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愚者とエゴイストの輪舞曲  作者: ハロー
第四章 風走る
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遠雷


 文を一つ便箋に書き付けて、それをくしゃくしゃに丸めてくず籠へ放り投げる。がりがりと頭を掻きむしって癖毛を乱し、文鎮を移動させてまた苦労しながらみみずの這ったような文字を新しい便箋に綴る。


 少し書き進めてまた手を止め、便箋を握って丸めるとまたくず籠へ落とした。だがくず籠は既にいっぱいで、あふれた元便箋の紙くずは床に跳ねて転がった。


 大きくため息をつき、椅子の背もたれに上半身の体重を全てもたせかけてクレメンテは天井を仰いだ。


「……はあ」


 しばらくそうしてから勢いをつけて姿勢を戻すと、クレメンテは机の上に置かれていた開封済みの封筒を手に取った。そこに書かれた文章を改めて目で追う。


「分かってるさ。自分のしたことの責任は、いつか取らなくちゃならない。……何の罪もないあの子にだけ苦労を背負わせるのは、卑怯というものだ」


 苦虫を噛み潰したような顔で呟いて、クレメンテは再び手紙を書く作業に戻った。普段は饒舌なのだが、今は何と言葉を並べればいいのかまるで分からなかった。手が止まってしまい、今日何度目かのため息をついて椅子の背もたれに体重を預けると椅子がきしんだ。


 ふと鳥籠の中の色鮮やかなオウムが鳴いた。


『キュルル、ピチュピピ……ウタッテ? ホラ、ドーシタノ、ウタッテゴラン?』


 人の言葉を真似る賢い鳥だ。クレメンテは少し笑って立ち上がり、鳥籠の隙間から人差し指を差し入れた。


「今はとても歌を歌う気分じゃないんだよ。代わりにお前が歌ってくれ」


『アリガトー。ピキュルル、スバラシイウタゴエダッタヨ、アリガトー』


 会話は通じず、オウムはがじがじとクレメンテの人差し指を嚙んだ。嚙む力が強いので本気で嚙まれたらひとたまりもないが、これは甘噛みだ。更に人差し指を奥へ差し入れて、オウムの首のあたりを優しく掻いてやった。その時、足音が近づいてきたことにクレメンテは気づいた。ノックの音が部屋に響く。


「……陛下がお呼びなんだね、分かったよ。すぐに行くとも」


 使用人が要件を告げるのを先回りして、クレメンテはうんざりした口調で言った。

 ベルンシュタイン皇帝がゴリッツ子爵の城に兵を派遣していることは、既に知っていた。ゴリッツ子爵の城にはヨゼフィーネの母がいる。彼女をウィンフィールドに行かせたことと関係があるのだろう。


 首元のリボンを結び直して整えながら、クレメンテは静かに手紙を見下ろした。差出人はアダム・ダンヒル子爵、ウィンフィールド王国に住むクレメンテの古い恩人だ。ダンヒル子爵夫妻は息子の顔を見たこともないクレメンテと、その息子を繋ぐ細い糸のような存在だった。


 クレメンテは扉を開けた。少し黴臭い、薄暗い石造りの廊下を歩きながら気を引き締める。どれだけ長い付き合いになろうと、ベルンシュタイン皇帝に会う際に警戒心は緩めてはならない。


 やがて響いていた靴音を止めて、クレメンテは大きく息を吸った。磨かれた樫の扉の、ところどころに青銅の装飾が施されている。死者の魂が天国へ行くのか地獄へ行くのかを決める役割を担う番人が、永遠に閉じられることのない目でクレメンテを見下ろしていた。恐ろしい顔をした虎の意匠のノッカーを鳴らす。


「クレメンテ・パッツィーニでございます」


 中から物音はしなかったが皇帝が許可したのだろう、重い扉がゆっくりと左右に開かれる。暗い廊下へ謁見の間の光が差し込んで、クレメンテは眩しげに少しだけ目を細めた。


 既に何十人もの城仕えの者や使用人達が居並んでいる。おや、とクレメンテは小さく眉を上げた。これだけの人数がわざわざ集められているということは、何らかの異変が起きたのだろうか。だが高位の貴族でも城仕えでない者はいないようだった。


 おまけに普段なら謁見の間に足を踏み入れることなどないであろう馬丁頭や庭師頭も、脱いだ帽子を胸元に当ててひどく緊張した面持ちで立っている。


 国の一大事という訳ではなく、城内の一大事なのかもしれない。壇上の皇帝に、使用人が何か耳打ちした。


「パッツィーニ。お前が最後の一人だったか」


 皇帝がクレメンテを見下ろして言った。


「支度に手間取り恐れ多くも皇帝陛下をお待たせしてしまい、大変申し訳ございません。そして日を置かずご尊顔を拝します光栄に、深く感謝いたします」


「城で働く者が全員揃ったのならば、その耳を傾けてよく聞け」


 クレメンテの言葉は無視して、ベルンシュタイン皇帝陛下は玉座から集まった全員を見渡した。普段はピンの先のように狭まっている皇帝の瞳孔が、ほんの僅かだけ広がっていることに気づいているのは隣にいる小柄な道化だけだ。


「来月いよいよこの城にソイニンヴァーラ王国のティニヤ王女が来る」


 なるほど、それは皇帝陛下の一大事だとクレメンテは心の中で呟いた。


 ベルンシュタイン皇帝がペースを乱される唯一の存在がティニヤ王女であることは、皇帝と付き合いの長い者ならよく知っている。自分と同じように足が不自由なティニヤ王女に、皇帝は長く歪んだ恋心を抱き執着しているのだ。


 恐らくは足のことだけが理由ではない。皇帝と対等かそれ以上に渡り合えるティニヤ王女は、彼にとって母のような姉のような、たった一人の一方的な友人のような存在でもあった。


「我が国にとって最も重要な客人だ。何としても最高の皇城を整えて王女を迎える。各々精一杯心を尽くして準備せよ」


 珍しく力の籠もった口調で一人一人を見据えながら、皇帝が言った。ティニヤ王女の影響で、クレメンテの目には今日の皇帝はほんの少しだけ人間らしく見えた。


「靴磨きは真心込めて靴を磨け、皿洗いは真心込めて皿を洗え、有閑階級は真心込めて髭を磨け!」


 幼児ほどの背丈の道化が、ぴょんと弾みながら集まった人々に人差し指を向けた。その指を端から端まで一気に滑らせて、大きく胸を反らす。道化が後ろへひっくり返ると笑いが起きて、皇帝は横目で道化を睨んだ。


「万一王女に対して非礼があらば七日七晩の責め苦の後で首を斬る」


 笑い声がぴたりと消えて、沈黙が場を支配する。

 クレメンテは、今日の皇帝には人間味があると思った先ほどの自分の考えを取り消した。やはりベルンシュタイン皇帝には一瞬たりとも気を許してはいけない。


「月曜日ー、煮えた油を飲ませようー。火曜日、二十の爪をすべて剥がそうー。水曜日、臍に灰かき棒を刺し込もうー。木曜日、さて今日は何をしようかな……あらあら残念、死んじゃってるー!」


 手の指を組み合わせてうっとりと責め苦の種類をあれこれ考える演技もしながら、道化が叫んだ。今度は誰も笑わなかった。皇帝のこれまでの所行を振り返れば、それは冗談には聞こえなかったからだ。皇帝は道化に軽蔑の視線を送る。


「ヒヒヒ、お気に召しませんでしたかなー? であれば我が輩も甘んじて責め苦の罰を受けましょうぞー!」


 道化は皇帝の正面に回ると、膝をついて祈りのポーズを取った。これには皆が笑う。


「調子に乗り過ぎだ……」


 皇帝の瞳孔が少しだけ狭まり、いつもの大きさになった。道化は自分が一線を越え掛けていることに気づいて、ぴょんと飛び退いて皇帝の横へ戻った。


「このような機会のある時は誰より先にパッツィーニに声を掛けろ。道化を御すならばあれが適任だ」


 遅れたせいで壇上に上がれなかったパッツィーニを恨みがましい顔で見つつ、呆れた声で皇帝は使用人に声を掛けた。短気で高慢な皇帝がしばしば礼を欠く道化を傍に置いているのも、ティニヤ王女の進言だった。


「頭を胴と繋げていたい者は今日よりなお一層仕事に励め」


 言い終えるなり、皇帝はパンと肘掛けを叩いた。話の終わりを示す合図だ。使用人が謁見の間の扉を開き、集まった人々に退出を促した。最後列にいたクレメンテは、笑顔で身分の高い貴族達を先に見送った。




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