花曇賞
スタート地点には大きな衝立が二面立てられ、その間を繋いでゲートのようにしてある。上部には帆布が渡してあるため、観客から出走の準備はよく見えない。
第一走はウィンフィールド王国の枠だった。ゲートの天幕が開くと、開会式と同じように無数の花びらがゲートから舞った。その中から、白いフロックコートに身を包んだユリシーズと白いモーニングコートに身を包んだコンラッドが現れた。女性客が黄色い歓声を上げる。ロアが誘った少女達も、座席から飛び跳ねて口元を覆って体をくねらせたり、脱いだ帽子を大きく振ったり手を振ったりしていた。
ユリシーズは笑みを浮かべて手を振りながら、片羽が動かない白い天馬の手綱を引いて歩いて行く。一方コンラッドは強ばった顔のまま、片方の羽のない天馬と共にすたすたと歩いて行く。歩くスピードが違うので、最後はコンラッドがユリシーズを追い越してしまった。それを見た観客が少し笑う。ロアも笑った。
第二走はソイニンヴァーラ王国の枠だ。ゲートの天幕の向こうから現れたのは怪我で翼を失った羽落ちではなく、生まれつき翼が片方しかない天馬や、目の見えない天馬たちだった。その後ろから、金色の七十二脚の足を持つからくり馬車が現れた。その奇妙さと初めて目にする機能美に、観客は驚きの声を上げた。王女達は主催者達にも自分達の演し物を秘密にしていたので、ロアも一際大きな声を出した。
足の付け根から馬車の下部に蒸気機関があり、時折プシューッと音を立てて白い蒸気が吹き上がる。その度に観客はどよめいた。だが相当辛抱強く慣らされたのか、先導する天馬達はその音に怯える素振りはなかった。
二人の王女は窓からにこやかに手を振り続けた。もう一人、どういうわけか花嫁姿の女性が馬車の中に乗っていた。観客には最後まで彼女の名を明かされることはなかったが、それはマリア・クロフト──少し前の名ではヨゼフィーネ、もっと古い名ではクローディアと呼ばれていた女性だった。馬車からマリアが降りると、ロアは叫んだ。観客もざわついた。馬車が移動する間、彼女の姿は前列の観客にしか見えなかったし何の紹介もなかったからだ。
彼女が何者かという紹介はなかった。ただ観客達の遠目にも、類い希な美女ということだけは分かった。ティーア王女とティーナ王女は花嫁介添人として彼女の手を取り、手を振りながら花びらの舞うゴールのゲートをくぐる。そこには花婿姿のままのコンラッドが待っていた。
「コンラッド!?」
マリアは思わず目を見張った。これではまるで結婚を暗示しているかのようだ。名を変えて別人となった自分が人前に出ること自体危険に思えたのに、コンラッドと並ぶなんてと何も知らされていなかったマリアは激しく動揺する。思わず二階席のウィンフィールド国王の反応を確かめようとしたが、表情まではとても分からなかった。
「美しい。本当に美しい……」
コンラッドはマリアに近づき、彼女以外目に入っていないかのように微笑んで見つめた。それから優雅に手を差し伸べた。
「姫君、どうか手を」
マリアは逡巡したが、観客の期待の籠もった眼差しにこの手を取らないと場が終わらないことに気づいた。
「こんなこと、聞いてなかったわ」
恨みがましく言いながら自分の手を取ったマリアに、コンラッドは満足げに笑った。
「君を驚かせたかったんだ」
「それは大成功ね。でもどうするの、こんなに目立ってしまって」
途方に暮れたような声で言ったマリアの手の甲に、コンラッドは恥ずかしげも無く口付けを落とした。観客はきゃあと声を上げ、片隅で見守っていたマリアの母はそっと涙を拭った。マリアが逃げ出さないかハラハラしていたロアは、主催者テントから目を丸くした。人前でスピーチするのは嫌でも、恋人の手にキスするのは恥ずかしくないのかと怪訝に思う。
「僕は君を日陰に追いやりたくない。盛大な結婚式は無理だから、せめてもの抵抗だ」
コンラッドはそう言って笑顔で観客に手を振った。いつも無表情で事務的に手を振るコンラッドを知っているウィンフィールド人だけがどよめいた。マリアは何とも言えない微笑で軽く手を振り、それから二人は介添人達の招くゲートの奥へと消えていった。
「よかった……!」
一つ目のサプライズが無事に終わり、ロアはほっと胸を撫で下ろす。
一体あの女性は誰だったのかというざわめきの残る中、第三走のチェッリーニ司教国の演し物が始まった。だがスタートのゲートの天幕が開いた時、そこにいたのはみすぼらしい格好をした一人の青年だけだった。それがユリシーズだと分かると、二階席のウィンフィールド国王は眉間に深い縦皺を刻んだ。コンラッドとマリアの件は聞いていたが、ユリシーズの演し物については何も聞いていなかった。
青年は足を引きずりながら、老いた馬の手綱を手にしてコースを歩いて行く。何が始まったのかと、観客は戸惑っている。足取りは次第に重くなり、コースの三分の二ほどまで差しかかったところでとうとうへたり込んでしまった。
「ああ、僕にはもう何もない。健康な足も、僕を乗せてくれる元気な馬も、懐かしい妻も可愛い子どもも、何もない、誰もいない。神よ、何故ですか。僕は一生懸命働きました。一度だって誰を騙したり、物を盗んだりしたことはありません」
この台詞で、ほとんどの観客は聖書の中の一つのエピソードを思い出した。聖劇仕立てなのだと分かって、観客の戸惑いは消えていく。青年は自分に顔を寄せてきた老いた馬の顔に手を添えて、悲しげに見上げた。
「それなのに何故、こんなひどい仕打ちをなさるのです。あなたは僕を見捨てたのですか。そうであればいっそこのまま、荒野の塵となろう」
そう言うと、青年は何もかも嫌になったという様子で地面に倒れ伏した。ウィンフィールド国王の眉間の皺が更に深くなる。
「何故臥せるのか」
しばらく間があり、やがて観客席の後ろ側、一階席では一番高い席の辺りから声が響いた。観客が騒然として一斉にそちらを振り返る。伏せていた青年もはっとして顔を上げた。
「この声は、神よ、あなたなのですか?」
「何故立ち上がらないのか」
厳かな声が響く。チェッリーニ司教国の大司教だ。青年は地面に腕をついたまま悲しげに顔を歪めた。
「もう僕は立ち上がるだけの気力がありません。立ち上がって歩き出したところで、一体どこを目指せばいいというのでしょう。そこに妻や娘がいる訳でもないのに」
その震えた声は、本当に家族を亡くした青年さながらだった。
「それとも、立ち上がれば妻に会わせてくれるのですか? もう一度、娘の小さな体をこの手で抱き上げさせてくれるのですか?」
青年の差し伸べた両手が小さく震えている。ロアの目が潤み、場内に沈黙が流れた。それを神からの否定と受け取り、一縷の望みも絶たれて青年は力なくまた地に伏せた。
「汝、かつて満たされた者よ。今ひととき飢えた者として荒野に臥し、そのまま立ち上がらなければ塵と消えよう」
再び神の声が聞こえても、もう青年はぴくりともしなかった。
「だが膝に手をつき額に汗して立ち上がるならば、汝はやがて歌う者となる。歌う者は与える者。与える者は死して天の国へ登り、愛する者達から祝福を受けるだろう」
青年の手が僅かに土を掴む。
「……与える者? それは何ですか」
また軽く身を起こす。
「飢えた者が立ち上がり天に顔を向けた時、飢えた者は歌う者となる。天からの慈悲の雫は歌に乗り人々の頭上に降り注ぎ、歌う者は与える者となる」
青年はよろけながら立ち上がり、空へ叫んだ。
「与える者になれば、妻と娘に会えるのですね? 与える者に、歌う者になるためには何をすればいいのですか?」
沈黙が流れた。そして、スタートとゲートの奥にいる楽団の演奏が静かに始まった。聖歌だ。思わず芝居にのめり込んでいたロアは、青年がユリシーズだということを思い出して演技の上手さに感心した。
「……自分で考えろということなのですね。分かりました。僕は必ず、与える者になります。そして妻と娘にもう一度会うんだ。神よ、どうかお導き下さい」
聖歌の音量が上がっていく中、青年は十字を切って目を閉じて頭を垂れた。そして目を開けると、僅かに微笑んで老いた馬の手綱を引いた。
「行こう」
歩いて行く足取りはゆったりとしていたが、来た時よりもずっと力強かった。観客席から拍手が聞こえた。それは幾つもに増え、あっという間に全体からの大きな拍手となった。鼻の頭を赤く染めた涙目のロアも、手のひらが痛くなるほど手を叩いた。





