが、今回は重要な機密事項のため、腹心のリュカに預けた。彼ならば通常の早馬よりもかなり速い。本気を出せば片道二日だ。
「旦那様と相談して善後策を練る時間が必要かと」
「そうか。なら、もう一日やるよ。マーゴと一緒にジョシュアの所へも行っておいで」
これで通常の早馬と同じ日数の行程だ。早く知らせたいが、戻りは急がない。リュカ自身にも急ぐ予定がないのであれば、通常通りの六日間の行程で構わない。
エリオスは陽気でおおらかな乳母を思った。
慣例とはいえ、夫を失った乳母から、たった一人の息子であるリュカを引き離して王都へ留め置いている事は気にならないわけではない。
エリオスにとっても、乳母は家族同様に大切な存在だ。
「ではお言葉に甘えまして。母が了承するかはわかりませんが」
「僕の命令だとマーゴに伝えて」
息子と同様に滅私奉公な乳母を思い、エリオスは苦笑いした。
今は母の元で家政婦長をしているマーゴは、休みなどろくに取らないだろう。命令としなければ業務外の外出などしまい。
「マデレーナに、ジョシュアへの預かりものがあるか聞いてやって。黙ってジョシュアの所に行かせたとバレたら怖いから」
「ですね。畏まりました」
肩をすくめるエリオスに応えるように、執事は笑顔を見せた。
その顔は父親のジョシュアによく似ているが、その笑顔は幼いころからの気安いもので、エリオスは少しだけ和んだ。
「出立の挨拶はいらない。頼んだ」
「では六日後に戻ります」
「うん、よろしく。間違っても今夜出立しないように。早朝だよ。夜間は危ないから。今日は雨も降って地面がよくないから、気を付けて」
「わかりました。御前、失礼します」
一礼して執務室を出ていく乳兄弟の後ろ姿をぼんやりと眺める。
今日は気を張っていたからだろうか、なんだかとても疲れた。頭が重く感じる。
執務机に両肘をつき、両の掌で自身の額を抱え込み、目を閉じた。
歴代の『次期』が王都で使用してきた、古い古い執務机の裏側には、いくつものイニシャルが並んでいる。
『ラインバッハの次期』には『ラインセスの次期』が分身のようについている。
父とジョシュアのイニシャルの下に自分とリュカのイニシャルを刻んだのは、エリオスが10歳を越えてそれほど経っていなかったはずだ。
あの日も雨が降っていた。
びしょ濡れのリュカと濡れ始めのエリオスが共に机に潜り、父の執務机から小刀を取りだし、誓うように自分のイニシャルを彫って、そのまま二人、子犬の兄弟のように身体を寄せあって丸まって寝た。
しばらくの後にマーゴに見つかって、絨毯を濡らしたこと、濡れたまま寝たことを、言葉を変えて何度も怒られた。
「まぁ、それくらいで」と、美麗な顔に微笑みをうかべ、彼の妻である乳母をたしなめてくれる、優しく美しい男はもうそこにはいない。だからマーゴはいつまでも怒るのだ。マーゴも泣いていた。
エリオスは、その時初めて、ジョシュアを失ったことを実感して、隠すことなく大いに泣いた。
天板の裏に指を滑らせ、自分が彫ったイニシャルとリュカが彫ったイニシャルを指先でなぞる。
「リュカ、頼んだよ」
相手は既にいないが、思わず音になって零れた。
今日、自分が気づいたことは早急に父に伝えなければならない。
錬金術の研究をしている父ならば、自分よりもずっと正しい判断が出来る。そのためにも一刻も早く情報を伝えなければ。
これから六日、なにも言わずとも察してくれる執事が不在となる。他の従僕も優秀ではあるが、リュカとは比較にならない。
だからこそ今回の件も任せたわけだが、おまけの一日を足したことを少しだけ後悔して、いやいや、と思い直す。
休むことを知らないリュカと、よく似た彼の母親には強制的な休暇も必要だ。
昔のことと、今日のことと、これからのことと。
とりとめもなくぼんやりと考えていると、開けたままの扉が控えめにノックされた。
「にぃさま、いいかしら?」
「マデレーナ、どうした?」
エリオスは椅子から立ち上がることなく、扉前の妹に手招きした。
「リュカから聞いたわ。領地に……ジョシュアのところに行くって」
「あぁ、うん、仕事を頼んだからね」
妹に詳細を伝えるつもりはないが、何かを察したのだろうか。
「お父さまとお母さま宛に簡単な手紙を書いたわ。あと、ジョシュアのところにはハンカチを……刺繍したの」
「マーゴに点数をつけてもらうよう、頼んだ?」
「まだまだマーゴによい点はもらえないわ」
エリオスの問いかけに、妹は肩を竦めた。
妹は刺繍が下手だ。いや、上手くない、と言うようにリュカに指摘されていた。上手くない。
そして好きでもなさそうだが、淑女の嗜みなのか、教育の一環なのか、よくわからないがハンカチに刺繍することはそれなりに取り組んでいる。
一度、なぜ得意でもない刺繍を続けるのか、マデレーナに問うたことがあるが、少し困った顔で「ラインの娘だから、やらないといけないの」と、いうばかりだった。
その、さして上手くない刺繍は、それでもなかなかの壮大なものをハンカチに刺している。
自分やリュカも何度かもらったが、ジョシュア宛のものも定期的に作っている。そしてそれはマーゴによって腕前の上達確認されているのだが、なかなか及第点が取れないようだ。
「六日ほどリュカは留守にするから。不便をかけるけど大丈夫だろう?」
リュカは妹にとっては頼れる幼馴染みだが、仕事としてはエリオスの執事なので、直接的にマデレーナの生活に影響はないはずだ。
「ええ、私は大丈夫よ。………でも、困ったわね。にぃさま、明日からお熱がでますよ」
「え?そうなの?」
妹の発言にエリオスは思わず声が大きくなる。
今日、雨に当たったから風邪でも引いたのだろうか。騎士のくせに軟弱だ!と、上司に怒られそうだ。
「明日……そうね、今晩からかも。ちょっと大変そうだからお仕事はお休みされたほうがいいと思うわ」
心配する口調ではなく、事実確認のように告げてくる。妹は発熱についても的確に予知する。本人は「熱のにおいがする」と言っている。こういう言い方は間違いないのだろう。
「高い熱がでるのか?」
「そうね……何というか……ああ、長いのね、多分、数日続くと思うわ」
淡々と予言の言葉を重ねていく。よくわからないが少し大変らしい。
しかし、前もって発熱を予知してもらうのは助かる。回避できない不調ならさっさと受け入れ体制をとる方がずっと楽に過ごせる。
先程からの疲労感は発熱の予兆なのだろうか。
妹に発熱すると言われ、とたんに身体が更に重く感じてきた。これは暗示みたいなものなのだろうか。
「ともかく、にぃさま、お大事になさって。お世話はどうします?」
「今晩はいいよ。もう休むから」
「そう。暖かくして休んでくださいね。お休みなさいませ」
「ああ、マデレーナもお休み」
妹は扉の前で振り返るとヒラヒラと手を振り、退出した。
エリオスが湯を使って体を温め、自室で就寝の支度をしていると、古参の従僕が、蒸留酒を薄くお湯で割ったものを持ってきた。
「お嬢様に頼まれまして」
「マディが?酒なんてまだ飲めないだろ、あいつ……」
一体、どこで習うのか、弱い寝酒を用意された。
カップからは爽やかなリンゴの香りがする。
口に含むと、少しだけ甘味を足された温かな飲み物が喉の辺りから微かに熱を持つ。
温まった身体をベッドに預け、エリオスはゆっくりと深い眠りへと落ちていった。
続きを、明日の午前7時30分に投稿予定です。
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