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愚者とエゴイストの輪舞曲  作者: ハロー
第四章 風走る
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エゴイストの夜想曲 序奏


 カーテン越しに満月の月明かりが差し込むロアの部屋の窓に、ふいにするりと細長い影が降りてくる。


 それはするすると長さを増して止まり、ゆらゆらと弾んで揺れた。ややあってから人影が満月を遮り、窓の鍵をほとんど音も立てずに器用に外から解錠した。ゆっくりと慎重に窓が開かれる。


 夜風がふわりとレースのカーテンを舞い上げて、その向こうでユリシーズは窓枠に屈んだ。部屋は薬品の匂いが仄かにした。痛み止めは飲んでいるが、無茶をしたせいで肋骨がずきずきと痛む。ユリシーズはひっそりと自嘲した。


 ロアは薬を飲んで眠っているようだった。先に見舞ったコンラッドから、傷口から感染したのか熱が出たとは聞いていた。その仄かに赤い顔を見て、ユリシーズは改めて自分の厄介でしかない気持ちを噛み締めた。


 ふとロアの瞼が震える。気配かひんやりした風のせいで目を覚ましたようだった。


「僕だよ、ユリシーズだ」


 人影に気づくよりも早く名乗ったおかげか、驚いたロアは悲鳴は上げなかった。


「ユリシーズ?」


 起き上がろうとするロアを、ユリシーズは慌てて止めながら窓枠に腰を下ろした。またずきりと肋骨が痛む。熱のせいか、ロアの声はいつもより間延びしていた。頭の包帯と頬の絆創膏が痛々しい。


 だがこうして声を聞き月光と蝋燭の明かりに照らされた顔を見ると、医師の説明通り命に関わるような怪我ではないと分かってユリシーズは安堵した。


「ああ、そのままで。──きみの使用人達には僕の侍女と話をしてもらってるけど、念のため少し静かに話そうか」


 隣の使用人の部屋からは、誰かが小声でぼそぼそと話している声がする。ロアとの会話に気づかれないため、そしてこの部屋に使用人を立ち入らせないために、ユリシーズは先に隣へ侍女を送り込んでいた。


「どうして、そんなところから入ってきたの」


「少しきみと二人きりで話したくてね」


 満月を背負ったユリシーズは逆光になり、ベッドにいるロアからは表情はほとんど見えないはずだ。


「ごめん、耳の調子が悪くて聞こえないや。こっちに来てくれる?」


 ユリシーズはベッドの脇に置かれた椅子をちらりと見た。


「遠慮しておくよ」


「どうして? そこだと声が遠いし、顔もよく見えないよ」


 表情を見たいという意味なのは分かったが、ユリシーズは苦笑した。


「今夜は人に見せられるような顔をしてない」


「え。どんな顔」


 こんな状況で好奇心を見せるロアに、ユリシーズはまた笑った。


「万一この状況を誰かに見られたら、あらぬ誤解を掛けられる。そうなったら困るのはきみだからね」


「え?」


「深夜に男女が密室で二人きり、ましてやベッドサイドで語り合っていたら世間はどう思う?」


 ロアはしばらく黙った。


「…………ああ、そういう意味か」


 ややしばらくあってロアが答えた。怪我のせいか薬のせいか、いつも以上に頭が回っていないらしい。


「男と女だと、そういうの面倒くさいね」


 性別などどうでもいいという口調だった。ロアが自分をどう思っているかがよく分かって、ユリシーズは苦く笑う。


「その通り。ここからきみと話していれば、誰かに見られても忍び込んだ僕がお叱りを受けるだけで済むだろう」


 ロアは笑った。


「ふふ。泥棒みたい」


「似たようなものさ」


 夜風がまたレースのカーテンを大きく舞い上げた。国王の息子ではないのに王子の地位に居座り続ける自分を、ユリシーズが盗人と称したことに気づいてロアはショックを受けたようだった。


「……あなたは王子だよ」


「ごめん。気を遣わせたね」


「気遣いでも、同情でもない。私はほんとに、」


 真心の籠もったロアの言葉が、ユリシーズには逆に辛かった。


「その話は止めよう、僕はもうきみと争うつもりはないんだ」


 薔薇のトンネルで交わした会話が蘇り、ユリシーズは後悔の色を顔に浮かべて柔らかな声で言った。沈黙が流れる。


 クローディアのことさえなければ、ロアと対立することはなかっただろう。天馬という共通の話題もある。

 二人で一緒にシェーガーに乗ったような時間をもっと持てていたなら、今とは違った関係になれていたかもしれない。そうであれば、彼女に怪我を負わせたりもせずに済んだのだ。


 今更考えても仕方のないことを考える自分を内心嘲笑いながら、ユリシーズは自分の足首を引き寄せた。


「……天馬レースの話をしようか」


 ロアは息を吐いた。その小さな吐息は、彼女から距離のあるユリシーズの耳に妙に近く響いた。


「あなたが一着だったんだってね。おめでとう」


 人づてにそう聞いたというようなロアの口振りに、ユリシーズは眉を上げた。


「覚えていないのかい?」


「うん。それに、私を助けてくれたんでしょう? ありがとう、ごめんね」


 記憶がないせいなのか、何の抵抗もプライドもなくロアはユリシーズに礼を言った。


「逆さ吊りになって今にも落ちそうな人を見れば、誰だって助けるさ」


「大騒ぎだったんだってね、本当にごめん。せっかくの大舞踏会だったのに」


 ユリシーズは小さく首を横に振った。


「こうして誰も死ななかったんだ、スリリングで華々しいいい思い出になったよ。……賭けの内容については覚えているかい?」


「うん。馬にはもう、乗らない」


 泣かないようにか、ロアは大きく息を吸ってから囁くように言った。驚いたユリシーズはベッドの上の彼女を見る。


「本当に?」


「うん」


「そういう約束ではあったけど、乗ってくれて構わないよ」


「ううん」


「僕は気にしないよ。元々圧倒的にきみに不利な歪な賭けだったんだ。決してきみが約束を破った訳じゃない」


 怪我をしたことも落馬も、拾い集めさせたベルトの金具を確認したユリシーズには彼女の自業自得とは思えなかった。このままロアが乗馬を止めてしまえば、後ろめたいどころの話ではない。


「乗らない」


 ロアは今度はきっぱりと言った。


「たった数日であれだけ天馬を乗りこなすきみの才能は、神からの賜り物だ。無駄にしていいはずがない」


「乗れなくたって、平気だよ。私、ちゃんと覚悟してたから」


「ロア」


 ユリシーズは焦れてロアを見た。だがロアは譲る気はないようだった。


「自分が勝手に首を突っ込んだから、約束くらいはちゃんと守らなきゃ」


 ユリシーズはじっとロアを見つめた。


「僕はきみから馬を奪いたくない。……そりゃあ、あの時はきみから取り柄を奪うのが面白いと思ったけど。でもそれは間違いだった」


「これは私の問題なの。卑怯者にはなりたくない」


「誰もそんな風には思わないさ」


「私は思う。……悪いけど、私のことは私が決めるよ。ごめんね」


 突き放され、ユリシーズは半ば愕然とした。自立した姿勢が新鮮でもあったが、今はそれより苛立ちが強い。


「石頭め」


「よく言われる」


 ロアは何故か少し嬉しそうに答えた。


「……これは、確定してから話そうと思ってたけど。トムがきみにぶつかったのは、恐らく事故じゃない」


「トム?」


 ユリシーズは眉を上げた。


「レースの最後で、きみに下からぶつかった五番の騎手だよ。呆れたな、名前も知らない騎手を助けようとして死にかけたのかい?」


「うっ……そ、それより事故じゃないってってどういうこと?」


 痛いところを突かれたらしいロアは目を泳がせ、はぐらかそうとした。


「──レースの前に、天馬に装備品を取り付けた時のことを覚えているかい」


「え? 何の話?」


 瞬いてロアは尋ねた。


「今は質問に答えてくれ。記憶はある?」


「うん。レースの記憶はないけど、それは何となく覚えてる」


「装備品に異常はなかった?」


「なかったよ」


「本当に? 命綱のベルトの金具がぐらついたり、変形していなかった?」


 念を押して尋ねると、ロアは口を尖らせた。


「ううん。どこもおかしなところはなかったし、きっちり留めたよ。モーリスが教えてくれたとおり、装備品の点検と装着にはたっぷり時間をかけたもの」


 ユリシーズは微笑んだ。


「基本に忠実ないい弟子だ、モーリスも喜ぶ。それじゃあ、装備を終えた後に天馬から離れた時間はあるかな?」


「書類にサインをしなきゃいけないって教えてもらったから、サインしに行ったよ」


「誰が教えに来たのかな?」


「ええと、ほらあの、目と髪の黒い……東洋人っぽい雰囲気の」


「シンだね。天馬にも乗るけど本職は父上子飼いの従者だ。天馬から離れた時間はどのくらい?」


 ロアは眉根を寄せた。


「うーん、五分か十分くらいかな」


「なるほど、それか……。ありがとう」


「ねえ、何の話なの?」


 もどかしそうにロアが問う。


「……きみの命綱が切れたのは、偶然じゃない。ベルトの金具が薄く削られていたんだ」


 信じがたい事実に、ロアは目を見開いた。


「そんな。私、ちゃんと確認したよ!」


「そうであれば、きみがサインをしに厩舎を離れた隙にすり変えられたんだろう」


「ええっ!」


「シッ、声が大きい」


 ユリシーズは唇に人差し指を当てて、鋭い視線を隣の部屋に向けて反応を窺った。だが話し声は変わらずに続いており、ユリシーズは安堵した。


「今だから言うけど、待ち針草のオイルをきみの馬具に掛けたのも本当に僕じゃないんだ」


「じゃあ、誰なの? ベルトに細工をした人と同じ人?」


「分からないよ。何人か目星は付いてるけど、確証はない」


「あなたが誰の仕業だと思ってるのか、教えて」


「……父か、従兄弟か。あるいはその両方か」


 ロアが息を飲む音が聞こえた。こんな謀略の渦巻く世界を、恐らく彼女は初めて知っただろう。自分がそれを知らせなくてはならなかったことを、ユリシーズは腹立たしく悔しく思った。


「で、でも、どうして?」


「マーヴィンが今夜の賭けを知っていれば、当然コンラッドが国を出るようにきみの負けを願うはずだ。コンラッドを手放したくない父も、きみの負けを望んでいたかもしれない。父はマーヴィンと違って、コンラッドが賭けの結果なんかで自分の人生の変えるとは思っていないだろうからね」


 窓枠に腰掛けているユリシーズは、国王の部屋の窓からまだ明かりが漏れているのを眺めながら小声で説明した。


「その上で父は、ウィンフィールドの大舞踏会の締めくくりの天馬レースで、王子である僕が負けてベルンシュタインの女性騎手が勝つことを屈辱と思ったのかもしれない。……まあ犯人が誰で理由が何だとしても、きみがベルンシュタインに帰る日までに明らかにすると約束するよ」


 二人ともそれぞれの思惑で、ロアの勝利を邪魔した可能性があった。レースを狂わせたのは父なのか、マーヴィンなのか。


 最後にロアに体当たりをしたのはトムだ。もしあれが国王の子飼いのシンだったなら、体当たりでロアを落とし損ねた挙句、自分が落ちかけて助けられるなどという失態は犯さなかっただろう。ユリシーズの救助が間に合わないほどの速さで、確実にロアを落としていたはずだ。


 トムに指示したのがどちらにせよ、ウィンフィールド王国の恥だ。ユリシーズは僅かに顔を歪めた。


「とにかくあれは、公正なレースじゃなかったんだ。だからこれからも馬に乗ると言ってくれ、ロア・ジャンメール」


 ロアを見つめてほとんど懇願のように頼むと、彼女はふいと顔を少しだけ扉側に向けて布団の裾を軽く掴んだ。そちらを向くと傷が下になって痛むはずだ。


「…………」


「やれやれ。本当に強情だな、キールも苦労するだろうね」


 口をつぐんだままのロアを見て、ユリシーズは呆れ声で言った。


「キール公子が?」


 ロアがゆっくりと顔をこちらに向ける。


「ああ。キールはもうお見舞いに来たのかな」


「さっきね。ティーア王女とティーナ王女と一緒に」


「心配してただろう」


「うん。申し訳なかったよ」


 ユリシーズは自分の感情を捻じ伏せる。昨日までと同じ今日、今日と同じ明日。慣れた作業に、何の問題もない。いつか父の言った通りの人生だと思うと、どす黒い思いが腹の底で蠢く。



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