玉座の毒
真夏でもウィンフィールド王城はさほど暑くならない。王城が高台にあり、窓を開けていれば海から吹く風が通り抜けるからだ。だが王城の一室に立っている少年の頬は赤く、汗と涙でちゃぐちゃになっていた。少年の髪の赤毛と暗褐色の混じったような色味は、ウィンフィールドではあまり見かけないものだった。
『その真実を知っても二ヶ月もの間、僕はあなたを欺き続けてきました』
石造りの部屋に、少年の震える声が響く。真昼を少し過ぎて、空は目が痛いほど眩しく晴れている。窓からは微かに天馬騎士団の訓練の声が聞こえてくる。
『どんな罰でも受けます。母上もろとも、首を刎ねられても仕方のない裏切りです』
罪の告白に、少年の目からはらはらと涙が零れ落ちた。恋に狂って全てを捨てるような行為に走った母が、憎くて憎くて仕方なかった。だが天蓋付きの大きなベッドに腰掛けて話を聞いていた父は、表情を変えない。
『……父上?』
今やもう自分が父と呼ぶ資格はないのだからと、この場で呼ぶつもりのなかった呼称で思わず呼びかける。父は小さくため息をついた。
『大事な話があると言うから、何の話かと思えば……』
父は小さくため息をつき、少年に向かって顔をしかめて僅かに首を振った。
『下らぬ。些末なことだ』
『……些末? 些末と仰ったのですか?』
少年は目を見開いた。
『そうだ』
母と我が身の真実を知ってから、少年は真実を告げた父にどんな反応をされるか何度も何度も思い描いてきた。怒り狂った父にその場で斬り捨てられるかもしれない。冷たい侮蔑の目で罵られ、一生どこかの塔に幽閉されるかもしれない。国外へ追放されるかもしれない。
そして可能性はごく低いが、もしかしたら。万に一つもない確率かもしれないが、お前の罪ではないと抱き締めてくれるかもしれない。だがどの予想ともかけ離れた父の反応に、少年は驚愕し耳を疑った。
『母上の──母の不義を、知っていたのですか?』
父はうるさい蝿を手で追うような仕草をした。
『知るも知らぬも、そんなことは小事だと言っておる。あれの価値はそんなところにはない』
少年は愕然とした。
『……ぼ、僕は、あなたを裏切った母を許せません。だからこうして、真実を』
『許せないからどうだと言うのだ。あれの首を刎ねろとでも?』
父が母を愛しているのはよく知っている。少年の唇が震えた。
『いえ。ですが、僕は──不義の証であるこの穢れた身で、これ以上あなたの子として生きていくことはできません。民に対してもあまりに不誠実です』
自分が父の本当の子ではないと知っても打ち明けられずにいたこの二ヶ月間で、少年はすっかり痩せてしまっていた。夜も眠れず目の下にはひどい隈がある。それだけ少年にとって母の罪は重く、恐ろしいものだった。だが父は母が密通の末にその男の子を孕み、その子を表向きには父の子と偽ってきたことを些末なことと切り捨てたのだ。
『それでも二ヶ月、王子として生活していたのだろう。その二ヶ月を何度も繰り返して行けば一生続けられる。問題はない』
軽い言葉に、少年は絶望して硬直した。それからゆるゆると首を振る。母を責め自分を責め、何も知らない人々の笑顔やふとした言葉にも怯え苦しんだ日々を、今後も繰り返すことなど到底不可能だった。母と自分の罪を裁かれることなくこのままの生活を続けさせられるくらいなら、この場で斬り捨てられてしまいたかった。
『これまではどんな誹りを受けても、ただの噂と思って流してきました。ですが、噂ではなかったのです。影で僕を嘲笑っていた彼らが正しかった。この髪も肌の色も……国を持たない哀れなギリヤの民のものです』
忌々しい色の髪をぎゅっと握り、首を横に振りながら少年は声を震わせた。これまでは自分の出生について噂話をする人間を、浅ましい愚か者と見下してきた。だが彼らが語っていたことが真実だったと分かってから、この上ない悲しみと屈辱、父に捨てられる恐怖、そして母への怒りで少年の心はいっぱいだった。
母とは既に二度話をしている。だがどちらの時も結局、「こんなことはよくあること」「今更ことを荒立てる必要はない」「そもそも元夫と無理やり別れさせられた私の方が被害者」という母の考えは変わらなかった。
『正しいと知っているのは当事者だけだ。外の者にとっては今もただの噂に過ぎぬわ。これまで通り第一王子としての務めを果たせ』
『僕は噂ではないと知っています。無理です』
『無理ではない。やるのだ』
少年の目にまた涙が盛り上がり、健康的に日焼けしたような色の頬を滑っていく。外から一際大きな掛け声が聞こえて、天馬騎士達が剣や槍を打ち合う音が聞こえ始めた。普段なら勇気づけてくれるような音だが、今日は心に何の変化も呼び起こしてはくれなかった。
『できません』
『甘えるな、やらねばならぬのだ』
『お許し下さい。僕にはとても無理です』
少年は顔をくしゃくしゃにして、手で涙を拭った。
『お前に選択肢などあると思うな』
しわがれた厳しい声で叱責され、少年は身をすくめた。少しの間の後で、父は遠くを見るような目をした。
『──玉座に座れるのは、毒酒の杯をあおった者だけだ』
父は己の皺の刻まれた両手を見下ろした。色取り取りの大きな宝石の付いた指輪が幾つも光っている。
『その毒は命を奪いはせぬ。ただひととき眼を溶かし耳を腐らせ、舌と心を千々に引き裂くだろう。そしてその後はもはやどのような毒も効かぬ身となり、心は永遠の凪となる。王となる者は、それを知った上でその杯を飲み干さなくてはならぬ』
父は澱んだ目で少年を見た。
『飲み干すのだ、ユリシーズ。一滴残らずな』
少年は言葉の意味が理解できなかった。父の血が流れていないと打ち明けたのに、王位を継げと言われている。それは狂気としか思えない合った。
自分のよく知る二人の王、祖父と父の生い立ちを少年は思い出す。先代の国王である祖父は、戦好きだった曾祖父が遠征先で戦死したため弱冠十六歳で王位を継承していた。曾祖父は流れ矢に当たって死んだことになっているが、実際には味方に撃たれたという噂もあり、祖父は他人を疑い続けた人生を送った。王妃を始め宮女達にも心を許さず、子どもはたった四人しか残さなかった。その内の一人、かつての第二王子が現在のウィンフィールド国王だ。
現在の国王である少年の父、当時の第二王子は生まれつき体が弱く、異常なまでに周囲に大切にされて育った。そのためか子どもの頃は落ちる枯れ葉の影にも脅えて泣くほどだったと言う。
父には腹違いの兄と年の離れた弟がおり、体の弱さから父が王位に就くことは無理だと周囲に見なされていたこともあって、父はどちらの王子とも親しかった。だが父の兄、当時の第一王子は王位を継ぐ少し前にまだ幼い息子とともに死んだ。表向きは二人とも流行り病で死んだことになっているが、実際は父の母が我が子に王位を継がせるために第一王子に毒を盛ったのだ。
第二王子の母の謀略を悟った第三王子の母は、夫である国王に懇願し第三王子とともに王都を離れ旧都の離宮に移ろうとした。だがその旅の途中で馬車ごと崖から落ちて死んでしまった。第三王子は母に固く抱き締められていたおかげで命は助かったが、大怪我を負い右手はほとんど動かなくなってしまい、顔にも痕が残り仮面が手放せない。表向きには雨で車輪が滑ったというのが事故の原因とされたが、当時その山道には雨はほとんど降っていなかったという。
自分が王になることなど思い描いたこともなかったらしいが、結局は謀略によって病弱な第二王子の父が玉座に座ることになった。それから数十年もの間、玉座の置き石と自虐的に己を評しながらも国王を務め続けている。
『父上も、その毒を飲んだのですか』
自分が王となることを不当な王位継承だと言うのなら、父が王となった経緯もある意味そう言えるのかもしれない。だが父は少年の問いには答えなかった。
『毒酒が人を王に変えるのだ。人のまま玉座に座れば気が狂うか、酒か女か、殺戮、それともまじないにでも溺れるか……いずれ必ず身を滅ぼす。我が祖霊にも、王になり切れずに死んでいった者は多い』
父は静かな目を壁の肖像画に向けて、独り言のように淡々と言葉を続ける。父の父、少年にとっては祖父に当たる先々代の国王の軍服姿の肖像画だ。少年はまるで部屋中に無数の祖先の霊が立ち並んでいるかのような気がして、夏だというのに寒気を感じた。
次に少年を見た父の目には、王位を継承せざるを得なかった運命への恨みと後悔のようなものが確かにあった。だが少年はきっぱりと父の目を見て言った。
『国父の血の流れない下賤の身で、王にはなれません』
少年の言葉を聞いても父は何も言わなかった。両脚をゆっくりとシーツへ滑り込ませ、横たわって最近痛む腰が伸びていくのに合わせて年寄りめいた呻き声を漏らした。そして廊下の方を見遣った。早くこの何の楽しみもない話を終わらせて宮女か使用人を呼び、痛む腰を擦らせたかった。
『お前がどうしても王位を継ぎたくないと言うなら、コンラッドがいる。変わり者で交渉も下手だが、まあ威厳だけはそのうち備わるだろう。弟に毒酒の杯を手渡す日まで、お前は王の子として務めを果たせ』
『──』
少年の中の父への敬意ががらがらと音を立てて崩れ落ちた。昔から実の母を愛せなかった少年にとって、父の存在は憧れであり長い間心の支えだった。だが自分も弟も、父にとっては王位を受け渡す器でしかない存在だったのだ。父を尊敬したまま、不義の子と罵られて斬り伏せられる方がまだ幸せだっただろう。死よりも悪い運命というものがあることに、少年は生まれて初めて気づいた。
父は痛む腰を持て余したようにゆっくりと寝返りを打ち、少年の表情を見るとせせら笑うように言った。
『それにしても、国父の血か』
少年は父に抗いたかった。口を開きかけたが、言うべき言葉を見つけられなかった。
脳裏にウィンフィールド歴代国王の人生が次々に浮かんでいく。キリヤコフ大公国を嫌うある王は友好を結ぶため渋々キリヤコフの公女と結婚したが、キリヤコフの血の流れる子に王位を継がせる気はなかった。その妻と夜を共にすることはほとんどなかったが、両者にとって不運なことにそれでも息子を授かってしまい、成長したその王子を狩りに連れ出して背後から弓で射貫いた。
またある王は関係の良くなかった小国の年若い姫を娶り、閨で妻に数々の祖国の思い出話をさせた。自分がウィンフィールドに嫁いだのだからこれで祖国は安泰とほっとしている妻を尻目に、その翌年に王は妻の祖国へ攻め入り妻の父も兄弟もその子も全て根絶やしにした。妻の祖国は森深い小国で集落ごとに自治権が強く、国全体の把握が難しかった。初めから攻め入ることは決まっており、地理的な情報を得るためにその国の姫である妻を娶ったのだった。
『ハッ。その血こそ穢れ、それこそが不義の証かもしれぬ』
同じように歴代国王の所業を思い返していたらしい父が笑った。
少年は気づかない振りをしているが、現国王である父もまた、愛する妃の元夫に濡れ衣を着せて処刑していた。ウィンフィールドの政変、血の四日間は、臆病な国王が自分の命を脅かされ恐怖し混乱した結果、あれだけの処刑人数に膨れ上がったと世間には思われている。もちろんそれも事実ではあったが、それだけではない。特に四日間のうち後半に処刑された者達の中には、無実の者もいた。その人選は国王によって冷静に、それでいて偏執を基にして行われていた。
かつて大きな落ち葉が落ちる影に驚き泣いた王子、山鳩の不気味な鳴き声を恐れて城中の巣を卵ごと取り去らせた王子は今や国王となり、災いの種を混乱に乗じて消す狡猾さを身に付けていたのだった。





