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愚者とエゴイストの輪舞曲  作者: ハロー
最終章 はやる心の花曇り
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再会


 会議の後、ロアは目の回るような忙しい日々を送っていた。ウィンフィールド国境に近いとはいえ牧場はベルンシュタイン領にあるため、ベルンシュタイン在住の主催者としてやらなければならないことは無数にあった。


 ベルンシュタイン皇帝は許可は出すものの手を貸すことはなく、ドゥラカは演し物の準備で忙しかった。父やニコラ達騎手仲間も色々と手伝ってはくれたが、最終的には他の主催者と連絡を取っているロアが直接確認しなければならない。しかも、事務仕事や手続きなどは大の苦手とするところだった。どれだけ頑張れば十分なのかも分からず、ロアは連日使用人に止められるまで働き続けた。


 くたくたになって夜に布団に入っても、騎手としての疲れとは種類が違うのか妙に頭がじんじんと冴えて眠れない。レース前の緊張とは全く異なり、わくわくした気持ちよりも不安がずっと強い。何度も寝返りを打ち、ロアは目を瞑ってロードナイトのネックレスを握った。


「大丈夫、きっと上手くいく。大丈夫……」


 そうして頭の中がパンクしそうな目まぐるしい日々を送り、とうとうロアは花曇賞の開催前日の朝を迎えた。半月ほど前から泊まり込みで牧場兼レース場で働きづくめのロアは、寝不足のままふらふらと観客席の最終チェックをしていた。


「この辺だけ、椅子の後ろのスペースが広いんですけど……」


 準備を手伝っているベルンシュタインの競馬場の関係者が、帽子を脱いで汗で濡れた髪を乾かしながらロアに聞いた。


「ああ、このあたりはこれでいいんだよ。二階席の下でしょ? 雨が降った時は人が押し寄せるかもしれないから、後ろは少し広めに開けておいたってティニヤ王女が言ってた」


「そうでしたか」


 頷いて次の場所に移ろうとしたロアは、壁に張られたポスターが剥がれ掛かっているのに気づいて足を止めた。


「あ」


 花曇賞の開催を知らせるポスターには、優雅な女性が娘とともに羽落ちに手を差し伸べている姿が描かれている。クレメンテが左手一本で描いた絵だ。肖像画家である彼の父が描いた古典的な油彩とは、まるで系統が異なる。幻想的で繊細で、それでいてどこか温かみがあって親しみやすいものだった。


 腰に巻いた無骨なポーチから糊を取り出し、剥がれ掛かっていた部分にそれを塗り付ける。ポスターの端をぐっと手のひらで押して、しっかりと付くようしばらく両手で押さえる。手を離しても剥がれてこないかどうか確認してから、ロアは満足そうに微笑んだ。


「……よし!」


 その時、周囲の人々からわあっという声が上がった。ロアが振り返るより早く、大きな鳥が頭上をよぎったかのように一瞬だけ太陽の光が遮られる。


「やっぱりきみか。すごい格好だね」


 呆れたような声が頭の上を通り過ぎていった。指摘の通り、今日のロアは作業着姿だ。影は観客席から離れて柵の近くの草地に移動し、その上に静かに天馬が着地した。シェーガーだ、とロアはすぐに気づいた。一度乗った馬のことは決して忘れない。


「ユリシーズ!」


 乗り手はシェーガーの手綱を白い柵に繋いだ。乱れた髪を両手で押さえるようにしながら、観客席の方へ歩いてくる。


「やあ、ロア・ジャンメール。精が出るね」


 周囲の人々も思わず作業の手を止めて、笑顔で天馬やウィンフィールド王子を見ている。


「びっくりしたあ。どうして空から?」


 ロアは胸元を押さえながら笑顔で言った。ユリシーズは口元を歪ませるように微笑んだ。


「この間はひどい姿をきみに見せてしまったからね。派手な演出で再会して、照れ隠しさせてもらおうっていう魂胆さ」


 手の内を全てすらすらと暴露され、ロアは笑った。


「確かに、かなり酔ってたみたいだったよ」


「だろうね。昼まで起きられなかったのは久しぶりだ」


 ユリシーズは恥じ入った様子で頷いた。


「でも、クレメンテさんとお話しできて良かったね」


「ああ。あれから胸のつかえが取れた感じで、楽に呼吸ができるんだ。何よりの健康法だったらしい」


 ロアはまた笑った。


「ほんとに良かったね。クレメンテさんも喜んでたよ」


 喜んでいたことは事実だった。だが、それと同じくらい寂しそうにも見えたことは言えなかった。


「もっと早く彼を楽にしてあげるべきだったって、今はそう思うよ。彼に罪はないのに、気の毒だった」


 心の籠もった口調だった。


「でも、今までは会う機会がなかったから仕方ないよ」


 ロアは小さく頷きながらも、事情が事情だからと言った。


「そうだね。会う機会を作ってくれたきみには感謝しないと」


「私?」


 ぽかんと小さく口を開けてから、ロアが自分の鼻先を指差す。


「ああ」


「羽落ち牧場を作ろうって言ってたのは、ティーア王女たちだけど」


「でも、ショーにしようって案を出したのはきみだ。牧場を作るだけなら、僕がベルンシュタインまで打ち合わせに来ることはなかったと思うよ」


「それはそうだけど、ショーにしようってアイデアを出してくれたのは、クレメンテさんとオッツォさんだよ」


 あくまでも感謝される立場ではないと固持するロアに、面倒になったユリシーズは両方の手のひらを空に向けて軽く上げた。


「それじゃあ彼──画家のパッツィーニと、道化のオッツォに感謝を捧げておこう」


 感謝の意を示すために冗談で胸に手を当てて目を閉じると、ロアも同じポーズを取った。


「うん。私もそうする」


 二人は目を閉じて沈黙し、目を開けた後で視線を合わせてくすくすと笑った。


「──さて。いよいよ花曇賞を明日に控えて、気分はどうだい?」


 胸から手を離したユリシーズが、ロアの顔を覗き込みながら尋ねる。


「もう先週からずっと寝不足だよ」


「忙しいんだね、お疲れ様」


 ロアは首を横に振った。


「準備してて眠る時間がないんじゃないの。眠れないだけ」


「眠れない? きみがかい?」


 信じられないというように、ユリシーズが濃い睫毛で縁取られた目を見開いた。


「私だってたまには、そういう時もあるんだよ」


 ロアが口を尖らせる。

 開会式で壇上に昇って挨拶をしようと観客席を見回しても、誰一人いないという悪夢を見て今朝も飛び起きたのだった。しかも、そんな悪夢を見たのは今日が初めてではない。


「ずいぶんと不安なんだね。今夜は子守歌でもあげようか」


 子ども扱いする冗談に、ロアはつんと顎を上げた。


「別に、不安っていうほどじゃないよ」


「開催国のベルンシュタインにいる主催者で、レースに出場しないのはきみ一人だけだからね。ちょっと負担が大き過ぎたね」


 負担を掛けたことを悔いるような声色だった。先ほどの子ども扱いのせいで、まるで自分を半人前に見積もられたような気がしてロアはますます意固地になる。


「ううん、大丈夫だった」


「そうかい?」


「そうだよ。それより、ユリシーズこそ明日の準備はできてるの? あなた、一人で三回も出るんでしょ」


 ユリシーズはコンラッドと一緒に一度、チェッリーニの大司教と一緒にもう一度、それから一人で更にもう一度出場する予定になっている。


「出たがりだからね」


 あまりに多すぎる出番にも、ユリシーズは軽く首を竦めただけだった。


「移動で疲れてるだろうし、無理はしないでね」


「昨日は久しぶりにウィットバーン城に泊まらせてもらったから、疲れはないよ」


 懐かしむような目だった。それを見て、ロアはユリシーズがダンヒル子爵にも実の父と会ったと話したことを確信した。


「……でももし何かあった時は、きみを頼ってもいいかい?」


 琥珀色の目がロアをじっと見つめる。


「もちろん」


 少し戸惑ったが大きく頷くと、ユリシーズはほっとしたような顔で頷いた。


「ありがとう、助かるよ」


「うん。いつでも頼っ……、ふぁああ……」


 突然の強烈な生理的衝動に抗えず、ロアは大口を開けて欠伸をした。ユリシーズは呆気に取られ、それから笑い出した。


「女性の喉の奥まで見たのは初めてだなあ」


 流石のロアも恥ずかしくなり、欠伸をし終えたというのに口元を手で覆う。


「ごめん。ユリシーズの顔を見たら、何だか安心して気が抜けちゃった」


 もごもごと言うと、ユリシーズはどこか寂しげに微笑んだ。


「それはそれは。キールに聞かれたら怒られそうだな」


「え?」


 笑みを曖昧に消しながら、ユリシーズは雨露の光る若葉を見上げた。昨夜は雨が降っていたらしい。


「……後は僕がやっておくから、少し昼寝でもしてきたらどうだい?」


「平気だよ、あなたこそ休んできたら? 明日は三回も出番があるし、挨拶もあるし、私よりあなたの方が忙しいでしょ」


 ユリシーズは目を細めた。


「大丈夫、体力には自信があるんだ。きみと違って今までずっと楽をさせてもらっていたしね」


 その言葉でふと今日までのことを振り返り、ロアはしばらく会っていない友人のことを思い出した。


「……クローディア、じゃなかった、マリアは元気?」


 弟の恋人の名を聞いて、ユリシーズはちらりと周囲の人々との距離を窺ってから頷いた。


「ああ。結婚するまでは控え目にしろって言ってあるんだけど、コンラッドとは月に一度は会ってるようだよ」


 困ったものだという顔でユリシーズは笑った。


「そう、良かった。国王陛下は、二人の結婚に賛成してくれそう?」


「ああ。大丈夫、その辺りの心配はもう要らない」


 弟の結婚と花曇賞への協力を条件に、父であるウィンフィールド国王に自分が王になると告げたことはまだ誰にも報告していない、父と自分の二人しか知らない話だった。


「全て上手く行ってる。……さあ、まだ仕事はたっぷり残っていそうだね。僕も手伝うよ」


 ユリシーズは上着を脱いで客席の上に放るように置くと、腕まくりをして微笑んだ。


「うん、ありがとう」


 ロアは笑顔を返し、屋根の庇を指差した。


「そうだ、ちょうど良かった。ここ二日の間に屋根に鳩が巣を作ったみたいなんだ。ちょっとシェーガーに乗って見てくれる?」


 その後、いい加減に昼食を取って下さいと侍女のマヌエラに声を掛けられるまで、二人は牧場兼レース場の端から端まで移動しながら仕事を続けた。



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