天使の梯子
「え?」
耳鳴りのせいでロアには聞こえなかったらしい。クローディアは僅かに苛立ちながら、同じ言葉を繰り返す。
「馬には、これからも乗るわよね?」
「私、負けたんだよ」
腕を降ろし、ロアは涙に濡れた目で不思議そうにクローディアを見上げた。
「まさか、もう乗らないってこと?」
「うん。だって、そういう約束だったでしょ」
しんと場が静まり返った。クローディアの肩が震える。
「そんなもの、反故にすればいいじゃない」
「駄目だよ」
クローディアはつんと顎を上げた。
「分からないの? ユリシーズはあなたにプレッシャーを掛けたかっただけなのよ。あんな約束、ただの嫌がらせよ」
「そうだとしても、約束は約束だから」
頑ななロアに、クローディアは声を荒げた。
「あなたって本当に馬鹿ね! ベルンシュタインに帰ったら、あなたが馬に乗ろうが乗るまいがユリシーズは知りやしないわよ」
その言葉にロアも意固地になったのか、少しだけ眉根を寄せる。
「誰かが見てるから、約束を守るとかじゃなくて。私が、私自身が、自分がした約束を守りたいの」
「それで誰が得をするって言うのよ?」
「損得の問題じゃないよ」
「何よそれ!」
「クローディア」
コンラッドはクローディアの背中にそっと手を当てて、気持ちを宥めようとした。彼としてはロアの愚かなほどの生真面目さに共感する部分もあったが、今それを伝えてことを荒立てる気はさらさらなかった。
「独りよがりなおかしなこだわりで、自分の人生を台無しにするつもり?」
一方クローディアは、自ら不幸な道を進もうとするロアの選択を全く理解できなかった。
ユリシーズが本心からそんなことを望んではいないという確信がある。彼はロアを追い詰めて、苦しませたかっただけだ。自分もロアに似た感情を抱いたことがあるだけに、その心がよく分かった。
だからこそクローディアは、まるで自分がロアから馬を取り上げてしまったような気さえしている。
「小さい頃から馬のことばかり考えて生きてきたのでしょう。たった一つの取り柄がなくなるのよ。あなたはそれで生きていけるの?」
クローディアの声が震えた。ロアははっとして表情を変えた。
「……クローディア」
「手放さなくてもいいものを自分から手放すなんて、間違ってる。そんなこと絶対に、間違ってるわ」
膝の上でドレスの生地を固く握る。細い指が血の気を失って白くなった。
「ねえ、クローディア」
「何よ」
クローディアを見上げているロアの眼差しは、柔らかく温かかった。こんな目をどこかで見たことがある気がする。クローディアは遙か昔の、名前のない記憶を思い出そうとした。
「どうして、泣いてるの」
ロアの言葉の意味をすぐには理解できずに、クローディアは不審がるような表情になった。それからゆっくりと自分の頬に手を伸ばす。指先にぬるい涙が触れた。自分が今更人前で泣くなど信じがたかった。コンラッドとの別れが、人前で涙を流した最後だっただろうか。クローディアは訝しむような嫌悪するような奇妙な目で、濡れた指先を凝視した。
その姿は、何故かロアの目には幼子のもののように映った。静かに手を伸ばし、珍しくおずおずと遠慮がちにクローディアの膝のあたりに手を伸ばした。
「やめて」
クローディアは濡れた指先を見下ろしたまま、鋭く呟いた。だが膝に触れた手を払いのけることはなかった。
ロアは痛む方の腕も伸ばして身を起こそうとしたが、ひどい目眩と耳鳴りに襲われて中断した。仕方なくベッドの上で体を弛緩させて、笑顔で両腕をクローディアに伸ばす。
「来て、クローディア」
「……何の真似よ。嫌よ」
抱擁を求められていることは分かったが、元々スキンシップが好きではないクローディアはけんもほろろに断った。ロアはそれでも微笑みを浮かべたまま両手を上げて待っていたが、しばらくして疲れたのか腕が下がってきた。
「腕がしんどいよ-、クローディア」
クローディアは顔をしかめた。
「あの子を──皇帝陛下を思い出すから、嫌なのよ」
コンラッドの前では言いたくなかったが、何となくこの場で嘘をつくのには抵抗があった。クローディアが拗ねたように僅かに顔を背けたのを見て、ロアは一瞬はっとした顔をして手を降ろした。
クローディアは降りた腕を見てほっとするはずの自分が、むしろ寂しく感じたことに気づいた。それが表情に出ていたのか、ロアは少し迷ってまた腕を上げた。
「……しつこいわよ」
「うん。でも、軽くちょっとだけ、お願い」
甘えるような甘えさせるような、何とも言いがたい声だった。
「あー、もう、腕が痛い」
それでもクローディアが動かずにいると、ロアは痛む腕を少しだけ揺らし始めた。怪我人相手ということもありクローディアはとうとう諦めて、椅子から身を起こすとぎこちなくロアの体に自分の体を近づけた。
ロアは嬉しそうに笑ってクローディアの背中に手を回し、呼吸を合わせるようにしてぎゅっとその華奢な身体を抱き締めた。コンラッドとしては嫉妬を感じずにいられなかったが、二人を止めるほどではなかった。
見た目よりも更に細く薄い身体を自分の身体で感じると、ロアは何だか無性に泣きたくなった。皇帝が彼女に何をして、それによって彼女がどれほど辛い思いをしてきたのだろうと考える。気絶したクローディアを背中に背負った時の譫言も耳に蘇った。
ロアの体は熱かった。熱があるに違いない。体温が少しずつクローディアに伝わっていく。それは不思議な感覚で、相手がロアであることを思えば居心地が悪くもあったが、何故か拒む気にはなれなかった。
「あなた、熱があるわよ」
クローディアは視線をロアの顔へ向けようとした。だがロアはその動きを封じるようにより腕に力を込めた。熱のせいかロアの頭はふわふわしたし、傷や体の節々が痛んだが、今はそんなことは気にならない。覚悟を決めて大きく息を吸った。
「……あのね。私は、クローディアのしてきた苦労が、どんな風だったのかはわからないけど……」
言葉選びを間違えればまた憎悪の目を向けられる気がして、ロアは用心深く言葉を選んだ。
「でも、クローディア。あなたがずっと、厳しい運命と戦ってきたことはわかるよ。私も、あなたにそんな思いをさせてる運命みたいなものに、腹が立つ。だからレースで負けた私にも、すっごく腹が立ってる。あなたの力になりたかったのに」
ロアの声が震えた。
「……クローディア。私はこれまで一生懸命戦ってきたあなたを、すごく尊敬してるよ」
尊敬という予想だにしなかった言葉に驚き、クローディアはロアの顔を見ようとした。一体何の話をしているのだろうと訝しむ。それほどまでにクローディアは、自分の人生を他者の敬意から遠いものだと認識していた。
「何を言っているの? 私は、戦ってなんかいないわ。ただ漫然と流されているだけ」
「違うよ」
否定の言葉は、クローディアの怒りに再び小さな火をつけた。
「ロア。私があの子に──子どもの癖にどんな大人よりも冷酷な、人の心のない皇帝に、どんな風に媚を売ったか知りたい?」
ロアは首を横に振った。
「あの子がいつ大人になってもいいように、私がどんなにおぞましい薬を飲んでいるか知りたい?」
意味が理解できずにロアは黙った。意味を悟ったコンラッドは、頬を打たれたかのような顔をしている。
「青ニガヨモギの根の煎じ薬を飲み続けると、子どもが産めなくなるのよ」
ロアはようやく意味を理解し、息を飲んだ。クローディアがどんな世界で生きてきたかが垣間見えて、痛いほどにぎゅうっと腕に力を込めて抱き締める。それから不安定な声で絞り出すように言った。
「クローディア、私もそうする。同じ状況なら、私もそうする」
「嘘よ。あなたは媚びなんか売らないわ。きっと皇帝に真正面から刃向かって、綺麗に首を刎ねられる──」
城壁の関所で兵士に立ちはだかったロアの姿が、クローディアの瞼に浮かんだ。ロアは必死に首を横に振って身じろぎをした。
「真っ向からぶつかることだけが、戦うってことじゃないよ。クローディア、あなたは立派に、勇敢に戦ってきたよ。本当にそう思う。どう言えば伝わるのか、わからないけど……」
上手く言葉を並べられないことがひどくもどかしくて、ロアは眉根を寄せた。涙が滲み肩も震えていたが、それは恐れではなく悲しみと義憤からだった。
レースに負けた自分はもちろん、コンラッドもクローディアの母も、彼女を苦しめている張本人であるベルンシュタイン皇帝も、誰もクローディアを救うことができなかったことが悲しくどうしようもなく悔しかった。
苦しげな深い呼吸の度にロアの胸が上下し、それを身体で感じる度にロアの真剣さが伝わってクローディアの心に混ざっていくようだった。
クローディアは、自分は過酷な運命に対して抗うこともなく泣いていただけだったと知っている。だが運命に涙を流すことを、ただただ苦しみ喘ぎもがくだけのことを、戦いと呼んでくれる人がいる。
ロアの愚直さをよく知っているがゆえに、クローディアは本心からの言葉であることは疑わなかった。惨めとしか思えなかったこれまでの自分の生き方を、自分自身と彼女にだけは誇っていいのかもしれないと思えた。
「……ありがとう。ロア、ありがとう」
礼を言うと、長い間自分を苛んでいた何かがようやく終わった気がした。あれだけ心に常に埋もれていた恨みと怒りが冷めて、小さくなりずっと遠いところにあるように感じる。自分に起きた全ての出来事が、走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
二人はそのまましばらくそうしていた。やがてクローディアがそっとロアから離れ、じっと緑の目を見つめた。そして照れ隠しのように少し尊大な声と顔で言う。
「……レースは、あなたの負けだったけれど。あなたは私の心と、五番の騎手の命を救ったのよ。そのことに胸を張ったっていいわ」
「そうかな?」
ロアはまだ納得のいかない顔で呟いた。クローディアは目尻の涙を拭いながらふうっと息を吐いた。
「そうよ。知り合ったばかりの、しかも嫌な態度を取ってばかりの私のためにここまでして……それにあの騎手だって、あなたに体当たりして邪魔しようとしてたのに助けるなんて。そんなお馬鹿さん、あなたしかいないわ」
素直になれないクローディアの婉曲的な褒め言葉に、ロアがはにかむ。
「それって、褒めてくれてるの?」
「そう思ってくれて構わないわ」
クローディアはつんと顎を上げた。
「ありがとう」
「お礼を言うのは私の方よ」
まだ少し無念さが滲む顔だったが、悔いを振り切るようにロアは明るい笑顔になった。
「えへへ。私、馬鹿で良かった!」
ロアらしい言葉に、クローディアとコンラッドは思わず笑った。





