計算
皇城の中の空気は、春に来た時とほとんど変わらないほどひんやりとしていた。久しぶりに履いたハイヒールが大理石の床でコツコツと鳴る音が、暗い石造りの廊下で反響する。先導して歩く使用人のランプが、彼の影をロアに掛かるほど長く落としていた。使用人は大きな扉の前で足を止め、タイを整えてからノッカーを丁寧に打ち鳴らした。
「入れ」
間髪入れずベルンシュタイン皇帝の声がした。ロアはごくりと息を飲む。
「失礼いたします。ロア・ジャンメール嬢をお連れいたしました」
ランプを持つ手を持ち替えて、使用人は扉を押し開ける。部屋の中から廊下へささやかな光が溢れた。天井のシャンデリアは灯されておらず、大きなテーブルランプのランプシェードが赤いため部屋全体が赤味がかっていた。ロアは部屋の独特の雰囲気に威圧される。香を焚いているのか、嗅いだことのない不思議な香りもした。
「……失礼いたします」
使用人に促され、ロアは緊張しながら室内に入った。今日招かれたのは謁見の間ではなく、皇帝の私室のようだ。大き過ぎる寝台の上にベルンシュタイン皇帝が座っており、その反対側では皇帝より更に少し幼い少女が寝そべって本を読んでいた。ベッドの近くには豪華な車椅子と、イーゼルや絵具がある。少女は少し前まで絵のモデルになっていたらしい。丸椅子には小柄な道化が座って本を読んでいる。
「あなたがロア・ジャンメールね」
少女が寝そべったまま顔だけ上げてロアを見た。ごくりと息を飲み、急いで答える。
「は、はい」
「怪我はもういいの?」
「大丈夫です」
少女が眉を上げた。
「タフなのね。塔と同じくらいの高さから落ちたんでしょう」
「……頭を打ったのは、それくらいの高さだったみたいですけど。実際落ちたのは、もっと低いところからです。たぶん」
天馬レースの記憶のないロアは困った顔で答えた。ティニヤ王女は大した興味もなさそうに浅く頷いた。
「そう。ま、何にせよ無事で良かったわ。ウィンフィールド王城でベルンシュタインの騎手が死んだなんてことになったら、きなくさい話になっちゃうもの」
「戦の口実には十分だ」
皇帝が相変わらず平坦な口調で言う。ロアには本気なのか冗談なのか分からなかった。
「ああ、夢にまで見た開戦!」
小柄な道化が天井を見上げて祈るように指を組み合わせた。皇帝は道化を睨み、ティニヤはそんな皇帝を威圧するような半眼の流し目で向けてからロアに視線を戻した。
「十八だって聞いてたけど」
ロアは何の数字か分からずきょとんとした。急いで返事をしなければと慌てて頭を回転させた結果、ウィットバーン城の馬丁のモーリスが体の各所のサイズを聞いてきた時のことを思い出した。
「はい、足首のサイズは十八です」
道化が甲高い声で笑う。ティニヤは呆れ顔になった。
「足首ぃ? 年よ、ね・ん・れ・い」
己の間違いにロアは頬を染める。
「あ。すみません……。少し前に十九歳になりました」
「ふうん。わたしも人のことは言えた義理じゃないけど。若く見えるわね」
少女は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「まあいいわ、座って」
ロアはぎこちない足取りで近づき、丸テーブルの椅子にドレスを整えながら恐る恐る腰を下ろす。
「……ええと、私に一体何のご用でしょうか?」
身じろぎしたロアは、おずおずと少女と皇帝を見比べた。すぐに皇城へ来いと呼びつけられたからには、何か重要な話があるに違いない。
「決まってるでしょ、羽落ちの牧場の話よ。話が進むのを、妹達が首を長くして待ってるわ」
その言葉で、ようやくロアはこの少女が何者なのか気づいた。
「そ──ソイニンヴァーラの、ティニヤ王女!?」
だがその姿は、彼女の妹のはずのティーア王女ティーナ王女よりもずっと幼い。二人の王女の姉どころか、娘くらいの年齢差があるように見える。
「無礼者が。舌を切り落とされたくないならば口を慎め」
皇帝陛下が眉間に皺を寄せた。これまで会った時はほとんど無表情だった皇帝が表情を変えたので、ロアは恐怖しつつも内心驚いた。
「ちょっと、この子はわたしの仲間なのよ。舌を切られたら話せないわ」
ティニヤ王女はキッとベルンシュタイン皇帝を睨み付けた。
「おお、血飛沫でますます部屋が朱に染まる!」
道化が赤味のある光に照らされた部屋を見回し、はしゃいだ声で言った。ティニヤ王女は腕で体を支えながら、ずりずりと移動してクッションに背を預けて座位の体勢になった。杖をつけば歩けるらしい皇帝以上に、王女は足が不自由らしい。
「オッツォ、ちょっと黙っててちょうだい。ロア・ジャンメール、ティーアとティーナから話は聞いてるわね?」
道化はぱちんと音を立てて自分の口を両手で塞いだ。小柄な道化の名はオッツォと言うらしい。
「は、はい。手紙でやり取りはしていま……させてもらって、います」
無礼のないようにしなければと気負ってじわじわと汗をかく。ティニヤ王女は頷いた。
「土地は用意できることになったでしょ。土地代や厩舎の初期投資の費用は私たちが出すし、ウィンフィールドからも幾らかは出るわ。今後の経営で多少の赤字が出ても、私たちが生きている間は融通は利かせられる。でも、問題はその後よ」
初期投資、赤字、といった耳慣れない単語にロアはぱちぱちと瞬きをした。ティーア王女とティーナ王女からは、ティニヤ王女は聖ピロタージュ教会の枢機卿をしていると聞いた気がするが、宗教家というイメージとはまるで真逆の人柄のようだ。
「人が天馬に乗る限り、羽落ち牧場はずっと続けていかなければならないわ」
ロアは頷いた。
「地上の馬もです」
羽落ちだけでなく、負傷したり年を取った地上の競走馬や使役馬も牧場で保護したいというロアの主張は、既に受け入れられている。
ティニヤ王女はロアの補足に少し眉を上げて、書類とともにナイトテーブルの上に乱雑に乗せられていた計算尺を手に取った。ロアは計算尺というものを生まれて初めて目にした。
「ええ、そうね。この世の全ての馬の安らかな余生のためには、羽落ち牧場が安定した収益を上げる必要があるのよ。何せ前代未聞の牧場だから、試算なんか当てにはできないんだけど……最初に迎える天馬が十頭、地上の馬が五十頭だとして、従業員は二十人雇うと仮定するでしょ。そこから餌代や藁代なんかの運営費を考えると、一日に最低でも五十万リラは稼ぎたいのよ」
ベッドの上に置いてあった小さな足つきのテーブルの上に計算尺を乗せ、ティニヤ王女は手を動かして計算し出た数字に頬杖をついた。
「五十万リラ」
それがどれほどの金額なのか、男爵家に生まれてお金などほとんど目にしたことがないロアには分からない。環境で言うならばティニヤ王女の方がもっと経済活動に疎いはずだったが、どうやらそうではないらしい。ソイニンヴァーラ王国の王女で、かつ聖ピロタージュ教会の枢機卿。立場を称する言葉から受けるイメージとは見事に真逆だ。
「そう、五十万」
王女の曇った表情からすると、決して楽に稼げる金額ではなさそうだった。
「余の妃となれば牧場など百でも二百でも作ってやると言うのに」
皇帝が言い捨てて王女を見つめる。
「絶対に嫌。こんな黴くさいお城で一生暮らすなんて、この世の地獄だわ」
ティニヤ王女は皇帝を見返しもせずに顔を歪め、ふうっと大きく息を吐いた。
「とにかく、一日平均で五十万リラ稼ぎたいわけ。でもねえ、どの馬も訳ありであまり長い時間乗馬はさせられないから、普通の牧場みたいに乗馬代ではあまり稼げないのよ。ユリシーズは子ども向けの餌やり体験の案を出してくれたけど、それじゃ大した儲けにはならないし……」
ティニヤ王女は困り顔になり、計算尺を睨みながらとんとんと自分の肩を叩いた。まるで城下町の商人のような仕草だ。王女で枢機卿でありながら実務に長けて庶民的で、しかも冷酷なベルンシュタイン皇帝に愛されるティニヤ王女というのは、一体どんな人物なのだろうとロアは興味を持った。
「売店や食堂を併設してそっちでガッポリ稼ぐ予定だけど、それにしたって人がこない限りは話にならないでしょ。とにかく初年度でガツンと大勢の客を呼んで、二年目以降は観光地として定着させたいのよ。コネを生かして貴族階級には声をかけるけど、それだけじゃ続かないわ」
王女とは思えないほど砕けた言葉が次々に飛び出す。ティニヤ王女はロアを見た。
「馬に興味がない人たちにもインパクトを与えられるような、派手な宣伝が一つは欲しいの。ロア・ジャンメール、騎手の視点から何かいい案はない?」
どこか値踏みするような視線を王女から向けられ、ロアは懸命に頭を回転させた。
お読み頂きありがとうございました!
ティニヤ王女には昔自分と同じ年の女神の愛し子で、王女とは逆に成長が早すぎた恋人がいてその恋人に先立たれているという裏設定があります。
この小説で書く予定はないですが臨終のシーンまで決まっているという、作者の中では珍しいキャラです。





