黒薔薇の王子
王城に着いたロアが探し回ると、ユリシーズは中庭にいた。庭木で日陰になる涼しげな白いガーデンテーブルで、数人の花嫁候補と午後の咲茶の続きを楽しんでいるところだったらしい。馬具を抱えたロアは着飾った娘達の視線に少し怯んだが、言うべきことは言わなくてはと背筋を伸ばしてテーブルにずんずんと近づく。
「これ、返すから」
ロアは空いていた椅子の一つに馬具をごとんと置いた。
「キャッ!」
娘達の数人がびくりと肩を揺らして軽く身を引き、また数人は怪物でも見るような目でロアを見上げた。ロアが複雑な表情で見下ろすと、ユリシーズは軽く眉間に皺を寄せた。
「やあ、とんだご挨拶だね。馬具を返してくるってことは、天馬レースに出るのは諦めたってことでいいのかな」
「とぼけないで。私の馬具に、天馬の嫌うマチバリ草のオイルをかけたでしょう」
ロアは腕組みをしてユリシーズを見下ろした。相手の不正に怒りはしているが、迫力に欠けるのはあの肖像画を見たせいだ。ユリシーズはすっと鼻から息を吸い、確かにこの距離でも馬具から待ち針草の香気がほんのりと漂っているのを確認した。そして周囲の娘達に哀れっぽく両手を広げて見せた。
「やれやれ。何の話かまるで分からないけど、帝国の女性騎手様はひどくご立腹のようだぞ」
冗談交じりに言ってユリシーズは白いカップに入った咲茶を飲み干すと、その咲茶を淹れてくれたらしい娘ににこりと微笑みかけた。すると娘は恥じらいながらもまさに花が咲いたような笑顔になり、ロアはそんなやり取りに腕が痒くなりぽりぽりと乗馬服の上から掻いた。ユリシーズが立ち上がると、明るい栗色の髪の娘が不満を口にした。
「まあ、その子とどこかへ行ってしまうおつもりですの?」
「ごめん、すぐに戻るよ。楽しい話じゃなさそうだしね」
ユリシーズは栗色の髪の娘に向かってさも残念そうに眉を下げると、踵を返してロアを手で招いた。後について歩き出すとユリシーズはちらりと振り返ってロアを見たが、その表情は冷ややかで先ほどまでの甘さはどこにもなかった。
「きみは馬具に待ち針草のオイルを掛けたのが、僕だって言うんだね?」
「だって、そんなことをするのはあなたか、あなたの味方しかいないでしょう」
「さあ、それはどうかな。証拠はあるのかい」
「それは……ないけど」
ロアは少しだけ肩を落とした。
「だったらモーリスに伝えておいてくれ、何が起きても盤外戦だってね。曲がりなりにも元騎士なら、力と数でぶつかり合うことだけが戦だとはよもや思うまい」
語気鋭く言ったユリシーズに、ロアは目を丸くする。
「どうして私がモーリスに会ったって知ってるの?」
「ああ、そうだった。きみはそこから説明しなくちゃいけない子だったね」
軽く天を仰いでロアを小馬鹿にすると、ユリシーズは歩く速度を緩めた。そして薔薇のアーチを幾つも密に並べて作られた薔薇のトンネルの中を覗いた。そこに誰もいないことを確認すると、ユリシーズは先にトンネルの中へ入っていった。
「ここなら人目を避けられる。おいで」
「嫌だよ」
まさか断られるとは思っていなかったユリシーズは、呆気に取られたような顔でロアを振り返った。ついこの間もこんなことがあったなとぼんやり考えている間に、ロアが呻くように続けた。
「そんなところに連れ込んで、何か悪いことをする気でしょう」
ユリシーズはおやと眉を上げた。
「へええ、きみがそういう女性らしい危機感を持てたとは驚きだな。ちなみにどんなことをされると思ってるんだい?」
ロアに未婚の娘らしい用心ができると思っていなかったユリシーズは、鼻で笑ってニヤニヤとからかうように尋ねた。
「……たとえば、薔薇のトゲで私を刺すとか」
上目遣いで睨みながら斜め上の発想を口にしたロアを、一拍置いてユリシーズは大きな声で笑った。
「ハッハッハ! きみの発想は予想外過ぎるなあ。僕に窓から落とされ掛けたから、そういう方向で身の心配をしたんだね。なるほどなるほど」
ユリシーズは口を手で覆って、ロアの思考を分析しながらなおも笑っている。笑われた意味が分からないロアは、仏頂面でユリシーズを更に睨む。
「何がおかしいの!」
「いやいや、異文化交流が楽しくてね。心配は要らないよ、きみの体を物理的に傷つけるようなことはしない。約束する」
ユリシーズはトンネルの薔薇の棘にそっと触れながら、含みを持たせつつもロアの懸念を否定した。口端には笑みを浮かべているもののその目つきはどこか暗く、気を許せるような雰囲気ではなかった。
だが薔薇の外で話を続ける気がユリシーズにないようなので、ロアは仕方なくトンネルへ足を踏み入れた。日陰に入っていつもと違う色味になったロアの緑の瞳を、ユリシーズは満足そうに眺める。
「それで、僕が馬具に細工をしてたとして。僕らの賭けに、細工が不正だって訴えられるような明確なルールがある訳じゃないだろう?」
腕組みをしたユリシーズは棘が服に引っかかるのも構わずに、軽く薔薇に背をもたせかけてからかうような目でロアを見た。
「それはそうだけど。ああいうのは、卑怯だよ」
「きみに卑怯と言われると、褒められてるような気がするなあ」
とことんロアを小馬鹿にして、ユリシーズはくすくすと笑った。
「こんなことしなくたって、あなたが圧倒的に有利なのに。良心が痛まないの?」
「陰謀詭計渦巻く王城育ちなものでね、あいにくそういった害にしかならないものは持ち合わせていないんだ」
ユリシーズは靴先を見下ろして、何気ない口調で答えた。良心はないと言い切るその言葉で、何故かロアの脳裏にウィットバーン城でのダンヒル子爵との会話が蘇った。埃はないのにどことなく埃の匂いのするあの部屋の、目の前の王子によく似た少年の眼差しを思い出す。
「あなたは──あなたは、王族じゃ、ないんでしょう?」
ロア本人としては慎重に問うたつもりだったが、問われたユリシーズからするとこの上なく直球で唐突な質問だった。ユリシーズは弾かれたようにロアを見て、それから注意深く言葉を選びながら問い返した。
「……おや。きみも、僕が父の本当の息子じゃないっていう噂を信じてる口か」
どう答えればいいのか分からず、ひとまずロアは困り顔で事実を述べた。
「ダンヒル子爵の、コレクションを見せてもらったんだ」
ほんの一瞬、ユリシーズの瞳孔が少しだけ窄まった。今でも鮮やかに思い出せるあの雨の日の、毛足の短い古い絨毯を踏む足の感触、キャンバスの上に厚く塗りつけられた絵の具の小さな影。見上げた肖像画はまるで鏡のようだった。
ユリシーズは足元を見下ろした。
「あなたのお父さんのことも、」
「その話はここですべき話じゃない。命が惜しいならね」
ロアの言葉を遮り、冷たく突き放すような声でユリシーズは言った。
「それにしても、ダンヒル子爵も勝手なことをしてくれる」
吐き捨てるようにユリシーズはかすれ声で呟いた。
「……勝手なことを。人の人生を、何だと思っているんだ。俺が今までどんな思いで──」
もう一度同じ言葉を叫び、ユリシーズは俯いて髪をぐしゃぐしゃに掻き乱した。当惑したロアは何も言えずにその姿をただ見守る。少しの間を置いて、ユリシーズは後頭部に当てていた手を下ろした。それを見て会話を再開しても良いものと判断し、ロアは口を開いた。
「そのことが、あなたが王位を継ぎたくない理由だったんだね?」
問わずとも分かりそうなものだったが、重要なことだけにロアは確証が欲しかった。ずっとひた隠しにすることで守ってきたユリシーズの心の領域を、同情と好奇心で蹂躙し掛けていることには気づかない。
更に追い打ちを掛けてくるロアの言葉に、ユリシーズはゆっくりと顔を上げた。乱れた髪の隙間から覗く琥珀色の瞳は陰惨で、視線で人が殺せるならばそうできそうなほどだった。ロアは思わず息を飲み、たじろいだ。





