名残
「みんな、わざわざ見送ってくれてありがとう。元気でね」
ウィットバーン城の馬車の前で、ロアは自分を見送る人々を振り返った。そして無理のない程度に晴れ晴れとした笑顔を作る。
「あなたこそ。体には気をつけてね。手紙を書くわ」
マリア・クロフトと名を改めることになったクローディアの目は、朝から別れの涙に濡れている。ロアは大きく頷いた。
「うん」
「……感謝してるわ。ありがとう」
コンラッドがクローディアの肩を抱いた。地面と平行な眉の侍女が二人の後ろへそっと移動する。ダンヒル子爵夫婦から二人がよく見えないように隠したのだ。
「こちらこそ!」
「皇帝とは話がついているはずだが、万一のことがあればすぐ連絡しろよ」
気遣わしげにコンラッドが言う。
「うん。コンラッドも、クロー……じゃなかった、マリアと仲よくね」
「当然だ。一度は愚かにも私から離した手だ、もう二度と離すことはない」
コンラッドは隣のクローディアを見下ろした。クローディアは少し困ったように微笑んだ。
「ダンヒル子爵、テリーさんも……お世話になりました」
ロアはダンヒル子爵夫妻にぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ、とっても楽しかったわ。また遊びに来てちょうだい」
子爵夫人が微笑む。
「君の肖像画を描かせてもらわないとね」
どこか切なげな笑顔で、ダンヒル子爵が言った。使用人が馬車の扉を空けた。用意された踏み台に片足を乗せてから、ロアはふと振り返った。
「そうそう、ユリシーズにもよろしく言っておいて」
コンラッドは僅かに口端を引き下げた。ユリシーズはウィンフィールド王城に残っている。やることが山ほどあるからと、王城からウィットバーン城へ向かう出立も見送らなかった。色々あったとはいえロアはベルンシュタイン帝国からの客人であり、しかもコンラッドとクローディアの恩人でもある。兄が彼女を見送らないことを、コンラッドは不審にも不満にも思っていた。
「ああ」
ロアは順にウィンフィールドで世話になった人々を見回した。
「ウィンフィールドに来て、みんなに会えて本当に良かった。いつかまた会えたらいいね。……えっと、それじゃあ、さようなら!」
長い別れの挨拶などしたことがないロアは、最後に何を言うべきかよく分からなかった。それでも何とか明るく別れを告げて馬車に乗り込む。馬車の扉が丁寧に閉められ、クローディアの目から涙が零れ落ちた。コンラッドはその肩を更に抱き寄せようとして、流石に人目があるからと彼女にやんわり拒まれた。
馬車の窓から身を乗り出して、ロアはウィンフィールド王国の人々に手を振った。鞭の音が響いて、ガタガタと馬車が走り出す。王城からウィットバーン城まで乗ってきた天馬馬車とは違い、重力を離れることはない。城門をくぐり見送る人々が見えなくなるまで、ロアは大きく手を振り続けた。
「…………」
ロアは目元を拭って、青い空を見上げる。この目に沁みるような明るい空ともいよいよお別れだ。だが感傷に浸っている暇はなかった。代償は払わなくてはならない。ソイニンヴァーラの三王女との約束が肩に重くのしかかる。
羽落ちの観光牧場を作りたいと、ティーア王女とティーナ王女は言っていた。もっとも、ロアも羽落ちのための牧場を作ることには大賛成だった。
だがウィンフィールドの天翔る天馬が地上に落ちて、背に何者を乗せることもなくその容姿を褒め称えられて牧場で生を終える。それはロアにとっては手放しで喜べる姿ではなかった。それに、天馬ほど美しくない地上の馬はどうなるのだろう? 同じ牧場の片隅で、誰に褒め称えられることもなく生き長らえるだけの余生になってしまうのではないか。
その考えがひどく傲慢だということは自分でも分かっていた。馬からすればどんな余生でも死ぬよりましだからだ。
馬に乗れなくなった今、馬のために何かしたい気持ちは以前よりも強くなっていたし、クローディアを救ってくれた王女達にもちろん協力はする。だがどこかロアの気分は晴れなかった。
そんな表情を見かねたのか、向かいに座っていたマヌエラが小さなトランクから手紙を取り出した。
「ロア様、おめでとうございます」
「え?」
マヌエラはほんの僅かに微笑んだ。
「お忘れかもしれませんが、今日はお誕生日ですよ」
「……ああ。そうか、すっかり忘れてた」
「フローラ様からのお手紙です、どうぞ」
誕生日は母からの手紙が読める日なので、これまで一度だって忘れたことはなかった。今年はそれほど心の余裕がなかったらしい。ロアは自嘲するように少し笑って手紙を受け取り、静かに開いた。
『 わたしのロア・ジャンメールへ
ロア、十九歳のお誕生日おめでとう!
十五年後のあなたは、今どこでどんな風に過ごしているのかしら?
背も伸びて、ずっと大人っぽくなっているんでしょうね。
さて。十九歳はわたしにとって、特別な年齢です。
十八歳の時に初めて父様と出会ったってことは、去年書いたわね。
十九歳は、父様と結婚した年です。
わたしの両親、あなたのおじい様おばあ様に結婚を反対されてしまったので、
こっそりソイニンヴァーラを離れて、父様と二人の生活を始めた年です。
知らなかったでしょう?
だからあなたには、父方のおじい様おばあ様しかいないのよ。
それとももう、わたしの親とは和解しているかしら?
わたしの死があなた達を結びつけてくれるよう、願っています。
さて。そんな打ち明け話は置いておいて。
さっきまでこの部屋で絵本を読んでいた小さなあなたが、
あの頃のわたしと同じ年になっているなんて想像もできないけれど。
でも、確実にあなたは今日、十九歳になった。
あなたが十九歳を迎えられたことが、わたしはとても嬉しいです。
幸せですか?
支えてくれる誰かが隣にいてくれていますか?
いろいろと悩みの多い年頃だと思います。わたしもそうでした。
でも苦しい時ほど、まわりの人への感謝を忘れないでくださいね。
心配はいらないわ、何があってもあなたは大丈夫!
だって父様もいるし、わたしも天国から全力で応援しているから。
今、外からあなたの声がしました。四歳のあなたが帰ってきたようです。
今年もそろそろお別れのようですね。
わたしが願うことは、何歳の誕生日でもいつも同じ。
あなたが笑顔でいられること。ただそれだけです。
私の天使に、星の数ほどの幸せが降り注ぎますように。
愛以上の愛を込めて フローラ・ジャンメール 』





