目覚め
「おはようございます」
マヌエラが丁寧に、だが手早く軽快な音を立ててカーテンを開けた。朝の光がさっと部屋を照らす。ロアは目を瞑ったまま眉根を寄せて、無言で布団を引っ張り上げるとすっぽり頭まで潜り込んでしまった。
「起きて下さいませ、ロア様。五時になりましたよ」
「……」
近づいて声を掛けても反応がない。普段は寝付きも寝起きもいいロアだが、ここのところはずっと睡眠が足りていないのだ。とはいえ大切な日の朝にいつまでも夢の国で遊ばせておくわけにも行かず、マヌエラはばさっと布団を剥がした。
「んん……!」
瞼を開けることなく顔をしかめて、ロアは布団を求めて手を空中にさまよわせた。マヌエラはその手をはしっと取ると、ぐいと容赦なく引き上げて起こす。
「やっ!」
かくんと後ろに落ちる首に慌てて力を入れて戻しながら、抗議するように声を上げた。ようやく目を三割だけ開ける。
「あと五分、あと五分だけ寝かせてぇ……」
マヌエラと手を繋いだまま、ぐにゃりとまた目を閉じたロアは起こされた上半身を崩してしまう。すかさずマヌエラは背中に手を添え、大きく手を引き上げて体勢を強制的に戻す。
「あー……」
「あーではございませんよ。今日は花曇賞の日です、開会式の前に準備があるのでしょう?」
一段とひどい寝癖のついた頭のまま情けない声を上げた主に、マヌエラは困ったものだという顔になる。
「うん……」
花曇賞という言葉で少し目の覚めたロアは、ごしごしと両手の拳で眼球への圧が心配になるほど目元を強く擦った。マヌエラは主の手を取り、身支度をするためドレッサーの前の背もたれ付きの椅子にロアを座らせる。
「……お客さん、来てくれるかなあ」
バスローブ姿でだらしなく椅子に座って呟かれた言葉に、マヌエラは眉を上げた。主が花曇賞のことで弱根を吐くのはこれが初めてだった。当日の朝になってようやく漏れた本音に思わず苦笑する。
時間がないので、ロアは朝食にドレッサー台に置かれた皿の白アスパラガスの小さなパイを摘まんだ。マヌエラはカップにミルクを注ぎ、それを受け取った主は二回に分けて喉へ流し込んだ。受け取った空のカップをワゴンに戻し、マヌエラはタオル地のヘッドバンドでロアの顔周りの髪を押さえる。
「チケットは完売なのですから、九割以上は埋まるでしょう」
ロアは曖昧に頷きながら口元のパイ生地の欠片を払った。マヌエラは青い薔薇の描かれた洗面用の白いボウルをロアに差し出す。
「そうだといいんだけど」
ため息をつきながら受け取ったボウルを膝へ置き、ロアはぱちゃぱちゃと顔を洗う。それから顔を上げ、マヌエラから渡されたタオルをぎゅうっと顔へ押しつけた。そしてタオルを顔から離し、マヌエラに渡す。ヘッドバンドを外すと、ばさりと髪が下りて毛先が揺れながら揃った。
「手紙のやり取りやら書類の提出やら、事務仕事もあれだけ頑張っていらしたじゃありませんか。大丈夫ですよ」
マヌエラは呆れたような感心しているような声で言った。実際にロアは今日まで苦手な仕事にも奮闘し続けてきた。実務能力の高いユリシーズとティニヤ王女は、開催地であるベルンシュタインにいない。ドゥラカも道化のオッツォも出場者なので、開催国としての諸々の仕事はロアに回されてきた。馬絡みの仕事でなければ、とっくに投げ出していただろう。最初のうちは果たして花曇賞は上手く行くのか、主が途中で根を上げて逃げ出すのではないかと心配していたジャンメール家の使用人達は、後半はロアが倒れるのではないかと健康面を心配するようになっていた。
「うん」
バスローブを脱いで乗馬服に着替えたロアを立たせ、マヌエラは襟元や袖のボタンなどを念入りに整えていく。ジャケットからカフスボタンに至るまで全て、今日のために新調したものだ。使用人達からは主催者なのだから正装すべきという声も上がったが、結局ロアは乗馬服で行くと言う主張を譲らなかった。折衷案として格式張ったデザインのものを新調したのだ。
「フンボルト子爵夫人も、もっとチケットが欲しかったと仰っていたのでしょう」
出足こそ伸び悩んだチケットだったが、一ヶ月前には完売している。空は晴れて風はほどほど、格好のレース日和だ。マヌエラからすると開催に何の不安もない。
「そうだね……。まあ、お客さんが何人でももうやるしかないよね」
ロアは複雑な顔で頷きながら軽く袖を引っ張った。マヌエラは髪をブラシで解きながら霧吹きで湿らせ、奔放な寝癖を直していく。
「このレースに関してだけは、あなたを尊敬しますよ」
あのマヌエラに尊敬されるという晴天の霹靂に、ロアはぎょっとしてドレッサーの鏡の中のマヌエラを見た。言い慣れないことを言って少し気まずいのか、マヌエラはブラシと霧吹きを置いて照れ隠しに軽く眉根を寄せて微笑んだ。
「ですから、胸を張って行ってらっしゃいませ」
全ての身支度を終えて、マヌエラはぽんと主の背を軽く叩いた。驚いていたロアの顔がゆっくりと満面の笑みに変わっていく。
「……うん! 行ってきます!」
ロアは元気よくそう言って、扉へ向かって走って行った。
ホテルを出て馬車に揺られながら、羽落ち牧場兼レース場へと向かう。ベルンシュタイン領ではあるがウィンフィールド王国のすぐ隣なので、空は明るく晴れている。夜は雨が降っていたので天気を心配していたロアは、雨雲は流れて白い綿雲が幾つか散っているだけの空を見て微笑んだ。
やがて馬車は速度を落とし、ふいに停まった。
「どうしたの?」
驚いたロアが御者に声を掛ける。窓の外を見ると、別の馬車も足止めを食らったらしく隣に並んでいる。
「道が混んでいるんです。整理員が今案内してくれています」
「ええっ!?」
御者も戸惑っているようだった。慌てて窓から身を乗り出すと、そこには何十台もの馬車が牧場の入り口手前で列を成していた。当然ながら、全員が花曇賞の客だろう。ロアは言葉を失った。整理員が数人、旗を振りながら先頭の馬車を停車位置へ誘導している。天馬馬車専用の馬着き場でも整理員がパドルを振っていた。そこに見覚えのある顔が見えて、思わず叫ぶ。
「ジョー!」
ダンヒル子爵の馬丁の少年、ジョーが天馬馬車を誘導してくれていた。ロアは慌てて馬車の扉を開けて外へ出た。
「ここからは歩いて行くから」
馬車を御者に任せて、ロアは停まっている馬車の横を歩いて行く。十六頭立ての立派な馬車、八頭立ての馬車、粗末な辻馬車もあった。
「まだー?」
渋滞で退屈する子どもの声が、馬車の中から聞こえてきた。
「早めに出たのに、こんなに混んでるなんて」
聞き覚えのある声も聞こえた。ロアが馬車を見上げると、そこにはいつかの夜会で誘った赤毛の少女の横顔が見えた。何だか泣きたい気持ちで足を速める。
「ジョー!」
走り寄ると、天馬馬車を着地させたばかりのジョーは目を丸くした。前回の反省を生かして、ロアは天馬達に近づきすぎない位置で足を止める。
「ロアさん。お久しぶりです」
「あなたも手伝ってくれてたんだね」
ロアは万感の思いで言った。
「ええ。ウィットバーン城はここから近いので、使用人は総出でお手伝いさせていただいてます」
「モーリスは?」
「出場する馬のお世話をしてますよ」
ジョーはレース場の場内の方を見遣りながら答えた。
「そうだったんだ……。ありがとう」
「いえ、こちらこそですよ。お城以外の場所に来られた上に、面白そうなショーも見られるなんて最高です!」
ジョーは目を見開いて興奮した表情で笑った。その時、次の天馬馬車が近い位置まで下りてきた。ジョーがパドルを振る。
「じゃあそろそろ行くね。頑張ってね!」
「はい、ロアさんも」
馬着き場を離れ、入口へと向かう。昨日まで職人達が仕事をしているだけだった場所に、今朝はずらりと大勢の人々が並んでいる。
「あっ、あのおねえちゃんズルしてる!」
行列の横をすり抜けて受付を通り過ぎようとした時、並んでいる男の子の声が聞こえた。振り返ると母と手を繋いだ小さな子どもが、怒った顔でこちらを指差していた。どうしたものか戸惑い、仕方なく最後尾に並ぶ。五分、十分と経過しじりじりと列が進んでいく中で、ロアは準備があるのにと次第に焦れていった。
「ジャンメール様?」
女性の声がして、ぱっとそちらを振り返る。
「あ! あなたは──」
「やはりジャンメール様でしたか。主催者様が、こんなところで何をなさっているのです?」
コンラッド付きの、地面と平行な眉をした侍女が怪訝そうな顔でロアへ近づいて来た。首から木製の立ち売り箱を下げ、その中には飲み物の入った瓶が並んでいる。売り子をしていた途中だったのだろう。
「いや、あの、子どもに並ばないで入場するのはズルだって言われちゃって」
言い訳を聞いた侍女は、これまでロアが見たことがないほどに思い切り呆れた顔をした。
「あなたは観客ではないのですから狡いも狡くないもないでしょうに。きっと皆様お待ちですよ、そちらからお通り下さい」
「ありがとう、助かったよ!」
ロアは心からほっとした声で礼を述べ、侍女が示した方へ走り出した。
「あっ! 母さま、あのおねえちゃんまたズルしてるよ!」
また先ほどの男の子の高い声が聞こえた。ロアは走りながら顔だけを男の子に向けて叫んだ。
「主催者だから! ズルじゃないからね!」





