80:戻る日常
時間が飛んだ、と確信したのはこれで何度目か?
最後の記憶はモニター越しにアッカフと会話をしていたと思われるものであり、その後から今までの時間が奇麗に飛んでいる。
「お忘れですか? 御主人様はアルマ・ディーエの名を借りるための対価としてこちらの実験に協力することを受諾しております」
「あれ? そうだったっけ?」という疑問が頭に浮かぶが、その実験の内容を外部に漏らすわけにはいかないとの理由で俺の記憶は削除されているらしい。
なるほど、一応辻褄は合っている。
記憶にない契約の同意の証拠を突き付けられるが覚えていないので首を傾げる外なく、夕食の時間とあって、目の前の並べられた料理に一度視線を落として手にしたレンゲでスープを一口。
「美味い」という言葉すら出ない絶品に舌が震える。
具は溶いた卵と鶏肉だけのように見えるが、その味の奥深さは到底これらの具材だけでは表現できるものではない。
アイリスがスープの説明をしてくれているようだが、その中身がさっぱり頭に入ってこない。
まさに衝撃的な美味さである。
思わず何度も口に運んでしまったが、並べられた料理は全部で6品。
その中から同じくレンゲを使う一品へと手を伸ばす。
牛肉を卵でとじて中華餡をかけたものらしく、レンゲをその山へと突き入れると中心部にはライスが見えた。
口に入れた瞬間「うおぅ」という言葉にならない声が出た。
中華餡の複雑極まりない旨味を受け止めるライスが牛肉の猛攻に押し切られそうだ。
そこにトロトロ卵の助っ人が前に出る。
あわや混然一体の大乱闘――しかし喉を過ぎればそれはまさに一つの物語のような完璧な試合。
たった一口で理解させられるほどに筆舌し難い美味さ。
「まさに革命。これを美味と言わなければ――」
「御託を並べる暇があるなら食べましょう。誰も御主人様の無駄な評論など望んでおりません」
「はい」
モグモグと黙って口を動かし目の前の料理に舌鼓を打ちながらじっくりと食す。
サージス星系から避難中に見たグルメ特集のリポーターの真似事は不評だったようだ。
食に関心がなかった頃では考えられない光景が当たり前となり、今では高すぎる買い物ではあったが概ね満足しているこの現状。
何か一つ特技にでも繋がらないかと試してみたが、どうやら俺にはリポーターの才能はないようだ。
さて、食事も終わったところで本題を切り出す。
「アイリス。記憶を消した、ということは俺はまた何かインプラントを埋め込まれたのか?」
「その程度のことで埋め込む必要はありません」
これだからクオリアの技術は怖い。
他人の記憶を弄ることを「その程度」と言ってのける。
しかしこれが嘘とも言い切れず、無言でアイリスを見つめる。
その視線にやれやれ、といった身振りで答えたメイドが俺に向き直って優雅に一礼。
「では御主人様の不安を解消するべく概要だけお伝えします。バレア帝国の身体強化技術をクオリアの技術で調整致しました。詳細を教えることはできませんが御主人様に埋め込まれたインプラント絡みとなります」
「まさかと思うが、前に話していたリミットオーバー? その関係じゃないよな?」
俺の質問に今度はアイリスが黙る。
しばし食器を片付ける手が止まったアイリスと見つめ合う。
「御主人様。世の中には知らなくてもよいことがございます」
「これは知っておく必要のあることだと思うんだが!?」
俺の叫びを無視して片付けを再開するアイリス。
そもそも記憶が飛んだ部分に何処まで真実が含まれているかがわからない。
今後は日記でも付けようかと携帯端末を取り出し、アプリケーションを開くと使用履歴の中に目的のものがあった。
どうやら記憶を消される前の俺は何かを残そうとしていたようだ。
「そちらは削除済みとなっております」
「……なんか奉仕されているというより管理されている気分だ」
だったら余計なことばかりするな、とアイリスに睨まれる。
契約が事実ならば確かのこの行動はNGだ。
出鼻を挫かれた気分の俺は日記をつけることなく携帯端末を仕舞う。
それから記憶がなくなった時間に何があったかを簡単に説明を受けて食堂を後にした。
ちなみにフリージア社の代表からの連絡もアイリスが対応しており、成果としては二回目となる肉体強化の無料チケットと各種優遇サービスを受けることができるコードを分捕っていた。
どうにかしてアイリスとの面会を実現させようとしていたようだが、アイリスは実験データを取るのに忙しく事務的な対応だけで済ませたらしい。
食後の休憩を終えた俺はトレーニングルームにやってきた。
それなりに時間が経過したので強化された肉体を馴染ませるべく、軽く体を動かしにやってきたのだが……目の前にいるのはトレーナーメイド姿のアイリス。
まあ、相手がいた方がやりやすいのは事実である。
取り敢えず簡単なメニューをこなすということを伝え、着替えた俺は準備運動から始める。
「……?」
早速の違和感に首を傾げたところでアイリスが近づく。
まるで体の動かし方を一から説明するように、文字通り手取り足取り丁寧に各部位を順番に動かしていく。
「日常生活には問題ないが、運動するとなると途端にこれか」
背後から密着するアイリスに腕を取られ、肩から先を動かしながら先の長さに肩を落とす。
「肉体のスペックと反応速度に意識が追い付いていないだけです。動かし続ければいずれ慣れます。」
後ろからグイグイと胸を押し付けてくるアイリスの言葉に「そうだな」と返して腕を動かす。
相変わらず良い弾力だが、俺の下半身が一切反応しない。
空気を読んでくれているのか、それとも俺の理性が成長したか?
余計な手間が省かれたことで順調に俺のリハビリは続き、ようやく違和感が気にならなくなってきたところで少し激しく体を動かしてみることになった。
「では始めます」
そう言って両手に持ったミットを叩くアイリス。
俺は手に付けたグローブを確かめ、スパーリング開始と同時に間合いを詰めた瞬間――前に出した足がもつれる。
前のめりにつんのめったところで、俺の失敗に合わせたアイリスが一歩踏み出し正面から受け止めてくれる。
「力み過ぎです」
「……みたいだな」
ゆっくりと胸の谷間から顔を引っこ抜き、指定の位置に戻って仕切り直す。
今度は失敗することなく構えたミットにグローブをはめた拳が突き刺さった。
感触を確かめるように一発一発を丁寧に打ち込む。
アイリスの指示に従い全身を隈なく使い動きながら目の前のミットに拳を打ち込み続けた。
一頻り体を動かした後、最後に数値として自分の強化された身体能力を見る。
全体を見ると現状の数値でも3倍から5倍となっており、ここからまだ伸びる上に二回目の強化も控えている。
「なるほど、肉体強化を行った相手に勝てる道理がないわけだ」と何度も勧められたことに納得する。
休憩を挟んだ後に持久力のテストも行いトレーニングは終了となる。
軽く体を動かす程度のつもりだったが、思わずがっつりと時間を取ってしまった。
しかしこれくらいの訓練時間が俺にとってのいつも通り。
ようやく日常が戻ってきたと実感しつつ、その日は何事もなく終わりを迎える。
それが一時の幻想であったことなど知る由もなく、俺は静かに寝息を立てていた。




