開幕
「じゃじゃ馬娘が来やしたぜ」
道化のオッツォが捲っていた天幕から手を離し、主催者テントの中で待機していた三人を振り返って言った。
「やっと来たか」
ユリシーズが咲茶のカップをワゴンに置いた。
「ずいぶん遅かったわねー」
「そうねー」
ティーア王女とティーナ王女と顔を見合わせると、天幕がばさりと大きく捲れてロアが駆け込んできた。
「おっ、……ハア、ハア、おく、ハア、遅れて、ハア、ハア……!」
頭を下げて膝に手をつき、必死に呼吸を整えようとするロアを見てユリシーズは呆れたように眉を上げた。
「まあ、走ってきたのねー?」
走るという行動が子ども特有のものとしか思えないティーア王女が、目を見開いて小首を傾げる。ユリシーズは脇に控えていた侍女頭のグレンダを見た。
「やれやれ。彼女に何か飲み物を」
「かしこまりました」
グレンダは木箱の蓋を開け、氷の中に埋もれるようにして並んでいたレモネードの入った瓶を取り出した。栓を抜き、レモネードをカップに注いでロアに渡す。
「どうぞ」
「あっ、ありが、ハア、ありがと……」
よく冷えたレモネードを受け取り、ロアは喉を反らして一気に飲む。
「ぷはっ」
「いい飲みっぷりだ」
ロアが顎から滴る汗を手の甲で拭うと、オッツォが水玉模様の蝶ネクタイを整えながらニヤリと笑った。
「もうすぐ開会式だよ。息を整えて」
ユリシーズに言われるまでもなくふうふうと深呼吸をして、ロアは弾む心臓を押さえた。
「馬車は着いているのに、あなたが見当たらないから心配したわよー」
「一体どこにいたのー?」
ティーア王女とティーナ王女は、扇でロアを仰ぎながら口々に尋ねた。
「入場者の、列に。並んでたんです」
予想もしない返答に二人の王女は目を丸くし、オッツォは甲高い声で笑い、ユリシーズは思わず天を仰いだ。
「ロア・ジャンメール、何だって主催者の一人であるきみが──」
「分かってるよ、関係者なんだから並ばなくていいって。私だって並びたくて並んだわけじゃないもの」
あの子どもの言葉さえなければとふてくされた顔で言葉を遮り、ロアは大きく息を吐いた。ユリシーズは胸ポケットから金の鎖が付いた懐中時計を取り出し、これ以上無駄話をしている時間はないことを確認した。
「きみの言い訳を聞いている時間はなさそうだ。グレンダ、彼女の髪を直してやってくれ」
「はい。失礼いたします」
グレンダがブラシを手に、ロアの乱れに乱れた髪を整える。女性のここまで短い髪を整えるのは初めてなのか少し戸惑った様子だったが、風で乱れただけのなので幸い髪はすぐに戻った。
「オッツォ、天幕をもう少し開けてー」
元の主に言われ、オッツォが左右に揺れながら歩いていく。少しだけ開いていた天幕をその三倍ほどに開くと、ロアは思わず声を上げる。
「わあ……!」
そこから見える観客席は、ほとんどぎっしりと埋まっていた。
「閉会式の挨拶はちゃんと頭に入っているかい?」
開会式の挨拶はユリシーズとティーア王女とティーナ王女が、閉会式の挨拶はユリシーズとロアで行う予定だった。始めは閉会式はコンラッドが挨拶をという話だったのだが、揺るぎない姿勢で徹底的に断られたのだ。
ロアも必死に拒んだが、結局誰にするか決まらず最終的に押し切られてしまった。王子なのだから大勢の人の前で話すことはコンラッドの方が慣れているはずだと主張したが、ユリシーズのこれ以上しつこくして弟の気が変わっては困るという意見が通った。そもそも出場自体コンラッドは乗り気でなかったのだから仕方ないかと、ロアも渋々承諾した経緯がある。
「う、うん。ちゃんと練習したよ、百回くらい」
挨拶の文章を書いたメモが入っている胸ポケットを押さえる。かさりと小さな音が鳴って、そこにメモが確かにあることに安堵する。自信があるとはとても言い切れなかったが、メモがある限りどうにかなるだろう。ロアにも文字くらいは読める。
「わたくしたちもたくさん練習したのよー?」
「あら、二回はたくさんかしらねー?」
くすくすと王女達は笑い合った。たった二回とロアは驚いたが、人前に慣れている王女達ならば問題はないのかもしれない。
「ユリシーズは? 何回練習したの?」
「僕は上がり症だからね。練習し過ぎると逆に本番で詰まってしまうんだ」
「じゃあ、何回?」
ユリシーズはにっこりと笑ったが、何も答えなかった。
「……さては練習してないね?」
自分だけ努力をさせられたようで、不服なロアが口をへの字にする。
「やあ、シンが来たぞ。そろそろ時間だね」
ユリシーズは否定も肯定もせずに、外から歩いてくるウィンフィールド国王付きの使用人、シンを眺めた。
「皆様、お時間です」
ユリシーズが立ち上がり、優雅にティーア王女の手を取って立たせた。
「……僭越ながら私が」
小柄なオッツォを見て、自分しかこの役割は果たせないと判断したシンがティーナ王女の手を取る。ティーナ王女もくすりと笑って上品な所作で立ち上がった。
「が、頑張って下さいね!」
「うふふ、ありがとうー」
ロアは我が事のようにドキドキしながら、両手で握り拳を作って三人の背中を見送った。前を見て歩きながら、ユリシーズが背後のロアにひらりと小さく手を振った。
「今日の良き日にお集まり頂いた紳士淑女の皆様、まずは遠路はるばるこの牧場にお集まり頂き、誠にありがとうございます」
壇上のユリシーズは二階席を見上げてから、胸元に手を当てて恭しく頭を下げた。二階の貴賓席にいるのは各国の王族や皇帝達だ。足の悪いティニヤ王女は、これまで劇もレースも二階席で観戦した経験がなかった。このレース場には車椅子でも上がれる長いスロープを付けたので、初めての経験を喜びながらユリシーズ達を見守っている。
「この通り天候にも恵まれ、馬場も最高の状況で花曇賞を開幕できることをとても喜ばしく思います。既にご存知の方も多いとは思いますが、このレースは羽落ち──飛べなくなった天馬や、働けなくなった馬達のための特別なレースです。まずは我々にこの良き日を与えて下さった神と、馬を哀れみ慈悲を施して下さったウィンフィールド国王陛下、そして土地を与えて下さったベルンシュタイン皇帝に深い感謝を」
ユリシーズはゆっくりと十字を切り、感謝を捧げた。観客も同じように十字を切る。大人数が神に祈るその光景に、チェッリーニ共和国の大司教達、そして聖ピロタージュ教会の枢機卿は満足そうに微笑んだ。枢機卿は招かれたはしたものの教義上参加は相応しくないと観戦を断っており、それでも好奇心に負けてティニヤ王女の手引きでお忍びで来ているのだった。
「そして我々の預かり知らぬところで、羽落ちに長年胸を痛めていた方がいらっしゃいます。ソイニンヴァーラ王国が誇る麗月、ティーア王女とティーナ王女です」
ユリシーズに紹介された二人が微笑み、一歩前へ進み出てスカートを優雅に摘まみ膝を曲げる。それからティーア王女は二階席のティニヤ王女へ小さく手を振り、観客はその愛らしさに頬を緩ませた。
「ご紹介ありがとう、ユリシーズー」
「わたくし達、こういった挨拶は得意ではないのだけれどー」
「少しだけ、皆さんのお耳をお借りいたしますわー」
「花曇賞のこと、皆さんきっと楽しみにしていて下さったわねー?」
楽しみにしてた!と子どもが叫んだ。観客は笑ったが、母親は慌てて子どもの口を塞ぐ。
「あら、ありがとうー」
「お母様、手を離してあげてちょうだいー。今日は子どもも大人もお年寄りも、誰もが自由に楽しむ日にしたいのよー」
口を塞いでいた母親は、王女に呼び掛けられてひどく驚きすぐに手を離した。観客の笑う声と歓声にお墨付きをもらい、子どもはすっかりはしゃいで母親の手にぶら下がる。
「応援も野次も歓迎なのよー」
ティーア王女は隣のティーナ王女の方へ少しだけ体を傾けた。
「でも優しさは忘れないでね-?」
ティーナ王女も同じように体を傾け、二人の頭がそっと触れる。仲の良い二人の微笑ましい仕草に、観客はますます胸を弾ませる。
「そういうことでー」
ティーア王女は首を回してティーナ王女を見た。ティーナ王女も同じようにティーナ王女を見る。観客からは向かい合った二人の横顔が見えている。二人は手を取り合い、身を寄せた。
「第一回花曇賞、」
「開幕ですわー!」
二人は正面を向き、握り合った手を大きく掲げた。わあっと大きな歓声が上がり、ロアの胸がどくんと跳ねる。始まった。始まってしまった。継続して馬達を救い続けるためにも、失敗は許されない。
ファンファーレが鳴り響き、二階席から薄桃色の花吹雪が舞い散った。





