00)プロローグ
初投稿です。よろしくお願いします。
いつもと変わらぬその日の昼下がり、ドーソン家の執事はいつもと同じように、届けられた沢山の手紙を処理していた。
宛先を見て、封蝋を確認し、封を開けて中身をあらためるものとそのまま主へ渡すものを分ける。
封筒の手触り、重さなどから招待状か、カードか、あるいは幾枚かの私的な書簡かを瞬時に判断し、ペーパーナイフで開封していく。
彼にとっては日々行われる馴染みの仕事のはずのそれが一変したのは、今、手の中にある封筒の封蝋を検めた時か。あるいは馴染まない重さに違和感を抱いた時か。
40も半ばを過ぎ、冷静さと穏やかさを身に付けたはずの執事は、ペーパーナイフを仕舞うことも忘れ、主のもとへと急いだ。
自身に与えられた執務用の部屋の扉を閉め忘れたことも、屋敷の廊下を走ることも、執事見習いとして働き始めてからのおよそ三十年間において初めてのことだっだ。
「大旦那様!」
主の執務室の扉をノックし、返事を待たずに部屋に飛び込む。
主は、執務机に向かって何かを書き付けていたのだろうか。鼻にかけていた眼鏡を外すと、ゆっくりと彼の方に頭を動かした。
「どうした、サイラス。珍しいな」
ドーソン前侯爵は、執事のらしからぬ様子を咎めることなく穏やかに声をかけた。
先の大戦で大槍を振るった武人の面影はもうない。
大きく分厚かった体躯も痩せた。眉間に深く刻まれた二本の縦皺に、かつての厳つい相貌の名残を感じさせる程度だ。
武人として得難い天与の才と謳われた『遠見の目』―――遥か彼方の細部まで見える特別な目―――も、加齢とともに失われ、今では手元の文字を読むのに眼鏡が必要な、普通の老人の目になっている。
血の気のひいた執事は、震える手で一通の手紙を差し出した。
王家の印が押された手紙でもこんな様子を見せたことのない執事の、かつてない姿を少し疑問に思ったが、何かが同封された重さのある封筒を手にし、押された封蝋を見て全てを悟った。
「なるほど」
ドーソン前侯爵は、自身の声が思った以上に落ち着いていることに安堵した。
引出しからナイフを取り、封を切り、先ほど外した鼻眼鏡をかけなおした。
飾り気のない便箋に、丁寧な文字が並んでいる。二枚にわたる手紙をゆっくりと読み、深呼吸を一つした。
「なるほど。確かにこれは令嬢からのものだな。お前も読むか?」
ドーソン前侯爵は、執事の返事を待たずして手紙をその手に押し込めた。
クシャリと、紙がよれる音が手の中から聞こえ、サイラスはハッとする。
今の今までぼんやりと主の姿をただ眺めていた事に気づき、深く頭を下げた。
「気にするな。まぁ、読め。噂どおりだ」
手元にある手紙を、主の指示に従って読みすすめる。
短い気候の挨拶文から始まるそれは、半月前の夜会でドーソン前侯爵を見かけたことが綴られていた。襟元のラペルピンに使われた紅珊瑚が美しく印象的だったことが誉められている。
このピンは二年前に嫁いだドーソン前侯爵の孫娘から贈られた、彼女の婚家が治める領の特産品だ。嬉しそうにピンを留めていた主の姿を思い出し、なかなか良いところを誉めてくれているな、と、手紙の主の観察眼に敬意を払う。
孫娘からの贈り物を誉められて嫌な爺はいないだろう。
そこから一転、余命宣告だ。長くても一年であろう余命を告げる文が、淡々とした言葉で綴られている。
先の夜会での様子の描写とは違う、情緒を挟まない、報告書のような短い文。
そこからは再びドーソン前侯爵の体調を気遣う優しい文言が並ぶ。
思い残すことなく過ごして欲しいと綴られ、同封の白銀貨が割り符であること、もしも自分を騙る者が現れた際には、この割り符と同じところに傷があることを確認するように、と添えられていた。
手紙からは微かにさわやかな花の香りがする。
差出人の名はないが、庶民向けの小綺麗な店で昼御飯を食べてもおつりがくる白銀貨がわざわざ添えられていること、夜会に出入りしていることからも富裕層であることが窺える。
「ご令嬢、ですか?」
子どもの手習いの教科書のような優美な文字は、確かに女性的であるとは思うが、令嬢、つまりは若い女性であると断言するのはなぜだろうか。
サイラスは主に対する余命宣告を忘れるかのように、主の先程の言葉を思い出す。
「うむ。こう、新鮮な手紙だ。拙くならないよう、丁寧に書かれている。孫からの手紙を読んでいるような、微笑ましい心地になる。可哀想に。まだ年若いのに死の気配に敏いとは」
そう言う主の顔は、今しがた余命を告げられたとは思えないほどに穏やかだ。
かくいうサイラスもまた、封筒を初めて手にした時の焦燥感はいつの間にか消えていた。
「このご令嬢は……さぞや優しい娘であろうな。こんな年寄り、いつ死んでもおかしくない。知らぬふりをできることをわざわざ伝えてくるのはつらかろう」
ドーソン前侯爵は、封蝋をながめ、そこに刻まれた傷の数を確認する。本来ならば家紋や個人紋が捺されるであろうそこには、傷だらけの白銀貨が捺された跡がみてとれた。
「28も傷がある。少なくとも28回はこのような手紙を書いているのだろう。噂になったのはここ一年ほどか?」
「わたくしが耳にしたのはちょうど一年ほど前になります」
貴族階級の者、あるいはその近くにいる者へ届く不思議な手紙についてサイラスが初めて耳にしたのは一年前。他家のご隠居夫人の訃報に際し、お悔やみの遣いとして訪問した時の事だ。
白銀貨が一枚添えられた飾り気のない手紙。余命が一年以内であると記載された死亡予告の手紙が、半年ほど前に件のご隠居夫人の元に届いたらしい。
手紙を受け取った当初はともかく、最後の三か月ほどは生前の形見分けをしたりと穏やかに過ごされたという話だった。
『白銀貨の手紙』は、それ以降も噂として耳にすることがあった。
差出人は不明だが、どこぞのご令嬢だろうと噂されていた。
「そうか。ここ二、三年で社交界に出てきたご令嬢だろうかな」
ドーソン前侯爵は手紙に書かれていたラペルピンを贈ってくれた孫娘のことを思った。ピンに添えられた手紙には、そろそろ産み月になるだろうことが書かれていた。あれから一月が過ぎた。もう生まれる頃だろうか。孫娘にとっては初めての子で、ドーソン前侯爵にとっては三人目のひ孫になる。
「寒くなる前に一度、フューエル伯領に行こうか。サイラス、手配しろ」
そう執事に告げるドーソン前侯爵は、自分が、差出人の名のない手紙に書かれていることに疑問を持たずに受け入れていること、また死期を告げられたにも関わらず穏やかなことに驚いていた。
手紙には、思い残すことなく過ごせと書かれていた。
妻は既にこの世を旅立ち、子らも中年。嫡男に家督を譲って何年も経つ。五人の孫も皆、成人し結婚した。
改めて自分が老いたことを実感した。
遠く辺境に嫁いだきり顔を見ていない、ラペルピンを贈ってきた孫娘。子が生まれるのであればしばらくは領地から動けないだろう。ならば自分から会いに行けばよい。二年もの間、会わないことを気にしなかったのに不思議なことだ。
見ず知らずの令嬢からの手紙に背中を押されるように、孫娘と未だ見ぬひ孫に思いを馳せた。
◇◇◇
先の大戦の英雄、リシャール・ドーソン前侯爵が家族たちに見守られその生涯を穏やかに閉じたのは、冬の終わりの寒い日のことだった。