35:唐突なインフレ
「聞きたい。俺は何かまずいことをしたか?」
どうやらわかっている様子のアイリスにシーラのあの態度について、俺に何か落ち度があったかどうかを確認する。
正直ガキの一人に嫌われたところで問題はない。
だが、あの幼女は侯爵家の人間となり、いずれはイズルードルの名を名乗る正式な貴族となる。
おまけに現当主が後継ぎとして迎え入れる予定とのことなので、あいつの発言次第では今回の仕事の目的そのものが瓦解する恐れがあるのだ。
「問題自体はありませんし間違えてもおりません。御主人様にはある知識が不足していただけのことでございます」
そう言って優雅に一礼するアイリス。
ここでもまた知識。
向こうも一般人だが貴族としての教育を受けていたとの情報がある。
貴族を相手にするにはまだまだ俺は勉強不足だったということか?
「貴族として教育を受けていた、とは聞いていたが……それは間違ったものじゃなかったのか?」
「はい。あれは貴族としての教育というより皇族としての教育を受けて育っております。彼女の母親はどうやら相当な勘違いをしていた模様です」
基準が貴族から皇族へ――いきなりハードルが予想を遥かに超えて上がってしまった。
これには俺も苦笑いをする外ない。
何か対策をお願いしようとアイリスを見ると、一つ頷き追加の情報を出してくれた。
「各種記録から彼女は拳帝シリーズのファンであることが予測されます。多大なる影響を受けた結果あのようになったと推測します」
「あれは良いものだぞ」
突如ブリッジの扉が開き、シーラがそれだけ言ってまた何処かへ行ってしまう。
「それを言うためだけに待機していたのだろうか?」という疑問はさておき、皇族のような教育を受け、拳帝シリーズとやらに影響を受けた――それが何を意味するのか?
それを知るために俺は備え付けのコンソールで検索。
「……アニメ?」
出てきた検索結果を俺が呟くとアイリスが無言で頷いた。
「つまり御主人様に足りていない知識とはサブカルチャーのことでございます」
その言葉に俺は「ええ……」と世の不条理を体感したかのような顔となる。
ちなみに拳帝は現在7作品目に突入しているそこそこ人気のあるアニメのようだ。
問題となるその内容だが……荒廃した世界で皇帝の座に就く男が時に身分を隠し世のため人の為に暗躍する話である。
しかし何故か銃や大砲のある世界で拳一つで解決する。
ならず者の退治や役人の不正を正す姿は為政者として素晴らしいのだろう。
だが解決法は拳である。
更に未解決事件や本来ならば推理ものとなる場面でも拳で解決。
隣国の軍勢にも単騎で突撃、拳で解決。
こんなものに影響を受けた、とあるならばあの攻撃性も一応納得がいく。
当然納得の行かない部分もある。
「それは単純に作中のセリフを使ったものの御主人様が正しい反応を示さなかったことにあります」
まだ口にしていないのに俺の疑問に答えてくれるアイリス。
その能力を何故もっとメイドらしく使えないのか?
しかしそれでもあの身体能力については疑問が残る。
「そちらについては身体強化を受けているようです。強化段階もかなり進んでいる様子ですのでこの護衛対象は自衛が可能でしょう」
「もういっそ心読むの止めにしない?」
俺の期待が虚しく空回りしているのを見るのもそろそろ辛いのだ。
そんな俺の心など些末なことだと言わんばかりにアイリスは続ける。
「ということで今日からしばらくは予定を変更して拳帝シリーズの勉強となります。まずは全シリーズの視聴から始めます」
「我のお勧めはシーズン5。1と2を見ておけば内容を理解することができる。過去編の3と4を飛ばしてみるのも通のやり方だ」
ブリッジの扉が開くなりまたシーラが言うだけ言って去って行く。
「なに、ずっと待機してんの?」
俺の疑問に返事はない。
アイリスの「では始めます」との声で無情にも上映開始。
ブリッジの特大モニターがこんなことに使われる日がやって来るとは思わなかった。
上映準備が整うや否や、また扉を開けて中に入ってくるシーラ。
「1作目からの耐久レースか。久しぶりに滾るな」と何だかよくわからないセリフを吐く。
こいつはまさか7作全部一気見するつもりなのだろうか?
年相応の幼い顔を見せたシーラを横目にオープニングが始まった。
「時は帝歴~」から始まるナレーションをバックに二本の角が特徴的な兜を被り、黒いマントをはためかせる大男の背中が映る。
そして振り向き様にマントを翻し、見える姿はブーメランパンツにマントと兜という筋骨隆々のイケメン。
既に子供が視聴するものではない、との判断を下しているが多分間違っていない。
隣で小さく拍手をする幼女がいるが、俺はここから影響を与えた何かを理解する必要がある。
俺はこれも仕事と思って覚悟を決めた。
3時間経過した辺りで既に俺の脳は拒絶反応を示していた。
至る所に出てくる筋肉、筋肉、筋肉である。
その合間合間に暴力が挟み込まれ、最早常人が理解するには困難な作品となっている。
知性ある人類として理解することを拒否するのは正常な反応だ。
「これは影響を受けた」のではなく「洗脳された」の間違いではないか、と思うのもおかしな話ではないはずだ。
俺が画面を指差しアイリスを見る。
その視線に気づいたアイリスは微笑んで頷いた。
「御主人様。世の中には様々な価値観がございます」
これもその一つだと言いたいのだろうが、この創作を価値観として認めるのは俺には無理だ。
「一度休憩にしよう」
そう言って俺は有無を言わさず席を立つ。
「この程度で根を上げるか、軟弱者が」
これも作中のセリフである。
なんとなくわかってきたが、こいつは拳帝のセリフをやたらと使いたがる。
作品は理解できなくともシーラの言動については理解が進んだ。
「後は勝手に見ておいてくれ」とだけ言い残し、俺は食堂で水分の補給を行う。
「あんなものを長々と見せられて堪るか」
思わず口に出る本音に続いて溜息まで漏れる。
ブリッジに戻る気がない俺は自室で横になろうとかと思ったが、幾ら何でも眠るには早すぎる。
仕方なしに軽く体でも動かそうとトレーニングルームに向かうとそこには先客がいた。
それを果たしてトレーニングと呼んでよいのだろうか?
目の前で繰り広げられているのは見たこともない攻防。
重力ブロックとは思えない動きであのアイリス相手に一進一退を演じるシーラの姿があった。
手加減しているのは間違いない。
しかし俺との訓練時よりも確実に動きが良いのは傍から見てわかった。
そのアイリスを相手に攻めているのだ。
「流石はアルマ・ディーエ! これでも届かんか!」
笑うシーラの拳がトレーナーモードのアイリスの腰を掠める。
そこに容赦なく膝をシーラの顎へと叩きこむアイリス。
直前に後ろに飛ぶことで威力を殺すも、ダメージがあったのか手の甲で顎を拭ったシーラがこちらの存在に気づいた。
何とも居心地の悪い状況に黙っていると、シーラは俺を見てニヤリと笑った。
「わかっておる。わかっておる」
皆まで言うな、と特に発言しようとしたわけでもない俺を制したシーラが、それはそれは優し気な目つきで笑う。
「滾るのであろう? わかるぞ、その気持ち。アレを見て衝動のままに拳を振るいたくなるのは仕方のないことだ」
「お前と一緒にすんな」
軽く体を動かしに来ただけだ、と幾ら言っても聞かない幼女。
どうやら拳帝を見て我慢できずにトレーニングルームに来たと思われている。
この勘違いが果たしてどんな結果を呼び込むか?
そんなものは言わなくてもわかる。
次はお前の番だ、と言わんばかりに笑顔で手招きする幼女にどう対処するべきか?
サブカルチャーに傾倒する10代とはかくも危険なものなのか、と俺はまた一つ賢くなった。




