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愚者とエゴイストの輪舞曲  作者: ハロー
第一章 花時雨
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母と子



『──そうして白鳥から人間に戻ったお姫様は、王子様と結婚していつまでも幸せに暮らしました。めでたしめでたし』


 ベッドの上で絵本の最後のページを読み終えて、母は自分の横にぴったりと寄り添って絵本を覗き込んでいた娘のロアの反応を伺った。ロアの丸い緑の目がぱちぱちと瞬きを繰り返す。


『おしまい?』


 ロアは裏表紙をじっと見つめて絵本の最後のページを開いたり閉じたりしてから、母を見上げてきょとんとした顔で尋ねた。母はあどけないその眼差しに微笑みかける。


『そうよ』


『おひめさまは、いかないの?』


 娘はまだ三歳で、言葉は拙い。母は娘の髪に手を伸ばし、その子ども特有の細い髪を優しく指で梳きながら問い返した。


『どこへ?』


『たすけに』


『助けに? ええと、誰を?』


 見当の付かない母が言い淀みながら尋ねると、ロアは床へ視線を落として少し考える仕草をした。娘が答えを探している訳ではなくどう言うべきなのか表現方法を探しているということは、傍らの椅子に座って二人の読み聞かせを見守っていた父にも分かった。

 父はちらりと年季の入った樫の木の柱時計の時刻を確認した。もうすぐ娘は寝る時間だ。夜更かしして明日の朝からぐずられるのは困る。


『だれか。ママハハにいじめられたり、まじょにのろいをかけられて、こまってる、だれか』


 その答えに母は眉を下げた。継母に虐められて、という娘のあどけない言葉が胸に刺さる。どうして絵本に出てくる継母は意地悪な人ばかりなのかしら、と母は心の中で呟いた。産みの母親と同じくらいその子を可愛がってくれる継母がいたっていいのに。


 己の命の行く末の見えてきた母としては、残していかなくてはならない娘のために、せめて優しい継母が出てくる話を読み聞かせしてやりたい。そうすればもし夫が再婚した時に、娘が少しはいい印象を持って継母を迎えられるだろう。


 でもどうしたって娘の継母になる人に嫉妬してしまうから、そんな絵本があっても私はこの子には読んであげられないかもしれないけれど、とも付け加えて母は小さく息を吐いた。


『……ロアはお姫様に、誰かを助けてあげてほしいの?』


 ロアは頷き、口を尖らせた。


『おひめさまもおうじさまみたいに、うまにのってさ。うまと、たすけにいけばいいんだよ』


 そう言ってロアは絵本を捲り、王子が白馬に乗って登場するページを開いた。返答になっているようになっていないような幼児らしい言葉に、母は愛おしげに笑った。父も笑って口髭を撫でている。


 動物好きなロアは最近は父に抱きかかえられて乗る馬に夢中になっていて、我儘を言ってどうにもならない時はもう馬に乗せないよと告げると涙ぐみながらもおとなしくなるのだ。毎朝顔を合わせるなり馬に乗せろと言われることには閉口している父も、いい切り札ができたという意味では喜んでいる。


『なるほど。助けてもらったお姫様が、今度は誰かを助けてあげるってことかしら? 親切の連鎖ね、すごく素敵だと思うわ』


 母の言葉が耳に入っているのかいないのか、ロアはベッドからぴょんと飛び降りた。そしてベッドの脇に何冊も積まれた父の土産の絵本の中から、手近な一冊を引き抜こうとした。


『おっと』


 父が慌てて上から落ちかけた絵本を手で押さえる。ロアは父の動作には目もくれずに引き抜いた絵本を床に置いて自分もぺたんと座り込むと、急いで絵本を捲った。字はまだ読めないので絵で話を追っている。

 最後まで捲ると軽く眉根を寄せ、その絵本はそのままにして積まれた絵本の中間からまた一冊引き抜こうとした。父が少し笑ってまた絵本を押さえる。


『山が崩れるよ、ロア』


『積まれたものを取る時は、上から順番ね』


 父の言葉にも母の教えにも返事もせずに、ロアは一番上の青い表紙の絵本を手に取った。

 素直に言うことを聞いた娘を見て、こうして一つ一つまだ何も知らない娘に世の中の理を教えていきたかった、と母はもの悲しく思った。そうしてやがて成長した娘に説教を鬱陶しがられるようになり、最後には逆に老いた自分が娘に諭されるような、ありふれた未来が恋しかった。


 だが病床の自分にはそんな未来は来ないであろうことを、この時既に母は悟っていた。

 季節が巡る度に何をするにつけても体力が保たなくなっており、できることは少しずつ減り床に伏す時間が増えている自分は、大人になった我が子を見ることは叶わないだろう。


 ロアは先ほどより速く乱雑に絵本を捲った。だがその絵本にも望みのものは見つからなかったらしく、すぐにまた次の本を手に取る。


『どうしたの、何を探してるの?』


 母はベッドに座ったまま姿勢を慎重に傾けて、ロアの手元の絵本を覗き込む。その絵本の最後まで捲り終えて、ようやくロアは顔を上げた。すっかり眉は八の字だ。


『おひめさまが、たすけるえほんは?』


『え?』


『おひめさまが、たすけるほん』


 母は少し困った顔でロアを見下ろした。


『うーん。白馬のお姫様が王子様を助けに行く絵本は、さすがに帝都にもなかったなあ』


 ベッドの脇の椅子に座っている父が唸り声を上げ、さも愉快そうに口髭を撫でた。ロアはそれを見てますます眉を下げる。


『ないの?』


『残念だけど、世界中どこを探したってないだろうね』


 父の言葉にロアはショックを受け、開いた口をぎゅっと悲しげにへの字に曲げた。母は半眼になって視線で父を牽制し、父は苦く笑って肩をすくめた。


『今は、そうかもしれないわね。でもそのうちきっと、そんな絵本も出てくるわよ』


 ロアは母を見上げた。


『ほんと?』


『ええ。だって母様も、お姫様が王子様を助ける絵本を読んでみたいもの』


 母からの共感を得られたロアはぱっと顔を輝かせると、柔らかく口元を緩めて母を見上げた。

 優しく見下ろす母は今日はずいぶん顔色がいい。お陰で久しぶりに母に絵本も読んでもらえた。すっかり嬉しくなったロアはベッドによじ登ると、そのままの勢いで母の胸に飛び込んだ。


『ロアも! ロアもよみたい!』


『おいおいロア、母様にはもう少し優しくしないと』


『大丈夫よ、トラウゴット。今日の私は柱時計みたいに頑丈なの』


 ロアは痩せてしまった母の胸に顔を埋めて猫のように頬を擦りつけた。


『ロアはねえ、おとなになったらね、かあさまをたすけるよ』


『まあ、お医者さんになってくれるの?』


『ううん、わるいびょうきにパンチする』


 右手でパンチの真似をしながら言ったあまりに娘らしい過激な言葉に、父も母も声を立てて笑った。


『そうね、ロアならきっとやっつけてくれるわ』


 握り拳を作ったまま何故笑われたのか分からずにきょとんとする娘に、母は幸せそうに目を細めてその体をしっかりと抱き締めた。まるで小さく温かな娘の体の感触を、自分の体に刻み付けようとするように。

 ロアは寝衣越しにも骨の感触の伝わる母の胸に耳と自分の薔薇色の頬を押しつけ、微笑みながら目を閉じた。


 父はこの時間が永遠に続けばいいのにと思った。それが無理ならせめて、この時見た全てを永遠に自分と娘の記憶に焼きつけたかった。


 すっかり青白く細くなってしまった妻の静かで柔らかな笑顔、それとは対照的な幼い娘のふくふくとした頬、窓から見える外の暗闇で揺れる木々の葉の影、朝娘が母のために摘んできて花瓶に飾った赤いアキレア──それに柱時計の音や部屋の匂いに至るまでの全てを。

 幼すぎる娘の記憶に残すのが無理ならせめて自分だけでもと父は願い、そうできるよう懸命に感覚を研ぎ澄ませた。


 無情な本物の柱時計が怠惰な音を響かせて娘の就寝の時間を知らせるまで、父と母はこのありふれた貴重な時間の意味を噛み締めていた。



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