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愚者とエゴイストの輪舞曲  作者: ハロー
第一章 花時雨
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遠い前奏曲



 ユリシーズは廊下を走り、一つ部屋を挟んで隣のコンラッド王子の部屋の前で滑るように足を止めてノックした。入室許可の返答の最初の発声を聞くや否や扉を開ける。


「やあコンラッド、グレンダがお前に説教したいってさ。聞きに行くかい?」


 ウィンフィールド王国の第二王子コンラッドは既に支度を終え、調律師に趣味のバイオリンの弦を直させているところだった。灰色の髪は舞踏会のある今日は丁寧に後ろへ撫でつけられている。暗い瞳が兄を見据えた。


「お断りします。扉を開けるのが早過ぎますよ、兄上」


 ユリシーズはコンラッドの服装を見て軽く口笛を吹いた。下世話な態度にコンラッドは眉間に皺を寄せる。


 いつの頃からかユリシーズはお忍びで城下に降りるようになり、おかげで少しずつ普段の言葉や所作に品がなくなっている。父や兄よりも礼儀を気にする性質のコンラッドにとって、それは歓迎できる変化ではなかった。


「いいじゃないか、そのジャケット」


 コンラッドは生地の厚い正装の下にできるだけ重ね着をしていた。肉体労働者ほどではないにしろ王族の割には筋肉が付いているユリシーズとは真逆の、痩せた体を隠すためだ。両親に似ず肌の色が濃すぎると陰口を叩かれるユリシーズと、透けるように青白いコンラッドでは肌の色も対照的だった。


「よく似合ってるよ、僕のよりずっと上等だ。僕のは動きにくくて」


 結局ノックの話はどこへ行ったのか、都合の悪い話は無視したままの兄にコンラッドは呆れ顔になる。


「動きにくいのはジャケットのせいではないでしょう。兄上の、まるで波止場の人夫のような激しい動きが仕立屋の想定外なのです」


「今日はそんなに動いてないよ、まるでお城の王子様みたいにおとなしくしてるさ。それでコンラッド、このご自慢のバイオリンのお披露目はいつだい?」


 軽口を返し、ユリシーズは無遠慮に調弦中のバイオリンに触れた。白い山羊髭を生やした調律師が驚いて手を止める。コンラッドが睨むとユリシーズは眉を上げて、窓を開けると窓枠へひょいと腰掛けた。風が吹き込んで、グレンダが苦労してまとめたユリシーズの半端な長さの髪を乱す。


「私は演奏家ではありません」


 コンラッドは調律師がペグを回す指を眺めながら、淡泊な口調で言った。


「部屋に籠もって一人で弾くだけじゃ勿体ないだろう。宝の持ち腐れだ」


「人前で弾くほどの技術はありませんよ」


 呟いてコンラッドは己の靴の先へ目を落とした。


「たまに廊下まで聞こえてくるけど、僕は上手いと思うよ。お前がまたバイオリンを弾くようになって、もう何年も経つだろう?」


 コンラッドは苦い顔をした。たどたどしくピアノを弾く従姉妹、クローディアの端正な横顔が脳裏に蘇る。大昔、自分と同じようにこれといった趣味も特技もなかったクローディアと、それぞれ楽器を覚えて協奏曲を弾こうと他愛のない約束をした。それがコンラッドがバイオリンを始めたきっかけだった。


 クローディアがウィンフィールドを去ってしばらくは、バイオリンに触れる気にもなれなかった。だが社交界で彼女とその一家の名前が一切上がらなくなったことが辛く、彼女が確かに存在したという証を得るため、そして彼女が隣にいないことを実感して苦しむことで自分なりの罪滅ぼしをするためにコンラッドは再び演奏を始めたのだった。


「……今夜からしばらくは、ウィンフィールド一の演奏家達のバイオリンを聞けますよ。良かったですね」


 弟の気のない返答を聞くと、ユリシーズは大きくため息をついて中庭へ目を遣った。


 冬でも花の種類の豊かなウィンフィールドだが、やはり春は特に花盛りの季節だ。花々は日の光を受けて眩しいほどに咲き誇っている。ここ数十年で最大規模の舞踏会が今日から開かれるとあって、既に手入れの時間は過ぎたはずの庭師達も仕上げに余念がない。


「まったく。今日からしばらくは窮屈な思いをしなきゃならない」


 最大規模と言っても、所詮やることはお喋りとダンスだ。相手の顔色を窺いながら互いにカードを切り合う、退屈な癖に気の抜けない遣り取りにユリシーズはうんざりしていた。


「とても窮屈には見えませんよ。社交はお好きでしょう」


「そりゃあお前ほど毛嫌いはしていないけどね、何日も続くんじゃ息は詰まるさ」


「最終日の天馬レースは、城の外壁に大量の松明を灯してするそうですよ。さぞ豪華でしょうね」


 天馬にも大して興味のないコンラッドの声は、ひどく乾いて聞こえた。


「それを心の慰めにするしかないね」


「ソイニンヴァーラからは社交界の花、ティーアとティーナが来るのでしょう」


 幼馴染みの王女達の名を聞き、ユリシーズは意味ありげにコンラッドを見た。


「ティニヤ王女は例によってお留守番だけど、二人ともずいぶん楽しみにしてるようだよ。今回は普段は滅多に名前も聞かないような、辺境の小国からもお客が来るからね」


「国の名前だけは間違えないよう覚えておくべきでしょうね」


 コンラッドは皮肉気に言って小さくため息をついた。


「……東の大国、あのベルンシュタインからも来る」


 コンラッドは自分の靴の先を見下ろしたまま、何も答えなかった。


 ユリシーズが知る限り、弟の母方の従姉妹であるクローディア・ギビンズが国外追放となりベルンシュタインに渡ってから、生粋のベルンシュタイン人がウィンフィールド王城の門をくぐるのは初めてのはずだ。

 弟の心はざわめいているかもしれないと想像したが、少なくとも第三者のいるこの状況では何の思いも述べる気はなさそうだった。ユリシーズは短く息を吐いた。


「さてと、可愛い弟に聞こう。退路を断たれた我々のこの難局を、乗り切るための策はあるかな?」


「策などもはや無意味です。父上の話を忘れたのですか?」


 コンラッドは祖父譲りの暗い色の瞳を兄へ向けた。


「今回の舞踏会で私達どちらかの花嫁が決まらなければ、父上はマーヴィンを王位継承順位一位に繰り上げるのですよ」


 マーヴィンというのはウィンフィールド国王の弟の長男で、ユリシーズとコンラッドにとっては父方の従兄弟になる。王弟だった父の跡を継いで王国の西部を治めている有能な領主だが、鼻持ちならない野心家だ。


 何かと理由を付けては王都を訪れるので、王子二人と顔を合わせる機会も多い。マーヴィンは子沢山で、国王は何かと息子二人と年の近い甥を比較しがちだった。ユリシーズは眉をひそめた。


「もちろん覚えてるさ。何とも性急すぎるね、僕はまだ四捨五入したって三十には届かないのに。父上も無茶なことをおっしゃる」


「父上は本気ですよ。法を改正するのでしょう」


「二十年前ならともかく、王位継承に関わる法を今変えられるとは思えないな」


「まず無理でしょうね。ですが父上のご意志が周囲に広まれば、マーヴィンに付く者はますます増える」


 コンラッドは吐き捨てるように言った。クローディアの父でありコンラッドの母の実弟であるギビンズ侯爵は、血の四日間と呼ばれるウィンフィールドの政変の際に反逆罪で処刑されている。そのことで散々マーヴィンに嫌味や当てこすりを言われ続けているコンラッドは、マーヴィンを心底憎んでいた。


 ユリシーズの母の前夫も同じ罪で処刑されているのだが、昔ユリシーズにしつこく絡んで痛い目に遭わされたことのあるマーヴィンはユリシーズには決して絡んで来ない。


「調律師になりたい者が調律師になって、王になりたい者が王になる。それでは駄目なのかな」


 背を大きく反らして逆さまの中庭で萎れた花を摘む庭師を見たユリシーズは、戯れに庭師になった自分を想像してみた。


「まさか、あの男にこの国を託すと?」


 コンラッドが珍しく驚きの声を上げる。ユリシーズは身体を起こして笑った。


「少なくともマーヴィンは、奔放すぎる母を持つ僕より自分の方が王の座に相応しいと言うだろうね」


 コンラッドは調弦師をちらりと見下ろした。ユリシーズの母には不貞の噂が絶えず、その息子のユリシーズも国王の子どもではないという噂さえあった。ユリシーズの肌の色が王族の中では少し浅黒く見えること、そしてどこか異邦人めいた睫毛の濃い切れ上がった眦がその噂の根拠になっている。


 実際マーヴィンなどはユリシーズの前では決してその噂には触れないが、コンラッドの前ではそのことをよく皮肉っている。コンラッドは兄のこの手の冗談に慣れているが、調弦師はそうではない。動揺しているだろうと同情する。


「でもまあ、そういう道もあるんじゃないか? 元々民への人気取りは欠かさないし、あれだけ意志の強い男だ。敵を作りやすいところと功を焦るところと欲深いところさえどうにかなれば、意外といい王になる、──かもしれない」


「正気ですか? もしそうなら兄弟の縁もこれまでですね」


 怒気をはらんだ声だった。コンラッドの目は笑っていない。こうして怒りを露わにされると、我が弟ながらなかなか迫力があるなと思いつつユリシーズは苦笑いした。


「やれやれ。冗談だよ」


「……あの男を玉座に就かせるくらいなら、私は妻を娶ります」


 ほとんど絶望の眼差しでコンラッドが呟いた。ユリシーズは弟の言葉に目を見張る。マーヴィンを脅しに使ったのは大成功ですよと今すぐ父に報告したいほどに、ユリシーズは肩の荷が下りた気分になり晴れやかに笑った。


「そうか。おまえがその気なら良かった、ウィンフィールドの未来は明るい」


 クローディア以外の女とは結婚する気がないのかと思っていたよ、とユリシーズは心の中で最後に付け加えた。まるでその心の声が聞こえたかのように、コンラッドは眉根を寄せた。


「兄上はどうなさるおつもりですか」


「さあね」


「私にはまだ結婚は早い。兄上が花嫁を選んでくれれば、今回私が選ばずとも良いと思うのですが」


「おいおい、説教を始める気じゃないだろうな? おまえがグレンダに見えてきたぞ」


 ユリシーズはおどけて肩を上げた。コンラッドの表情は険しくなる。


「ふざけないで下さい」


「そうだな、おまえが無事結婚してからゆっくり考えるさ」


「……それが諸悪の根元なんです」


 コンラッドはすうっと息を吸い、ユリシーズの目を見た。ウィンフィールド王族にはあまり出ない、光の加減で金色にも榛色にも見える琥珀色の瞳だ。


「もちろん兄上が人付き合いをしない私を心配して言ってくれていることは分かりますし、有り難く思う部分もなくはない。けれど私は兄上より三歳も年下なのに、兄上のその謎のこだわりのせいで何年も前からずっと結婚を急かされているのですよ」


 静かだが熱量を感じるコンラッドの剣幕に、ユリシーズは参ったという顔で調律師に微笑みかけた。うっかりユリシーズと目が合ってしまった調律師は困惑し、曖昧な愛想笑いを漏らして同意と取れなくもない雰囲気を作ると視線をバイオリンに戻して調弦の手を更に速めた。


「こう言ってはなんですが、兄上がまだ結婚したくないだけなのを僕を口実にして正当化しているのではないですか」


 ユリシーズは天を仰いだ。今日も天馬が光る快晴だ。


「うーん、おまえも手厳しいな、コンラッド。悪いがそろそろ時間だ、失礼するよ」


 ユリシーズはにっこりと笑って柱時計を指差し、扉へと歩き出す。


「どこへ行かれるのです」


「ウィットバーン」


「ウィットバーン? あんな遠くまで何をしに。国境をのんびり眺めている時間はありませんよ、舞踏会が始まってしまいます」


 憮然としたコンラッドを、開いた扉に手を掛けたままのユリシーズが振り返る。


「その舞踏会の、お客様を迎えにだよ。ベルンシュタインの姫君の到着が遅れていて、まだウィットバーンに着かないんだそうだ。このままじゃ遅刻だ」


「それで今から迎えにって……まさか兄上、」


「心配は要らないよ」


 ユリシーズは快活に扉の向こうへ姿を消し、音を立てて扉が閉まった。部屋に静寂が戻り、調律の音だけがキコキコと響いた。


「……はあ」


 コンラッドは短くため息をついた。だが兄弟の諍いが終わって一番安堵しているのはユリシーズでもコンラッドでもなく、調律師だった。


「自由な人だ」


 少なくともコンラッドの目にはユリシーズはそう映っていた。第二王子の自分よりは僅かなりとも責務の重いはずの第一王子でありながら、ユリシーズは何も縛られることなくやりたいことは何でもやっているように見える。


 コンラッドはいつも兄の気楽さと器用さが羨ましかった。実際ユリシーズには人に何を言われても身を捩って躱せるしなやかさと、次の瞬間に相手の喉に短剣を突きつけて笑って去るような抜け目なさがある。他人の悪意に極端に敏感で、憎悪を胸に溜め続けるコンラッドとは真逆に思えた。


 ようやく調弦を終えた調律師は、ほっとして額の汗を拭った。こんなに精神的に圧の掛かる調律も珍しかっただろうと、コンラッドはその汗を見て少しだけ気の毒に思った。コンラッドの許可を得ると、調律師は王子の私室にしては殺風景な部屋に昔懐かしい前奏曲を響かせた。



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