王の器
翌日、ウィンフィールド王国に戻ったユリシーズは、その足で歴代国王の肖像画の並ぶ部屋へ入った。自分が小さい頃はこの中の誰かと自分の似たところを必死に探した部屋、父の実の子ではないと分かってからは一度も足を踏み入れていなかった部屋だ。ここにいる誰もが自分と血の繋がりがないという事実が、ずっと心を苛んでいたからだ。
この部屋に限らず、肖像画が数多く飾られた部屋に入るといつも辛い記憶を呼び起こされる。だが覚悟して入ったせいか、今日は拍子抜けするほど少しの動悸も冷や汗もなかった。広く天井の高い部屋なので、無数の視線が注がれても圧迫感や閉塞感はそれほどがない。
肖像画の国王達の視線が、自分を偽者の王子、不義の子と責め立てるに違いないと昔は思っていた。だが今見上げている肖像画は、ただの絵に過ぎなかった。どれも歴代国王の姿を、画家の目と手というフィルタを通して刻みつけた布に過ぎない。これほど静かな気持ちで肖像画を見るのは初めてだった。ユリシーズは懐かしいと言うよりはむしろ新鮮な気持ちで、ゆっくりと歩きながら一枚一枚に視線を注いだ。
大人になった目で冷静に見る肖像画の中には、誰にも似ていない者も数人はいた。自分と同じように、先代国王の実子でない者もこの中にはいるのかもしれない。だがそんなことはもうどうでも良かった。
皮肉なことに、実父であるクレメンテと会って話したことで、逆に血の繋がりというものの意味は天馬の羽根ほどに軽くなっていた。傍にいて同じ時を過ごし、その背中から学ぶことの方が血の繋がりよりもずっと重要な意味がある。無理やり自分にそう言い聞かせている訳ではなく、心の底からそう感じられるようになっていた。
ベルンシュタインにいる時から気持ちは決まってはいたが、肖像画を一通り見て回った後で決意は揺るぎないものになった。静かな興奮が深呼吸する胸を大きく上下させる。どんな人物だったかを一番よく知っている祖父の肖像画の前で足を止めて、真っ直ぐ向き合う。コンラッドに似た鋭利な顔立ちの祖父が、にこりともせずにじっとユリシーズを見下ろしている。
「──僕があなた達の跡を継ぎます」
僕が継いでもいいですかと赦しを乞うことも、継がせて下さいと頼むこともなかった。それは確固たる決意からの宣誓だったが、寂然とした室内に響いた声は穏やかだった。
歴代ウィンフィールド国王達の人生を思うと、自然と凪いだ気分になっていた。兄弟を追い落として念願の王位を継いだ者、周囲に担がれて仕方なく王位を継いだ者、兄王子の死で急遽王位を継ぐことになった者、ただ漫然と継いだ者。血の繋がりのない一人一人が、今日は確かに自分の同胞なのだと思えた。
ユリシーズはもう一度深呼吸をすると、肖像画に背を向けて振り返ることなく部屋を出た。
ウィンフィールド国王はノックの音に薄い瞼を震わせた開けた。マッサージを終えて、ちょうど眠りにつこうとしていたところだった。
「ユリシーズです」
ベルンシュタイン帝国から帰ってきたばかりの息子の声がした。国王はふうっとため息をつく。
「……入れ」
「失礼します」
重く分厚い扉が開き、まだ旅帰りの格好のままのユリシーズが部屋に入ってきた。
「お休みのところすみません、父上」
「構わん。何の用だ」
人差し指と親指で目頭を揉みながら、国王陛下は問うた。今日は謁見が五件もあり、しかも書状を読んで長い言葉を与えなくてはならなかったので目が疲れていた。
「僕が王位を継ぎます」
意外な言葉に国王は手を止めて目を開け、首だけで振り返って息子を見た。
「……ほう。心変わりをしたか」
後ろ手を付き、腰の痛みを呼び起こさないように国王はゆっくりと身を起こす。
「ええ。ですがその前に、お願いがあるのです。コンラッドの結婚を許してはくれませんか?」
「それが王位を継ぐ条件か」
呆れたような声で国王が答えた。
「それと、もう一つ。羽落ちの牧場の話です」
「下らん」
「どうしても許可を頂きたいのです。お伝えしている通り、羽落ち達を使った一大ショーの計画が進んでいます。名前も決まりました、ウィンフィールドの花とベルンシュタインの曇りで『花曇賞』です」
「フン、飛べぬ馬に何をさせるというのだ」
国王は心底小馬鹿にしたように呻いた。羽落ちは国王にとって処分を待つだけの存在、目にしたくもない無惨で醜い生き物だった。
「サーカスのような、パレードのようなレースです。速さや強さを競うレースとは違って、人々を笑顔にするものになるでしょう」
「下らん。馬に芸など仕込めぬぞ」
「そこはご心配は要りません、芸をするのは人です」
国王は鼻を鳴らした。
「人が? そんなものの何が面白い」
「例の大舞踏会の天馬レースで、一番盛り上がったのは異国の女性騎手の宙吊りショーでしたよ」
ユリシーズは冗談めかして微笑んだ。
「ハッ、詭弁だ」
受け入れる様子のない父を見て、やはりそうかとユリシーズは小さくため息をついた。この反応は予想していた。少し声をひそめて次の手を打つ。
「──羽落ち達を生かすための牧場が、ウィンフィールド国王陛下の発案となればどうなると思いますか?」
「何?」
国王は眉間に皺を寄せた。
「教会の態度は和らぐでしょうね」
「……それほど甘くはないぞ」
「少なくとも世論は二枚羽擁護に傾きますよ。二枚羽のことでチェッリーニと手を結ぶ、いい機会にもなる」
ぴくりと国王の眉が小さく跳ねる。チェッリーニ司教国はウィンフィールドと同じく、二枚羽の天馬の繁殖が盛んだ。
「チェッリーニも嚙んでいると言うのか」
「はい。大司教は協力して下さります」
じろりと息子を見てから、国王は軽く俯いた。二枚羽の天馬の繁殖に厳しく口出ししてくる聖ピロタージュ教会は、長年に渡って目の上の瘤のような存在だった。国王は黙り込んで布団の下の足を擦る。
「父上。僕はあなたの息子でありたいのです」
どうするべきか悩んでいるようだった国王の目が、突然話を変えたユリシーズを訝しむように見た。
「血の繋がりなど、あなたから学び受け継いできたこの国の王家の教えに比べれば何の意味もない。僕は国王になりたいのです。この国のために生涯を捧げたい」
花曇賞に協力してもらうため、情に訴える作戦だと思えばてらいなく素直な気持ちを告げることができる。
「ならば余計な条件など付けずになるがいい」
ユリシーズは困ったように微笑んで首を横に振った。
「本来ならば資格があるのはコンラッドただ一人です。真実を知らずに兄に王位を継がせる弟のために、何かしてやれることがあるなら兄としてしてやりたいのです」
「…………」
「お願いです、父上」
暗い部屋の中で、ユリシーズの脳裏に古い記憶が蘇った。泣きながら父に懺悔し、罰を受けることも罪はないと言ってもらえることもなく突き放されたあの苦い記憶。あれも夏だったなとぼんやり思う。
だが今日は、泣いて縋ってまで父の赦しを乞う気はなかった。ここでもしも断られても、父以外の相手にするように幾らでも別の方策で心を動かせる自信があった。自分がようやく完全に親離れしたことに気づいて、ユリシーズは笑い出したいような少し寂しいような奇妙な気分になった。
「……いいだろう。好きにしろ」
国王もまた、あの時と同じではなかった。老いて心根は脆くなり、猜疑心も支配欲も衰えていた。国を捨てるというコンラッドの言葉にも、かつてのように徹底して心を折ってやろうという執念はなかった。
「そう言って下さると思っていましたよ。ありがとうございます」
ユリシーズはにっこりと笑いかけたが、国王は笑わなかった。
「余の名を使うからには、それに恥じぬものにせよ」
「もちろんです。花曇賞が父上の功績となるよう、全力を尽くします」





