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愚者とエゴイストの輪舞曲  作者: ハロー
第四章 風走る
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慰め


 ユリシーズがロアの部屋の窓から出て二呼吸もしないうちに、二間続きの隣の部屋の扉が開いた。光が差し込んで、思わずロアは目を瞑った。


「ロア様、どうかされましたか」


 マヌエラ達ジャンメール家の使用人がぞろぞろと入ってくる。


「あら、窓が……まさか、ロア様がお開けになったのですか?」


 驚いたように言いながら、マヌエラが窓を閉めた。もう窓の外にロープはなかった。ユリシーズがここに来たとは知られずに済みそうだとロアは思った。


「う、うん」


「まあ! まだ体を起こしてはいけないと、お医者様がおっしゃっていたでしょう」


 そばかすのある侍女がむっと口をへの字にする。


「ごめん。ちょっと、暑かったから……」


 嘘をつきなれないために言い淀んだが、流石のマヌエラも事故の後でしかも熱のあるロアの嘘には気づかなかった。失礼します、と声を掛けてマヌエラが手のひらをロアの額に当てた。ひんやりした感触が熱のある身には心地よく、思わず目を細めた。


「まだ熱がありますね。我慢して温かくしていて下さい」


 マヌエラは布団を丁寧に掛け直した。手のひらが離れ、ロアはマヌエラを見た。家族同然の使用人の前では気が緩む。


「……マヌエラ。私、頑張ったよ」


「ええ、そうでしょうとも。命がけで騎手を助けたんですから」


 少し微笑んで呆れたようなため息をついて、マヌエラは優しく額を撫でた。


「そうじゃなくて。負けたけど、ちゃんと……」


 ロアはユリシーズにおめでとうと言えたことを褒めて欲しかったのだ。天馬レースの記憶はなかったが、それでも負けたことは悔しかった。それを態度にも言葉にも出さずに、頑張って祝福したつもりだった。だが褒めてもらうにはユリシーズが窓から入ってきたことを説明しなければならないと気づいて、ロアはゆるゆると口を閉じた。


「ちゃんと何です?」


「んー……」


 問われたロアは曖昧に唸って、布団を引き上げて口元を隠した。熱のせいで意識が朧気になっていると判断してくれたのか、これ以上負担を掛けないためなのか、マヌエラはそれ以上は追求して来なかった。


「まだ起きるには早い時間ですよ。お休みなさい、ロア様」


 ロアは素直に目を閉じた。今日の幾つもの場面が瞼の裏に明滅し、そして消えた。






 二日後。

 母のカサンドラと再会するために、クローディアはウィットバーン城に来ていた。ユリシーズの頼みでダンヒル子爵が城の一室を貸してくれたのだ。コンラッドは同行すると言い張ったが、ユリジーズとクローディアが止めた。正直なところ実の母とはいえ心細く、コンラッドについてきて欲しい気持ちはあったが、そんな危険は犯せない。使用人が淹れていった冷めた咲茶を飲み干し、今日何十回目かのため息をついた。


 時計を見上げる。そろそろ着いてもいいはずだが、何かあったのだろうか。ベルンシュタイン皇帝の気が変わらないとは言えない。悪い想像ばかりがどんどん膨らむ。それから更に十数分経って、廊下から足音が近づいて来た。きっと母だ。クローディアは背筋を伸ばして扉を見た。


「クローディア!」


 使用人が開けた扉から入ってきた母は、小皺も白髪も増えて随分とやつれて見えた。カサンドラは目に涙を浮かべて足を速めて娘に近づき、クローディアは立ち上がった。二人は互いに固く抱き締め合った。


「ああ、クローディア、会いたかったわ!」


 母は頬に頬を擦りつけるようにして再会を喜んだ。母は香水好きだったはずだが、密着しても今日は強い香りがしない。ベルンシュタインでの生活では香りを楽しむ心の余裕がなかったのだろう。母をウィンフィールドに呼び寄せることが正しいことなのか、まだ心のどこかで迷っていたクローディアはこれで良かったのだと気づいてほっとした。


「……お母様」


 自分を痛いほど抱き締めて泣く母の背を、クローディアは慣れない手つきでそっと撫でた。肉がほとんどないので、ごつごつとした骨が手に触れる。母には母の苦労があったのだとクローディアはしみじみと思った。


 積もる話もあるだろうという配慮で、ダンヒル子爵夫妻は別の部屋で待機してくれている。クローディアはその配慮を有り難く思った。


「ずっと会いたかった。一日だってあなたを思わない日はなかったわ」


「私もよ」


 母の細い指がぎゅっとクローディアの背中を掴むように動いた。少し痛かったが止める訳にもいかず、ただ母の背中を撫で続ける。一頻り泣いた後で、カサンドラはようやく身を離した。


「それで、一体どうして私がウィンフィールドに帰れることになったの?」


 泣いたばかりではあったがその表情は明るく、母がこの急な帰国と二番目の夫との離縁を喜んでいることがよく分かる。


「まあ。ユリシーズ王子から聞いていないの?」


 カサンドラに問われて、クローディアは驚く。


「大体は聞いているけれど、何だか突拍子もない話だったわ。ユリシーズ王子が賭けに負けて、あなたとコンラッドの結婚を認めたんですってね?」


「ええ、そうよ」


 正確には賭けに負けてはいないのだが、ややこしいのでクローディアは肯定した。カサンドラは両手で胸元を押さえて、赤くなった目をくりくりさせた。


「まだコンラッドと続いていたなんで、知らなかったわ。あなた一体、いつからウィンフィールドに来ていたの? 皇帝陛下は?」


 矢継ぎ早に言葉を続けられ、クローディアは面くらいながらも頷いた。


「コンラッドとは、ベルンシュタインに渡ってからは連絡は取っていなかったわ。陛下の命令でこっちに来て、再会して、またそういうことになったの。ほんの十日くらい前の話よ」


 クローディアは少し気恥ずかしそうに肩をすくめた。


「そう。ああ、嬉しいわ、クローディア……ねえ、もう一度抱き締めさせて」


 両手を広げる母に、クローディアは再び身を預けた。


「ああ、クローディア、私の娘、たった一人の娘……!」


 また涙声になった母についクローディアの涙腺も緩むが、あまり時間はないので抱き締められたまま口を開く。


「名前や身分を変えなくちゃいけないことは、聞いている?」


 カサンドラはクローディアから離れて微笑んだ。


「ええ。私は今日からキャサリン・コリーよ。まったく、人生で何度、名を変えるのかしらね?」


 母はさもおかしそうに言って目尻の涙を拭った。カサンドラ・ハインミュラーからカサンドラ・ギビンズになり、更にカサンドラ・ゴリッツへと変わり、そして今度は全くの別人のキャサリン・コリーになるのだ。


「ごめんなさい。私のせいで……」


「いいのよ、気にしないで。コリンズの姓を捨てられるのは嬉しいわ。あなたも名前を変えるんでしょう?」


「マリア・クロフトよ。覚えられる?」


 クローディアは微笑み、母もくすりと笑った。


「マリアね。忘れないようメモしておくわ。ねえ、名前や立場が変わっても時々は会えるんでしょう?」


「機会を作ってくれると聞いているけど」


「結婚はいつするの?」


 肩を竦めてクローディアは困った顔をした。


「さあ。結婚は決まったけど、王位をどちらが継ぐかでまだ揉めてるのよ。コンラッドは今回のことで、ますますユリシーズ王子が国王になった方がいいと思ったらしくて」


「何せ手際がいいものねえ。ユリシーズ王子には控えめな印象しかなかったけれど、あれからずいぶん成長したのね」


 昔のユリシーズしか知らなかった母は、心から感嘆しているようだった。クローディアは頷いた。


「コンラッドは人前が得意じゃないし、何より妻になる私は嘘を塗り固めた立場だし……」


「そうね。ユリシーズ王子が国王になってくれたら助かるのに」


「でもそう甘えたことばかりは言っていられないわ。何もかも望むのは傲慢というものよ」


 きっぱりと言い切ったクローディアを見て、母は少しだけ目を丸くした。それから懐かしむように微笑む。


「……大人になったわねえ、クローディア」


 クローディアは無言で首を横に振った。母は娘の頬に手を伸ばす。


「ずいぶん痩せてしまったけれど、中身はすっかり立派なレディだわ。私よりずっとしっかりしているもの。お父様が見たらどんなに驚くか」


 母は笑顔のまま顔を歪めた。遠い記憶の響きに、クローディアも表情を僅かに歪めた。


「……長い間、手紙の返事を書かないでごめんなさい」


「あら、いいのよ。こうして会えたんだし」


「書こうと思っても、何を書けばいいのか分からなくて」


 ベルンシュタイン後宮での暮らしは、とても母に伝えられるようなものではなかった。クローディアの目に涙が盛り上がる。


「いいの。そんなこと謝るようなことじゃないわ、忘れてちょうだい」


 ぎゅっとまたクローディアを抱き締め、それから母は身を離して肩に手を置いたまま笑いかけた。


「それより、これからの話をしましょうよ。結婚式はどこでする予定なのかしら、私も参列できる? あなたのウェディングドレス姿が見たいわ」


 母は笑って見せた。こんなに笑う人ではなかったとクローディアは思い返す。まるで不幸を全てベルンシュタインに置いてきたかのようだった。クローディアは少し意外に思いながらも、母が重荷から解き放たれたらしいことを嬉しく思った。


「気が早すぎるわ。どうせいつかは国王陛下には素性を知られるってユリシーズは言っていたけど、それでもそんな日は遠い方がいいもの。私も、お母様も、慎重にならないと」


「そうね。これ以上の不幸はたくさんだもの」


 目と目が合い、母は悲しげに笑った。クローディアはその手を取る。


「もう全部終わったと信じましょう。名前も身分も変えて、新しい人生が始まると」


 母は手を握り返した。まだ目に涙は残っていたが、その顔に浮かんだ微笑みはクローディアを安心させた。




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