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愚者とエゴイストの輪舞曲  作者: ハロー
最終章 はやる心の花曇り
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夜風


 話し合いの後の晩餐会を終えて、ユリシーズは自室でチェッリーニ司教国への手紙をしたためていた。チェッリーニの今の大司教とは、司教時代からの知り合いだった。羽落ち牧場のショーへの出場を渋る彼を口説き落とせたのは幸運だった。ピロタージュ教からの干渉に対抗するためには、二枚羽の天馬のことでチェッリーニとウィンフィールドは結束を深めなければならない。


 開け放たれた窓からは心地よい夜風が流れ込んでいる。このくらいの風でもパンセ共和国の演し物は足りないと言うだろうなとユリシーズが思っていると、コンコンという遠慮がちなノックの音が響いた。


「ベルンシュタイン皇帝の使者です」


「どうぞ」


 ユリシーズはペンを動かす手も止めずに応じた。ためらいがちに扉が開き、静かな靴音が室内に響いた。ユリシーズは目だけを上げてそちらを見て、それから一瞬の間の後で目を見開いてペンを動かす手を止めた。


「失礼いたします。……あなたがユリシーズ王子ですね」


 入ってきたのは中年の隻腕の男だった。万感の思いでこの部屋を訪ねて来たであろうその顔には少しだけ、ダンヒル子爵の秘密の部屋で見た肖像画の面影が残っていた。


「……クレメンテ。クレメンテ・パッツィーニ」


 声に出してその名を発するのは初めてだった。ユリシーズは昂ぶる感情を押し殺すように、ゆっくりとペンをペン立てへ差し込んだ。そして手紙を脇へずらして、クレメンテの視線から隠れる位置に移動させる。その仕草を見て、クレメンテは少しだけ安堵した。何をしに来た出て行けと怒鳴られる覚悟もしていたが、少なくともユリシーズは話をしてくれる気はあるらしい。


「…………」


 初めて見る息子の顔を見たクレメンテは、準備してきた数々の言葉が喉の奥に張り付いて出なくなってしまった。ユリシーズの顔立ちや肌には確かに、ギリヤの民の血を引いていると思しき特徴があった。自分の息子であるということは父の孫でもあると思うと震えるような重いが込み上げて、クレメンテは必死に気持ちを押さえつけようとした。


「少し話をしても構いませんか」


「……ええ。どうぞ」


 敬語を使うべきなのか迷った後で、ユリシーズは小さく両手を広げて促した。目の前の男、実父クレメンテ・パッツィーニの容貌を観察する。肖像画の姿は自分とそっくりだと思ったが、今はそうは思えない。年を取ったせいか瞼は痩せ、濃かった眉毛や睫毛も薄くなっている。稚気を思わせる雰囲気に疲れたような表情が合わさり、どことなく年齢不詳だった。身長は自分の方が少し高い。それに何より、右腕が肘のあたりから欠損しているようだった。この二十数年、彼にも色々あったのだろう。


 これが実の父か、とユリシーズは心の中で思った。この腕のない、そのせいか僅かに姿勢の歪んだ男が自分の血の繋がった父親なのだ。


 辛い時には面と向かって罵ってやりたいと思ったことはあったが、それは八つ当たりだと当時でさえ知っていた。血の繋がった父親に会って話したいと思ったことは一度たりともなかった。幼かった彼は不埒は母の被害者だったからだ。あの母に運命を滅茶苦茶にされたという意味では自分と同じだったが、だからと言って同情する気にはなれなかった。血の繋がった父であるが、ユリシーズには感慨深い思いは何もなかった。ただどこかしら、自分と似ているところを探してしまうだけだ。


「……こんなことを言う資格がないのは分かってるけど、ずっと会いたかったよ」


 ようやくクレメンテが重い口を開いた。


「何を言っても逃げた言い訳にしかならないけど……きみにだけ苦労をさせてすまなかった。きみが今日までしてきた苦労に、詫びる言葉が見つからない」


 ユリシーズはクレメンテがずっと罪悪感に苦しんできたことを、その表情から知った。それはそうだろうな、と他人事のようにぼんやり考える。誰だって彼の立場なら罪の意識を感じるだろう。そう思えば気を楽にしてやりたい思いが湧かない訳でもなかったが、それは実際言葉にできるほど強くはなかった。ユリシーズは慰めの言葉の代わりに、クレメンテの腕を見つめて問うた。


「その腕はどうしたんですか」


 意外な質問だったのか、それとも質問されること自体が以外だったのか、クレメンテは眉を上げて口をつぐんだ。


「……父を、きみの祖父を失いたくなくて、先代のベルンシュタイン皇帝陛下に支払ったんだよ」


 ユリシーズは眉根を寄せた。


「支払った? どういうことです」


 クレメンテは悲しげな顔で微笑んだ。そうしたかった訳ではなく、他に作れる表情がなかったかのような微笑みだった。


「ダンヒル子爵からは何も聞いていないんだね。父はきみの──いや、ウィンフィールド国王から窃盗の濡れ衣を着せられたんだよ。父の身柄を受け渡すよう国王に要求されて、ぼくは皇帝陛下に引き渡しに応じないよう頼んだのさ」


「ですが、あなたの父は確か……」


 自分にとって祖父である画家が死んだことは、ダンヒル子爵から聞いていた。自分は花を送るつもりだ、と子爵は言った。ユリシーズが弔いの品を送るつもりならば一緒に送る、そういう意味で探りを入れたのだろう。だがあの日のユリシーズは、返事もせずに子爵に背を向けたのだ。


「そう、結局は刺し殺されてしまった。国王はそれほど甘くなかった」


 父であるウィンフィールド国王を責めるような言葉に、ユリシーズは苛立ちを感じた。おまえの子を実の子として育ててくれた相手だぞ、と叫びたかった。クレメンテと母の後始末は全て、自分と父がしたのだ。遠い異国へ逃げたクレメンテに父を責める資格などない。その時ユリシーズは、やはりウィンフィールド国王こそが自分の父なのだと改めて確信した。この男は父ではない。


「……あなたはもう十分に代償を支払っている」


 ようやくユリシーズは、クレメンテを気遣う気になれた。自分を捨てた実の父、そんなものはこの世に存在しなかった。ウィンフィールド王妃と己の欲望に陥落された少年、哀れな古い被害者がいただけだ。彼には罪がないのだから、本当は自分も赦しを与えられるような立場ではない。だがこのかつての少年は自分に赦しを求めているに違いなかったし、彼を赦せるのは恐らくこの世で自分一人しかいない。


「断じられなければならないような罪を犯したのは、僕の母親だけです。あなたに罪はない。ただ少し運が悪かっただけです」


 クレメンテは信じられないという顔でユリシーズを見た。赦しを与える言葉を口にするといかにも綺麗事のように響いて、自分が司教にでもなった気がしてむず痒かった。だが同時に、肩が軽くなった気がした。クレメンテを赦すことで、不義の子でありながら王子の立場にあり続ける自分も赦されたのかもしれない。


「ですからもう、自由になって下さい」


 本心からの言葉だった。自分と何の関係もないこの男が、自分のことでいつまでも不幸でいるのは気分が良くない。その程度の赦しだった。だがクレメンテはぎゅっと目を閉じて顔を伏せた。頬につうっと一筋の涙が流れた。


「……ありがとう。ありがとう、ユリシーズ王子」


 ぽたりとクレメンテの顎から床へ涙の雫が落ちた。悪い気分じゃない、とユリシーズは思った。クレメンテよりも母よりも、そして父よりも自分が大人になった気がした。しばらくして柱時計が時を告げて、クレメンテは慌てて目元を左手で拭って顔を上げた。


「ごめん。忙しいのに長々と……」


「構いませんよ。おかげで僕もすっきりしました」


 ユリシーズは他人にするように微笑んで見せた。クレメンテは赤い目でじっとユリシーズを見た。


「最後に一つだけいいかな。……父がぼくに教えてくれたことや、父の背中から学んだことを、ぼくも父としてきみに伝えてあげたかったよ」


 その言葉で、ユリシーズがクレメンテを父とは思っていないことが彼にも伝わっていることが分かった。


「もっと違った形できみの親になりたかった」


 深い後悔の滲む顔だったが、眼差しは優しかった。ユリシーズはどうせ父──ウィンフィールド国王の実の子になれないのならば、この男が自分の血の繋がった父で良かったのかもしれないとほんの少しだけ思った。


「……邪魔者でしかなかった訳じゃないなら、少し気が楽ですね。ありがとうございます」


 そう言ってユリシーズは椅子から立ち上がり、机の前まで歩み出てクレメンテと向かい合った。ユリシーズが十年前の姿だったならば、二人は鏡合わせのように見えただろう。


「ですが、何があっても僕の父はただ一人です」


 それは元々二人の間に存在しなかった、親子の絆の断絶だった。


「……ああ。そうだね」


 泣き出しそうな切ない笑みを浮かべて、クレメンテは無言で頷いた。


「僕は今日、あなたを赦しました。父のことも赦します。それに僕に許しなんて求めていない、母のこともついでに赦します」


 隠し切れない母への憎しみを若干滲ませつつ、ユリシーズは口端を吊り上げた。クレメンテは笑うべきか否か迷いながら曖昧に微笑んだ。


「だからという訳ではありませんが、あなたの父を殺した僕の父の罪を赦してはくれませんか?」


 クレメンテは目を瞬いた。そして自分が父を深く愛しているように、ユリシーズもまた父への思いが深いことを知った。やはりぼくの息子だと確信して、クレメンテは泣き出しそうになりなるのを必死に堪えた。


「……ああ。そうしよう。きみの父君は、ぼくに代わってきみを育ててくれたからね」


「ありがとうございます」


 欲しかった言葉が得られて、ユリシーズは静かに頷いた。そして右手を差し出しかけて、すぐに引っ込めると左手を差し出した。クレメンテはユリシーズを見て、ユリシーズは微かに首を傾げて目を細めた。


「これで全て終わりにしましょう、パッツィーニさん」


 クレメンテは、自分を姓で呼ぶユリシーズを何とも言えない顔で見つめた。この手を取って握手を終えたら、二度と目の前の青年を息子と呼ぶ機会はないだろう。せめて一度だけでも息子と呼びたかったが、自分にその資格がないことはよく分かっていた。クレメンテは苦く微笑んだ。ポケットからハンカチを取り出し、体にハンカチを押しつけるようにして器用に手のひらを拭う。そしてハンカチをポケットに戻してから、ようやくユリシーズの手を取った。


「了解しました、ユリシーズ王子」


 琥珀色の瞳と茶色の瞳が笑みを交わし合い、手が小さく揺れた後でそっと離れた。それが二人の最初で最後の握手だった。



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