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愚者とエゴイストの輪舞曲  作者: ハロー
最終章 はやる心の花曇り
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からっぽの夏空


 あれから二ヶ月。

 季節は移り、寒冷な気候のベルンシュタインにも少しずつ初夏の明るい日差しが訪れていた。食堂で父のジャンメール男爵とともに朝食を摂っていたロアは、ぼんやりとテーブルの上の花を眺めながらパンを千切った。


 帰国後どれだけ説得しても頑なに馬に乗ろうとしない娘に、男爵は既に匙を投げていた。もう直接説き伏せようとはほとんど思っていないが、窓の外を眺めてそれとなく誘うくらいの未練はある。


「久しぶりに天気がいいなあ」


「……」


 白々しい言葉は娘の耳には届かなかったのか、返事はない。心ここにあらずといった表情で、無言でパンの欠片を口に押し込んでいる。バターもジャムも塗っていないパンはさぞ味気がないだろうと、男爵は思った。


「今日はどう過ごすつもりなんだね?」


「…………」


「ロア」


 あまりに言葉に反応がないので、男爵は少し大きな声で娘の名を呼んだ。ロアはようやく視線をゆるりと父親に向けて、芯のない空気混じりの声で言う。


「何」


 覇気のない娘の目つきに、男爵はため息をついた。ここしばらくは部屋は本でも読んでいるか手紙を書いているかで滅多に外に出ないため、顔色は冴えず食欲も落ちて少し痩せてしまっている。


「もう何日も屋敷に閉じこもりきりだろう。せっかく天気がいいんだし、散歩にでも行ってきたらどうだね」


「……ううん」


 ロアは目を伏せた。


「シリュッセルが寂しがっているよ。乗らなくても主の務めとして、たまには連れ出してやりなさい」


 この二ヶ月、ロアは時々世話をする程度でほとんど馬に関わることを辞めていた。馬を見れば乗りたくなるからだ。だが主の務めと言われると抗えない。


「……分かった」


 時間稼ぎのように、出来るだけロアはゆっくりとパンを噛み締めた。






 空の青が薄いと言われるベルンシュタインでも、夏の空は春より青が濃い。林の中の小道を愛馬のシリュッセル、それに関所で買い受けた羽落ちの天馬アポロニアの手綱を引きながら歩く。木々の葉もすっかり茂り、その隙間から差し込む日差しはじりじりと強さを増し始めている。昨日の夕方まで降っていた雨で地面は湿っており、草の上にはまだ雨粒が光っていた。


「夏だなあ」


 何も考えずにぽつりと呟く。シリュッセルの鼻息が背後で聞こえた。ロアは愛馬を振り返り、少し微笑んで水辺へ向かった。手綱を離すとシリュッセルは池へ近づき、首を下げて水を飲む。アポロニアはしばらく様子を見てから、シリュッセルの隣に並んで水を飲み始めた。


 天馬など飼ったことがなかったのでずいぶん心配したが、羽落ちのアポロニアは拍子抜けするほどすぐに新しい環境に馴染んでくれた。深手を負った片方の羽根は結局切除に至ったが、臀部の傷も治り今のところ何も問題はない。


 二頭の愛馬をぼんやりと眺めてから、ロアは木の幹にもたれた。背中の筋肉が落ちたせいで、直に固い木の皮の感覚が骨に伝わる。アポロニアを連れて長く歩いたのは久しぶりだった。家に籠もりきりで体力が落ちているのか、歩いた距離に見合わない疲労に深呼吸をする。アポロニアも疲れているかも知れないので、これ以上は進まず帰ろうと決めた。


 ぱたりと背中に乗らなくなった主を、シリュッセルがどう思っているのか正確には分からない。だが帰国してしばらくは、時々世話をしても乗る素振りのないロアに違和感を覚えているようだった。今はそれにも慣れたのか、もう戸惑いを見せることはない。時折父が寂しいだろうとシリュッセルに乗ってくれている。もし本当に寂しいとシリュッセルが感じてくれているなら、自分は愛馬にひどいことをしているのだろうなと思う。


 ざあっと木々の間を風が通り過ぎた。色があるなら水色か、明るい若草色のような爽やかな風だった。ロアはため息をついた。


 自分がこれからどうするべきなのか、さっぱり分からなかった。今まではただやりたいことを一心にしてきた。馬に乗り、周りに反対されながらも騎手の試験を受け、騎手になってからは誰よりも速く走れるように努力する。それは単純明快で、困難はあっても迷うことなどほとんどなかった。


 だが今は、自分のやりたいことさえよく分からない。馬にはもちろん乗りたいが、約束を破る卑怯者にはなりたくない。約束した相手は乗れと言っているのだから、自分が馬に乗らないのはただの意地だ。ただの意地で父親や使用人達や友人を心配させ、愛馬に寂しい思いもさせている。馬鹿げている、と自分でも思う。それでもロアは馬に乗る気にはなれなかった。


 天国の母に胸を張れない自分になりたくない。だが実際母が生きていたなら、今の自分を見て何と言うだろうか。意地を張るのは止めなさいと窘められる気がした。そこまで想像しても、ロアは踏ん切りが付かなかった。


 かといって、他にやりたいこともない。どこからどう考えても八方塞がりだ。今はまだソイニンヴァーラの三王女との羽落ち牧場の話があるが、それが片付いたら本当に何もすることがなくなってしまうに違いない。


 絶望的な気持ちでロアは空を見上げた。青い空に、薄い白い雲がゆっくりと流れていく。天馬に雲を食わせに行く、というダンヒル男爵の言葉が耳に蘇る。ロアはアポロニアを見た。空を飛べなくなって仲間とも離れて、地上の馬達に囲まれて暮らしているアポロニアは、一体我が身の環境をどんな風に感じているのだろう。


 水を飲み終わったシリュッセルは近場の草を食んでいる。ふとアポロニアが顔を上げた。少ししてからシリュッセルも鼻を鳴らして顔を上げた。二頭とも同じ方角を見ているので、ロアもそちらを見た。


「どうしたの?」


 二頭の元へ近づく。やがて林の向こうから一頭の馬が駆けてくるのが見えた。


「ロア様!」


 鹿毛の馬の乗り手が叫んだ。


「フランツ。どうしたの?」


 ジャンメール家の馬丁のフランツは、馬から降りると荒い息を必死に整えようとした。


「こ、皇帝陛下からお手紙が……すぐに皇城まで来いとのことです」


「また!?」


 ロアは思わず顔をしかめた。ウィンフィールドの大舞踏会の帰還の報告なら、既に済んでいる。天馬レースで落馬したことを帝国の恥と言われはしたが、首を切られることはなかったし、嫌味を言われる以上のお咎めもなかった。ロアは皇帝との話はあれで終わったものと思っていたが、そうではなかったのだろうか。


「今度は何の用なの?」


 フランツは眉を下げた。


「用件は分かりません。と、とにかくお城に戻りましょう」



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