夜を駆ける
夜になると外はぐっと気温が下がって少し肌寒かった。ロアは乗馬服の襟を整えながら、松明の灯りの下で今日騎乗する天馬の鞍のベルトを締める。ウィットバーン城の馬丁モーリスの、ベルトの穴一つ分の緩みが命取りになるという言葉を思い出す。
「えーっと、火球は……ここか」
ロアは丸い形のランプを手にして、鞍の後ろの金具とカチャリと繋げた。火球と呼ばれる、逆さになっても消えない特殊な油と芯を使用したランプだ。ナイトレースではゼッケンが見えにくいため、この火球を左右に一つずつ装着して各々の番号を照らす。
全ての準備を自分一人の手で行って更に二度の点検も終えると、ロアはふうっと息を吐いて天馬の顎に手を伸ばした。
待ち針草のオイルの一件で出鼻はくじかれたものの、この数日でずいぶん天馬に乗るコツを覚えることができた。だからきっと大丈夫、と自分に言い聞かせる。
「いい子だね」
どれだけ緊張していても、馬の温かな体に触れると元気が湧いてくる。
舞踏会でのユリシーズの、打って変わったように柔らかく遠慮がちな態度が気になってはいたが、今はそんなことを考えても仕方ない。
クローディアとコンラッド、二人の人生が自分の肩に掛かっていると言っても過言ではないのだ。少なくとも、ロアはそう信じて気負っていた。
「ジャンメール様、出走の手続きはお済みですか」
黒目黒髪の天馬騎手に声を掛けられて、ロアは視線を馬から騎手に移した。
「手続きがあるの?」
「ええ。まだでしたら、あちらの書類にサインをお願いします」
騎手はにこやかに厩舎の向こう側を指差した。
「そうなんだ。ありがとう」
騎手に頷いて、天馬をもう一度撫でてからロアは厩舎を出た。夜空を駆ける天馬の姿を少しでも明るく照らし出せるよう、城の壁には無数の松明が並んでいる。
王城のバルコニーというバルコニー、窓という窓には天馬レースの開始を今か今かと待っている客がひしめいている。城壁の上の塔、王城で一番高いところにも豪華なバルコニーがある。王族のための観客席だ。国王と数人の王妃、それにコンラッドやマーヴィン達が長椅子に座っている。
城壁の上には警備の騎士達が昨日までの倍以上の数がいたし、使用人の棟からも働きながらも時折ちらちらとこちらを覗いている人影が見える。
マヌエラ達の部屋はこちら側に窓がないから、きっとどこか別の場所から見守ってくれていることだろう。大舞踏会の最終日の天馬レースが一大行事であることを、数多の視線からロアはひしひしと感じた。
少し歩いたところに小さな白い長方形のテーブルに書類があり、受付らしい男性が座っていた。
「ジャンメール騎手。あなたで最後ですよ」
ロアの顔を見るなり、ずっと待っていたらしい受付の男性はとんとんと書類の記名欄を指先で叩いた。
「すみません」
天馬の羽根で作られたらしい羽根ペンを取り、用紙へ名前を書き付けた。緊張と、ランプはあるものの薄暗いせいもあって上手く書けなかった。
王子と言えども手続きの例外ではないらしく、そこにはユリシーズの名もある。王子だけあって番号は一番、ロアは最後の九番だった。
「では搭乗してスタート位置へ並んで下さい」
ずっと速かった鼓動が、更にドキドキと高鳴る。ベルンシュタイン帝国でのレース前の緊張とは全く質の違うものだった。普段のレースで負けても失うものはないが、今回は負けて失うものが大きすぎる。
それに搭乗という観点からは、天馬と馬とは全く別の生き物のようだ。手足は冷たく強ばっているし、喉に石が詰まったような感じで息が上手く吸えない。
初めての体の変化に不安になり、ロアは黒いタイの下に手を滑り込ませた。ワイシャツの下に隠すように掛けているロードナイトのネックレスに触れると、天国の母から少しだけ勇気をもらえるような気がした。
厩舎に入ると、ロアは騎乗する天馬の顔をそっと抱きしめた。
「……頑張るよ。頑張ろうね」
手綱を引いて厩舎から出ると、既に空には八つの火球の光が見えた。スタートを待つ天馬達が羽ばたいている。ロアも鐙に足を掛けてひらりと鞍に座る。鐙と乗馬靴の金具をセットし、太腿や腰、命綱のベルトなどをしっかりと丁寧に留める。
いつもより動きの鈍い手で手綱を握り、天馬の脇腹を擦るように足を動かす。天馬が翼をはためかせてふわりと宙に浮き上がり、夜風が髪をなぶる。
上空で八人の騎手達は親しげに談笑していたが、ロアが上がってくるとほとんど全員が笑顔を消して会話を止めた。シェーガーに乗ったユリシーズがゴーグルを上げた。
「やあ、ロア・ジャンメール騎手。天馬の乗り心地はどうだい?」
天馬騎手達はにやにやと笑ってロアを見ている。
「いいよ。これ以上ないくらいに」
「それは良かった。よく味わって帰ってくれ、もう二度と乗る機会はないだろうからね」
何が面白いのかロアには理解できなかったが、騎手達は笑った。この軽口は王子のユリシーズだなとロアは思った。
ウィットバーン城で会った時や今日の舞踏会の時とは違う、第一王子の顔だ。今だってロアを揶揄するこの会話を聞かせることで、騎手達の心をまとめて鼓舞したかったのだろう。
ユリシーズが使い分けている幾つもの顔が、察しの悪いロアにも少しずつ見えてきた。今の言葉には恐らく、負ければ馬には二度と乗らないという賭けのことを匂わせて圧を掛ける意味もあるに違いない。
「王子様こそ、油断して落っこちないでね」
無礼な物言いに騎手達の顔色が変わる。ロアは万全を期すために大嫌いなゴーグルを掛けて、きゅっと唇を引き結んだ。
スタートとゴールの位置には、それぞれ分かりやすいよう白いロープが張られている。城壁から王城に渡るこの二本の長いロープが、スタートラインとゴールテープの代わりなのだ。
大きな満月の下、王族のいるバルコニーの一階下にいる旗振り役がゆったりと大きく旗を振っている。ロアが八番の馬の隣に並ぶと、旗振り役が旗を止めた。
「旗が止まったわ!」
使用人の棟の廊下の窓の前で、ジャンメール家の顔にそばかすのある侍女が叫んだ。レースの全域は見えない位置だが、贅沢は言えない。ロアの賭けについて話そうと思えば、他に人がいる場所では観戦できないからだ。
「いよいよね」
マヌエラが左手の手首を右手で強く握り締める。丸顔の侍女が胸の十字架をぎゅっと握り、一番年嵩の侍女は目を閉じてぶつぶつとピロタージュ教の祈りの文言を唱える。
「ロア様、どうか勝って下さい……!」
そばかすのある侍女は手の指を組み合わせ、肩を震わせながら満月に祈った。
「君も出れば面白かったんじゃないのか、コンラッド」
国王の面前でお前とは呼べずに、マーヴィンはコンラッドに言った。コンラッドは咲茶の入ったカップをテーブルに置いて従兄弟を見た。
「ご冗談を。私は天馬乗りではありません」
「空を駆けるというのは爽快だぞ。遮るもののない空をどこまでも進むあの興奮──国境だって越えられそうだ」
マーヴィンの当てこすりで、コンラッドは自分が帝国へ渡るという話をマーヴィンが知っていることに気づいた。父である国王の顔を見たが、国王はコンラッドを見なかった。
コンラッドは奥歯を噛み締めた。父は婚約者をここに同席させろと言っていたのだから、本来ならばここには花嫁となるクローディアがいるはずだった。
彼女は今どんな思いでレースを見守っているのだろう。そしてレースが終わった時、彼女はどんな決断をするのか。コンラッドは使用人の棟を見遣り、それから星空を見上げた。
「……」
クローディアは裏庭にいた。剪定道具を手にして働いている風を装って天馬レースを眺める庭師や、働いている風を装うべくもない異国の使用人達の後ろから、そっと夜空を見上げている。
ここからではどの天馬にロアが乗っているのかよく見えなかったが、前方から聞こえてきた会話で一番右端がロアだと分かった。
トクントクンと心臓が跳ねている。体は正直だ。賭けの結果はクローディアには分かっていた。初心者レースに出られるだけでも奇跡なのに、勝てるはずがない。
だが結果はどうでも、今夜何かが変わるのかも知れないとクローディアは漠然と思った。そして何かが変わることを自分が望んでいることを、クローディアはようやく認めた。
「さあ、いよいよ今世紀最高の夜の天馬レースの始まりです! まずは天馬レースをまだ見たことがない方のために簡単に説明いたします。まずは天馬レースの歴史を紐解いていきましょうか。ソイニンヴァーラ王国より我が国に天馬が渡ったのは──」
マーヴィンが胴間声で慣れない口上を述べている。初めて彼のそんな姿を見るクローディアは少しだけ怪訝な顔をした。
自分がウィンフィールドを離れている間に、国王に近い位置まで力をつけていたらしい。マーヴィンの声は大きかったが、あまりにも口上が長すぎた。
「長ぇな」
「ったく、長話を聞きたくて外に出たんじゃねえんだよ」
「早くしてくれえ、足が棒になっちまう」
レースを待ち望む使用人達が、口々にとても本人には聞かせられないような言葉を発する。やがて痺れを切らした国王がマーヴィンを止めた。
「今宵は満月、天馬が月明かりによく映える。我がウィンフィールド王城に白く光る螺旋が立ち昇るさまを、今宵は共に見届けようではないか」
国王が短く自身の言葉を述べると、それを合図に実況役の兵士が叫ぶ。
「それでは、スタートです!」
城壁の兵士と王城の兵士が、同じタイミングで手斧を振るう。スタートラインとゲートを兼ねた白いロープが切り落とされて、暗闇の中に音もなく落ちていく。それと同時に一斉に天馬達が白い翼をはためかせる。
「ユリシーズ王子、頑張って!」
花嫁候補の一人が目を輝かせて歓声を上げる。
「落馬だけはしないようにお願いしますよ」
ユリシーズの乳母だったグレンダが夜空に目を凝らして呟く。
「……」
レースを見守る妻の肩を、ダンヒル子爵がそっと抱き寄せた。





