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愚者とエゴイストの輪舞曲  作者: ハロー
第四章 風走る
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エゴイストの夜想曲 終奏


「……四針縫ったんだったね。頭の傷は残ってしまうだろうね」


 ロアの頭の包帯には血は滲んでいなかった。出血は止まったのだろう。


「そうだね」


「頬はどうだい?」


「さあ。こっちは縫ってないらしいけど」


 自分の目でしっかり怪我の確認をしたかったが、近づくことはできなかった。


「未婚の娘さんの顔に傷を付けちゃったな」


「あなたのせいじゃないよ」


「いや、頬はたぶん植え込みに落ちた時の傷なんだよ。植え込みに飛び降りる判断をしたのは僕だ」


「おかげで命が助かったんだから、傷くらいどうってことないよ。私が気にしてないんだから、ユリシーズも気にしないで」


 真剣に謝るユリシーズを、少し面白がっているような声でロアは応じる。本当に怪我の傷跡を気にしてはいないらしい。キールも傷跡など気にしないと励ましたのだろうと推測して、ユリシーズは更に暗い気持ちになった。


「……責任を取って結婚するって、言えたら良かったんだけど」


 冗談だと受け止めたロアは楽しげに笑った。


「アハハ。それだったら私、野生馬と結婚しないと」


 予想外の返答に、ユリシーズは毒気を抜かれた顔で尋ねる。


「野生馬?」


「うん。昔、野生馬の調教をした時に落馬して、足に傷があるんだ」


「へえ……。きみはよく馬から落ちるんだね」


「名騎手に名誉の負傷、って言うでしょ。けっこう長い大きい傷だよ、こっちの足のね、」


 ベルンシュタインの騎手の間で交わされているのであろう格言を嘯いて、寝たまま腕を動かしてロアは布団を捲った。足の傷跡を見せようとしていることに気づいて、ユリシーズは慌てて軽く手を上げて制した。


「ストップ。駄目だ、止めてくれ」


 きょとんとしてロアはユリシーズを見た。ユリシーズは彼女を安心させようと両手を広げた。


「……どうせここからじゃ見えないよ。それに、状況的に宜しくないね」


「そう?」


 ロアは素直に布団を戻した。


「ヨゼフィーネも、じゃなかった、クローディアも見たくないみたいだった」


 天井を見上げて記憶を辿っているらしいロアを見て、ユリシーズは心底呆れた。


「それはそれは。誰にでも足を晒しているのかい」


「そうじゃないけど」


「騎手が傷跡を誇りにする気持ちは分からないでもないけど、何だか露出狂めいてるなあ」


 くすくすとユリシーズは笑った。このロアという娘と話していると、次から次へと想定外のことばかり起きて普段使わない頭や心が動かされる。ロアはようやく恥ずかしくなったのか、すぐに話題を変えた。


「とっ、とにかく、そういう訳だから気にしないで。それより、ユリシーズも一緒に落ちたんでしょ? 怪我はどう?」


「問題ないよ」


 不躾な緑の目に骨まで見透かすように凝視され、ユリシーズは肩をすくめた。距離があって良かったと思う。肋骨のことを話すつもりはなかった。


 怪我人に心配されるのは居心地が良くなかったが、彼女が真剣に自分を思ってくれていると思えば悪い気はしない。ふいに視線が交わる。


「……ユリシーズ、大丈夫?」


 気遣わしげな声だ。


「問題ないと言ったろう、大丈夫だよ」


「そうじゃなくて。コンラッドが、ベルンシュタインに渡ることだよ。大事にしてた弟が……」


「そんなことにはならない」


 ユリシーズは不敵に笑った。


「皇帝陛下とは話はついたんだ。ゴリッツ子爵には気の毒だったが、他にも妻が三人もいるんだから我慢してもらおう」


「えーと、何の話?」


 話を理解できなかったらしいロアが眉を下げた。恐らくゴリッツ子爵が何者かも忘れているに違いない。ユリシーズはニヤリと口端を吊り上げた。


「もう三日もすればクローディアの母親、カサンドラがウィンフィールドに着く」


「…………ええっ!!」


 目を真ん丸に見開いたロアを、ユリシーズはまた人差し指を唇に当てて諫める。


「シーッ、静かに」


「だ、だって、いつの間に!?」


 ほとんど予想通りのロアの反応に、ユリシーズは気を良くした。


「ソイニンヴァーラ王国の、ティニヤ王女が協力してくれたんだ。彼女は皇帝陛下の大のお気に入りだからね」


「だけど、天馬レースは私の負けだったのに!」


 ロアは叫んだ。


「王子様に国を捨てさせる訳にはいかない。クローディアさえいればいいなんて今は言ってるけど、あいつは神経質で気が小さいからね」


 ユリシーズは小さくため息をついた。


「枕が変わっても眠れなくなるのに、住む国なんて変わったら体調を崩すに決まってる。その上プライドが高いから、帰りたくなっても帰りたいとは言えないだろう。全く、難儀な弟だよ」


 まだ信じられないという顔でロアは瞬きをした。


「でも、二人が結婚するのをあんなに嫌がってたでしょう」


「僕は嫌だとは言ってない。無理だと言ったんだよ。それに、ティニヤ王女を動かしたのはティーアとティーナだ。僕はそれにちょっとばかり便乗しただけさ。コンラッドもクローディアもきみも、あの三人には感謝しなくちゃいけないよ」


 返答はなかった。感極まって涙ぐんでいるようだ。


「結局のところ、大事な大事な弟に根負けしたってことさ。どうだい、君が望むような麗しい兄弟愛を披露できただろう?」


 いつかのロアの言葉を持ち出すと、彼女は顔を覆って泣き出した。


「また泣かせちゃったな」


「こ、れは……ひっく、嬉し、泣き……」


 ユリシーズはしばらく黙り込んだ。ややあってロアは静かになり、目元を拭う。


「落ち着いたかい」


「……うん」


「それで、感想は?」


 軽い口調で尋ねると、途端にロアはぱっと明るく笑った。


「最高だよ! ありがとう、ユリシーズ。本当にありがとう!」


 包帯や絆創膏に心は痛んだが、見たかったものを見られたユリシーズは心を満たされて微笑んだ。


「どういたしまして。まるでコンラッドがきみの弟みたいだな」


 ロアは微かに笑い声を上げた。


「確かに昔、兄弟はほしかったけど」


 言いかけた言葉を飲み込んで、ユリシーズは表情を引き締めて声を潜めた。


「……でも、礼を言われるのはまだ早い。父上とマーヴィンとの話がまだ残ってるんだ」


「マーヴィン?」


「話したことがなかったかな、父上の弟の息子で、僕の従兄弟だよ。昔から誰よりも王位に就きたがってる。それこそ、人の命を切り捨ててでも奪おうとするくらいにね」


「命を? 誰の?」


 目と目を合わせたまま、ユリシーズはしばらく沈黙した。それから視線を切る。先ほどの命綱の話と今の話がロアの中で結びついていないらしい。


「さあ、誰のだろうね。怪我人相手に長々と話してしまったな、そろそろ失礼しよう」


「え、もう?」


「ああ。そうだ、きみの命の恩人から最後に一つ。どうかこれからも馬に乗ってくれ」


「……それは、」


 何度目かの懇願に、ロアの手がきゅっと布団を握るのが見えた。


「頼むよ。きみが馬に乗らなくなった理由が僕だと知られたら、キールに殺される」


「キール公子に?」


 ロアが目を瞬かせる。


「この部屋へきみを見舞いに来た時に、無茶な賭けをした僕に腹を立てていなかったかい?」


「ううん。キール公子は賭けのことは知らないよ」


 またもや想定外の答えに、ユリシーズは外に垂れ下がったロープをたぐり寄せようと伸ばした手を止める。


「何だって? ティーアとティーナは知っているのに?」


「あ、あの二人には、無理やり白状させられたんだよ」


 どういう訳かロアは少し赤くなって口を尖らせた。ユリシーズは少し考え込んだ。


「……キールを心配させたくなかったってことかな?」


「それはそうでしょ」


「きみに頼ってもらえないと、寂しいと思うけどね。もっと彼を頼った方がいいんじゃないかな」


 すらすらと二人の仲を応援するような言葉が出る自分に、ユリシーズは普段通りの自分だと安堵する。大丈夫、何も起きない。何日かして彼女がベルンシュタインに帰る日には、笑って見送れるはずだ。


「もし頼っててもキール公子は優しいから、あなたを殺したりしないよ」


 悪気のないロアの笑みがユリシーズの心を抉った。彼女を脅すために窓から突き落とそうとした自分、彼女を傷つけるためだけに傷つけた自分とキール公子との対比が、残酷なまでに鮮やかだった。


「…………」


 キールは公子という立場以上に面倒なものを、何一つ背負っていない。成長した今では父親とそっくりな彼は、両親に愛されて成長し、年頃になって気の合う娘を見つけて、幸運なことにその娘にも愛されている。恐らく二年と待たずに妻として迎えるのだろう。今までもこれからも、彼は約束された幸福に満ちている。


 もしも自分があんな母から生まれてさえいなければ。


 もしも弟が国王になることを望んでくれてさえいたなら。


 もしもクローディアの父が、民主化運動になど関わっていなければ。


 もしもベルンシュタイン皇帝が、気まぐれでクローディアを王国へ送り込んでいなかったなら。


 幾つもの可能性のうち一つだけでも現実にそうであったなら、ロアの隣にいるのはキールではなく自分だったのかもしれない。


 だが、もしもの話など考えても意味がない。自分は父の子ではなく、弟は王位継承を拒否し、クローディアの父は王政の廃止を望み、ベルンシュタイン皇帝はクローディアをここへ遣わした。それが現実だ。ユリシーズは顔を伏せた。


「……そうだね。僕は彼と違って優しくない」


 ロアに対して苛立ちや憎しみ以外のものを抱き始めたのは、いつからだっただろうか。それを受け入れたのはあの薔薇のトンネルでの出来事の後からだ。ずっと目を逸らし続けていたそれが、今ユリシーズを突き動かしている。


 ユリシーズは音もなく窓枠からひらりと降りた。静かにベッドの上のロアに近づく。


「ユリシーズ?」


 ロアが名を呼ぶ。肋骨の痛みを紛らわせるためにワインを飲んでいなかったら、進むこの足を止められたかもしれない。だがユリシーズはワインを飲んでいた。それも現実だ。足は止まらず、彼女の元へ進み続ける。


「……僕はキールと違って、きみを怒らせたり泣かせたりしてばかりだ。さぞ酷い男だと思っているんだろうね」


「そんなこと思ってないよ。今はね。前はまあちょっと思ってたけど……ねえ、急にどうしたの?」


 こんな時でも正直なロアに呆れて、ユリシーズはくすりと笑った。ベッドに横たわる彼女の肩の横に片手をつき、もう片方の手で絆創膏のない側の頬を包む。ロアがぴくりと体を震わせた。

 彼女は間もなく、永遠にキール公子のものになる。


「ユ──」


「確かに僕は酷い男だ。だから、怪我人にこういうこともできる」


 体重を掛けた片手がベッドに沈む。


「!」


 驚いたロアは肩をすくめ、ぎゅっと目を瞑った。今の彼女は逃げ出すこともできない。だが唇まであと少しのところで、今日のロアとキールの幸せそうな顔が浮かんだ。舞踏会でダンスをしながら結婚の話で笑い合う二人の姿が、鮮やかに脳裏に蘇る。


 ユリシーズは動きを止めた。母を手に入れるために前の夫から引き離した父と、これでは同じになってしまう。実の父ではないというのに、そんなところだけ似るなんて冗談じゃないとユリシーズは唇を引き結んだ。


 固く閉じられたロアの瞼が震えるのをただ見下ろす。これほど至近距離で彼女を見る機会は二度とないだろう。自分を恐れて目を瞑る顔ではあるが、それでもよく目に焼き付けておきたかった。


 やがて何が起ころうとしているのか知りたくなったのか、ロアは恐る恐る瞼をそうっと開いた。薄目を開けた瞳と目が合う。ユリシーズは少し笑って、頬を撫でてから手を離した。


「キスでもされると思ったかい?」


「なっ……!」


 ロアは目を見開いて、ぱくぱくと口を動かした。ユリシーズは少しだけ笑った。


「静かにしないと人が来るよ」


 いつの日か、この時彼女の唇に触れなかったことを後悔するかもしれない。だが今はキールとの友情へ払った誠意と、ギリギリのところで踏みとどまった理性を誇ることで自分を慰めるしかない。


「ゆっ、ユリシーズ!!」


 ユリシーズは身を翻すと窓枠に飛び乗り、ロープに手を掛けた。満月を背負って逆光となり、ロアからはその表情を窺うことはできない。


「おやすみ、じゃじゃ馬娘さん」


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