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愚者とエゴイストの輪舞曲  作者: ハロー
第四章 風走る
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敗北


「今はこれ以上できることはありません。私は隣の隣の部屋におりますので、何かあればすぐにお呼び下さい」


 医師はそう言い残して、看護師とともに医療器具の入った鞄を持ち上げて部屋から出て行った。ヘルメットが古かったせいで衝撃で割れてしまったせいか、ロアの頭の傷は結局四針縫った。その上、傷のまわりは縫いやすいように少し髪を剃られている。何よりも美を尊ぶクローディアが見ると絶望的な状態だ。


 治療を終えた今は頭に包帯を巻き、頬には絆創膏を貼ってベッドで眠っている。その顔はいつもより白く小さく見えて、枕元に置かれた椅子に座ったクローディアはぎゅっと膝の上で両手を握り締めた。息はしているものの、ロアの意識が戻る気配はまだない。


「クローディアさん、召し上がって下さい」


 マヌエラが、温かい紅茶の入ったカップをクローディアに差し出した。


「要らないわ」


 とても何かを口にする気にはなれず、クローディアはロアを見つめたまま無愛想に断った。丸顔の侍女とそばかすのある侍女が顔を見合わせる。だがソーサーを持つマヌエラの手は引き下がらなかった。


「こんな時だからこそ、何か飲んだ方がいいですよ。いつ目が覚めるのか分からないのですから」


 少しの間の後で、クローディアはソーサーを受け取った。ウィンフィールド名物の咲茶ではなく、この大陸で一般的な紅茶だ。ベルンシュタインから持ち込んだものだろう。


 そっと口を付けると、素朴な味わいが舌の上に広がる。懐かしいとクローディアは感じた。既に自分の祖国はウィンフィールドではなく、ベルンシュタインになっているのかもしれないと思う。


 紅茶が喉を通って腹へ落ち、体が芯から温められて緊張した体が少しほぐれた。そばかすのある侍女が、気遣わしげにクローディアの細い肩を見下ろす。


「ロア様には私どもが付いておりますわ。ロア様が目を覚まされたらクローディアさんにすぐお知らせしますから、もうお部屋で休んで下さいませ」


 既に日付が変わりそうな時間だったが、クローディアは首を横に振るだけだった。侍女達が困り顔で視線を交した。その時、ノックの音が響いた。


「はい」


「コンラッド王子がお見えです」


 聞き覚えのある声だった。眉と平行な眉をした、コンラッド付きの侍女だ。そばかすのある侍女が扉を開けた。


「どうぞ」


 コンラッドは静かに中へ入った。床と平行な眉の侍女は、扉の横へぴんと背筋を伸ばして待機する。


「……クローディア」


 コンラッドはロアのベッドへ歩み寄り、座ったまま身じろぎもしないクローディアに声を掛けた。だが返事はなく、コンラッドは自分の侍女を見た。


「皆様、どうぞ隣のお部屋へいらして下さいませ」


 二間続きの隣はジャンメール家の使用人の部屋だ。マヌエラ達は意識のない主から離れたくはなかったし、自分達の部屋を我が物のようにして誘われては面白くなかったが、それが王子の意志ならば逆らえない。


 後ろ髪を引かれる思いでロアを振り返りながら、ジャンメール家の侍女達は隣の部屋へ移動した。


「ずっとここにいたのか」


 コンラッドは不慣れな手つきで丸テーブルの椅子をクローディアの隣まで運び、そこに腰を下ろした。


「……私の、負けね」


 ようやくクローディアは口を開いた。


「私は一人で、ベルンシュタインに帰るわ」


 クローディアが一人で帝国に帰ることを自らの負けと表現したことを、コンラッドは内心喜んだ。彼女は間違いなく、今でも自分を愛している。傍にいたいと思ってくれている。クローディアの敗北宣言は実質、コンラッドにとっての勝利宣言でもあった。


「ロアは負けたが、君の負けじゃない。僕と二人で国を出よう」


 クローディアはゆっくりとコンラッドを見た。コンラッドはその膝の上の慎ましやかな手を握りたいと思ったが、状況が状況なだけにどうにか堪えた。


「あなたは、王子なのよ。あなたにそんな自由は、」


「他人の人生を勝手に賭けたレースで、勝利より騎手の安全を選ぶ自由人もいる。僕だって少しくらい自由にさせてもらう」


 コンラッドらしくもない滅茶苦茶な理屈に、クローディアは唇を引き結んだ。


「王子が国を捨てるのは、少しくらいの自由じゃないわ。それに、あの時は天馬騎手の命が懸かっていたのだもの。人の命はレースで勝つことより大事でしょう」


 クローディアがロアの行動に理解を示したことに、コンラッドは驚いた。人命が尊いのは当然だがクローディアの性格上、責任を放棄した人間に同調するのは珍しいことだった。


「それはそうかも知れないが。首を突っ込んだ責任というものがあるだろう」


 今度はクローディアは何も答えなかった。沈黙が流れる。


「……それにしても、酷い締めくくりになったものだ。これがベルンシュタイン皇帝の狙いだったのか?」


 記憶にある限り誰かの寝顔を見たことがなかったコンラッドは、居心地悪そうな顔でベッドの上のロアを見つめる。


「分からないわ。あの子のことは、何も分からない」


 皇帝のことは考えたくないというように、クローディアはゆるゆると頭を振った。


「誰もが一生忘れられない舞踏会になった。何十年と語り継がれるだろうな」


 コンラッドは皮肉を呟いてため息をつく。


「そうでしょうね。……私も忘れないわ」


 そう言ったクローディアの声は震えて、掠れていた。コンラッドは自分を抑えきれずに彼女の手を握った。クローディアがコンラッドを見る。


「クローディア。僕は君と──」


 目を逸らしたクローディアがふいに目を見開いて、片手を上げてコンラッドの言葉を制した。彼女の視線の先を辿ると、そこには二つの緑の瞳があった。


「……あ。えーと、お邪魔しちゃったね」


 布団の端を手でもじもじと握って、目を覚ましたロアが気まずそうに言った。


「ロア!」


 クローディアは椅子から飛び降りるようにして、掛けられた布団ごとロアに抱きついた。


「わっ!」


「馬鹿! あなたは馬鹿よ、とんでもない馬鹿だわ!」


 クローディアに耳元で大声で叫ばれて、ロアは目を白黒させる。


「いたたたた……」


 痛みに顔をしかめたロアを見て、慌ててクローディアは飛びのいた。だが口撃は止まない。

 

「ユリシーズが助けに行かなかったら、あなたは死んでたのよ! 他の騎手を助けて自分が死ぬなんて、馬鹿にもほどがあるわ!」


 あまりの剣幕に、コンラッドは思わず身を引いた。


「えっ。な、何、どういうこと? 私、誰かを助けたの?」


 ロアは困惑し切った顔でのろのろと二人を交互に見た。頭を打ったせいか、記憶が飛んでいるらしい。クローディアは少しだけトーンを下げた。


「覚えていないの?」


「うん。天馬レースは、終わっちゃったの?」


「ええ」


「じゃあ、勝ったのはどっち?」


 真剣な顔で尋ねたロアに、クローディアは答えにくそうに眉根を寄せた。


「……ユリシーズよ。あなたは追いつきそうだったけど、ゴール手前で五番の天馬騎手にぶつかられたの。それでその騎手が落ちそうになったから、あなたは彼を身を挺して助けて──その反動で、あなたが落馬したのよ」


 ロアは愕然として息を飲んだ。ゆるゆると体中の力が抜けていく。


「私、負けちゃったんだ……」


「そして、落馬したお前を兄上が助けた」


 腕組みをしたコンラッドが複雑な表情で呟いた。ロアがコンラッドを見て、片耳を擦った。


「え? ごめん、耳鳴りがひどくてよく聞こえない」


「だから、命綱が切れて落ちたお前を兄上が身を挺して助けたんだ」


 ロアは目を見開いた。


「ユリシーズが? どうして?」


「どうしてって、自国開催の大舞踏会の締めくくりで死者など出したくはないだろう」


 自分でもその理由に納得し切ってはいないのか、コンラッドはふてくされたような声で答えた。だがロアの方はその単純な理由にあっさりと納得して、ふうっと息を吐いた。


「そっか、そうだよね。ユリシーズと五番の騎手は、大丈夫だったの?」


「ああ。どちらも大した怪我じゃない」


 ユリシーズの肋骨は折れているという医師の見立てだったが、それは極秘事項だった。怪我人に心配を掛けたくもなかったので、コンラッドは説明しなかった。ロアはほっとして、痛みのない方の片腕をのろのろと目元に乗せた。


「そっか。よかった。……でも、あー、ごめん、ごめんね、クローディア。謝ってもどうにもならないけど、ごめんなさい……」


「いいのよ。元々こうなるのは分かっていたわ。あなたが負けたって何も変わらない」


 次第に涙声になっていくロアの謝罪に、クローディアはどうでもいいことのように言った。実際この賭けは賭けの体を為していない。ロアだけが真剣になり熱くなっているだけの茶番だ。


「コンラッドも。ごめん」


「私は賭けには関わっていない。どの国で暮らしたとしても、クローディアがいればそこが天国だ」


 歯の浮くような台詞に照れたのか熱が上がったのか、ロアは少し赤くなった。突き放すような言い方だったが、それがコンラッドなりの慰めであることがクローディアには分かっていた。


 相変わらず不器用な人だと、自分を棚上げして思わずくすりと笑う。そして怪我以外で一番気になっていたことをクローディアは尋ねた。


「ねえ、本当に馬に乗るのを止めるなんて言わないわよね?」




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