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愚者とエゴイストの輪舞曲  作者: ハロー
最終章 はやる心の花曇り
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 日付が変わる頃、ロアの部屋のドアが静かにノックされた。だが前日は興奮でよく眠れなかったし、今日は今日で慣れない会議で疲れ切って熟睡していたため音に気づかなかった。もう一度同じ強さでノックが鳴った時、奇跡的にそれはロアの耳に届いた。


「んん……はぁい」


 間の抜けた声が響く。眠たげな声を聞いて廊下の客人はそのまま帰ろうかと迷ったのか、しばらく沈黙した。


 扉が開く気配も返事もないならまた眠ってしまおうと思ったロアは、ここが自分の城ではないことを思い出して目を開けようとした。

 訪ねて来たのは羽落ち牧場のショーの主催者の誰かかもしれない。そうであればショーの開催まで会える機会はそうそうないので、用件は手紙より今話しておいた方がいい。


「だれ?」


 ロアは目を擦りながら後ろ手を突いて身を起こした。眠気が強過ぎて、上瞼が下瞼にくっついているかのようだった。


「僕だよ」


「ユリシーズ? 入って」


 扉が音もなく開いた。廊下の明かりがほのかに暗い部屋に差し込む。


「遅くにごめん。すぐ帰るよ」


 扉がゆっくりと閉まり、また部屋は元のように暗くなった。


「大丈夫だよ。何かあったの?」


 込み上げたあくびを噛み殺したが、涙が滲んでしまった。それを見てユリシーズが小さく笑う。


「父に会ったよ」


「ちち?」


 一向にしゃっきり開かない目を、ロアは両手で乱雑に擦った。半分眠ったままの頭を必死に回転させる。ウィンフィールド国王がここにいるはずもない。


「父って……え? まさかパ、パッちーニさん!?」


 呂律の回らないロアの質問に、暗がりの中でユリシーズが頷いた。


「ああ」


「え、会ったって、ええ……な、何か話したの?」


 ユリシーズは扉を背にして立ったままだった。業を煮やしたロアはまだ寝ぼけながら足だけをベッドから降ろし、スリッパを履こうとした。だがスリッパは見つからず、身を屈めて手探りしようとしてどすんとベッドから落ちてしまった。


「痛ぁ!」


 暗いので自分がどんな体勢で落ちたのかもよく分からず、鈍い痛みに悲鳴を上げる。


「きみは少し落ち着いた方がいいね」


 くすくすと笑いながらユリシーズが近寄り、ロアの手を引いた。だがユリシーズの体も揺れる。ふわりとアルコールの香りがした。


「おっと。ごめん、大丈夫かい?」


「だ、大丈夫。ここのところ体がなまってて……」


 ロアは恥ずかしくなりながら立ち上がり、足でスリッパを探して無事に履いた。乗馬を止めても感覚は昔のままなのか、つい今まで通りに体を動かそうとしてこうして時々失敗してしまう。


「それより、パッツィーニさんとどんな話をしたの?」


 ユリシーズは問いには答えず、黙ってロアの乱れた髪を無遠慮に撫で付けた。


「ユリシーズから会いに行ったの? それともパッツィーニさんから?」


 それでも答えは返ってこない。


「ねえってば」


 焦れたように質問攻めにし、ユリシーズの上着の裾をぐいと引く。可愛らしいと言うには強過ぎる仕草を、仕立屋が見ていたら悲鳴を上げたかもしれない。しかも、酔っているユリシーズはそれだけで少しバランスを崩した。かなり飲んでいるらしい。暗いのでよく見えないが、顔も赤い気がする。


「彼からだよ」


 ユリシーズは今度はロアの前髪と額の間に手を差し入れて、額を直に撫でてから前髪を撫で上げようとした。だがワックスも何も付けていないので、手が登りずれていった端からさらさらと前髪が降りてくる。


「何の話をしたの?」


 ロアが聞いても何も言わずに、ユリシーズは先ほどと同じように手を動かした。また前髪が降りる。


「教えて、ユリシーズ」


 僅かに苛立ったロアは少し強めに問うた。ユリシーズは微笑んだ。


「父の話かな」


「父? どっちの?」


 一向に話が見えないせいで遠慮もなくなり、思わずぞんざいに尋ねるとユリシーズはまた小さく笑った。


「どっちもだよ」


 だらしなく片足に重心を傾けて、体軸がゆらゆらと時折揺れている。王子である彼には珍しい酔態だった。相当の量の酒を飲んだらしい。

 ジャンメール男爵は酒に弱いのでほとんど飲まない。それを見て育ったロアも同じように、進んで酒を飲むタイプではなかった。酔漢に慣れていないロアは、酔っ払って夜中に訪ねて来ておいて話を進める気のないユリシーズに戸惑うしかない。


「だから、具体的にどんな話をしたのかを教えてよ」


 段々と苛立ちながら、ロアはまたユリシーズの上着の裾を揺らす。


「うん。別れ話だよ」


「ええっ?」


 ロアは思い切りしかめ面をした。


「彼は僕の父じゃない。僕も彼の息子じゃない。だからもうお互いのことはきっぱり忘れて、それぞれ楽しくやろうって、そういう話になったんだ。こういうのを世間じゃ、別れ話って呼ぶだろう?」


 冗談めかして言うユリシーズの顔を、ロアは探るように覗き込む。やはり顔が赤かった。相当酔ってはいるが、ユリシーズの機嫌は良さそうだ。ロアは慎重に口を開いた。


「……よく分からないけど、いい話し合いだったみたいだね」


「どうしてそう思うんだい?」


 ふざけ半分に、ユリシーズはかくんと小首を傾げる。


「だって、あなたが嬉しそうだから」


「嬉しそう? そうかな」


 アルコールで少し体温の上がった手の甲で、優しくロアの頬を撫でる。


「そうか。僕は嬉しいのか」


 誰か他人の話のようにぶつぶつと言いながら、最後にユリシーズはニッと笑った。


「嬉しいなら良かったじゃないか。おめでとう」


「あなたがでしょ」


 おめでとうと言われたロアは、立場が逆だと呆れる。


「僕か。うん、じゃあ僕を祝ってくれるかい?」


「何それ、変なの。まあいいけど……おめでとう、ユリシーズ」


 正直な思いを言葉にしつつも、ロアは素直に祝いの言葉を口にした。


「うん。……ありがとう」


 ユリシーズは笑みを浮かべたまま頷いた。更に顔を悪戯っぽく綻ばせて、両手をロアの顔に伸ばす。そして顔も髪もわしゃわしゃと犬にするように撫で回した。


「わっ! ちょっと!」


 抗議しても手は止らず、腹を立てたロアはユリシーズの両手首をがっしりと掴んだ。


「もう、何なの!? やめてよ!」


 ぷりぷりと怒るロアを見ても、ユリシーズはまだ笑顔だ。


「ごめんごめん」


「もう、今日のユリシーズは酔っ払ってて全然話にならない。大事な用なら明日聞くから、明日話して」


 自分が眠いのもあってユリシーズに見切りを付けて、ロアは女主人のように腕組みして命じた。


「酔っ払ってるかな?」


「うん。すごく」


 怖い顔を作ってロアが言う。


「そうか。じゃあ帰ろう」


「そうした方がいいよ」


 歩き方を見たロアは心配になり、部屋から出たユリシーズが見えなくなるまで見届けようと自分も廊下に出た。


「何だかフラフラしてるよ、気をつけてね」


「転んだって平気さ、今日はいい日だからね。僕は幸せだ」


 背を向けて覚束ない足取りで歩き出しながら、ユリシーズはひらりと手を振った。彼が何を言いたいのか分からないロアは呆れ顔になる。


「いい日なら、最後まで怪我をしないで終わらせようよ」


「ああ、そうだね。大丈夫。……僕には昔のように尊敬することはできなくても、極めて現実的で抜け目のない頼もしい父がいる。人嫌いで融通は利かないし恋に狂って茨の道を進むことになったけれど、根は優しくて裏表のない弟がいる。うん、大丈夫、幸せだよ」


 自分に言い聞かせるように言ったユリシーズに、ロアはもう何の話なのかと質問する気も失せていた。早くアルコールが抜ければいいのにと思いながら適当に相槌を打つ。


「そうなの、良かったね」


「だからあの片腕の、可哀想な男がいなくても、まともな母がいなくても──きみがいなくても、大丈夫だよ。何ということはないさ」


 軽く振り返ってユリシーズは笑った。家族について話す流れで自分の名が出てくる意味が分からず、ロアは怪訝な顔になる。


「私?」


「そう、きみだ。きみがいなくても人生は続く」


「え?」


「おやすみ、ロア・ジャンメール」


 ユリシーズは手を振ってまた歩き始めた。全く意味が分からず、ロアはただおやすみ、とだけ呟いて彼が廊下の突き当たりを曲がって見えなくなるまで見送った。



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