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愚者とエゴイストの輪舞曲  作者: ハロー
第三章 欠けてゆく月
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秘密の部屋


 廊下へ出るとちょうど使用人がやって来て、天馬馬車の用意ができたことをダンヒル子爵に知らせた。だが子爵は使用人に少し待つようにと告げて、更に西のコレクション部屋の鍵を持ってくるように命じた。

 子爵はそのままロアと廊下を歩いていく。突き当たりの部屋の前で子爵は足を止めた。


「私は知り合いの肖像画を飾るのが趣味なんだ」


 ロアは頷いた。


「廊下にも、何枚も絵がありましたね」


「ああ。人生で出会った人々の顔をずっと覚えておきたいと思っても、記憶はどんどん薄れてしまうものだろう? その点、絵画は変わらない。記憶をほぼ永遠に留めておける」


 使用人が子爵の元へ近づき、鍵を差し出した。子爵は鍵を受け取り、久しぶりに見るその意匠を懐かしく見下ろした。そして使用人を下がらせると、突き当たりの部屋の鍵穴へ鍵を差し込んで回した。カチリと音が響く。


「ここには私の古い友人知人達が沢山いるんだ。驚かないでくれたまえ」


 扉を開けた子爵は、優雅にロアに先に中へ入るよう促した。ロアは事情がまるで飲み込めないまま、西のコレクション部屋と呼ばれる部屋へと足を踏み入れた。


「わあ……」


 それほど広くない一室の、全ての壁一面に所狭しと大小様々な肖像画が飾られている。その全ての人々の視線が一斉に自分に注がれたようで、ロアは思わず身震いした。ところどころ色褪せたものもあるが、古くとも手入れは行き届いているらしく額縁には埃一つなかった。


「すごい数ですね」


 少しの間立ち尽くして肖像画を見回していたロアは、数歩前へ進んでから上擦った声で言って子爵を振り返った。


「そうだろう。自慢のコレクションでね。亡くなってしまった誰かにも、この部屋に来ればいつでも会える」


 子爵は少しだけ誇らしげに言って、ロアの横へ並んで肖像画を見渡した。なぜ子爵が唐突に自分をこの部屋に案内したのだろうと、ロアは不思議に思った。そしてこの部屋がユリシーズと何か関係があるのだろうかと推測した。


「ユリシーズも、この部屋にはよく来ていたのですか?」


 途端に子爵の表情が曇った。


「……一度だけね」


 子爵は視線をロアに移した。


「今から十年近く前のことだよ。私は一生あの子をこの部屋に入れるつもりはなかったんだ。だが人間というものは、入ることを禁じられるとかえって入ってみたくなってしまうものだ」


 悲しげに言って、子爵は一枚の肖像画を見上げた。窓際の一番上にある肖像画だ。そこには浅黒い肌のもじゃもじゃの髭の中年男性と、まだあどけない少年が描かれていた。ロアも子爵の視線の先を辿る。


「ユリシーズ?」


 少年の顔を見て、思わずロアは声に出して名を呟いた。


「──いいや、違う。その子はユリシーズじゃない」


 ロアは子爵を振り返った。


「え、でも」


「瓜二つだろう。だがよく見てごらん、目の色が違う」


 子爵は疲れたような声で寂しげに言った。長年抱え込んでいた秘密を他人に打ち明けたせいなのか、急に老け込んだようだった。ロアは言われるがままに壁に近づくと、肖像画をじっと見上げた。

 凜々しい眉も切れ上がった濃い眦もユリシーズによく似ていたが、確かに少年の目の色はユリシーズの琥珀色とは違っていた。それに肌の色も少年の方が濃かったし、表情もユリシーズより少し内気そうに見える。


「ほんとだ。この子は目が茶色ですね」


 ロアが迷いなく絵の中の少年をこの子と呼んだことで、子爵はユリシーズの母であるルイーズに改めて怒りを覚えた。

 少年は中年男性の座っている椅子の背に手を乗せている。中年男性の顔を見て、ロアは騎手仲間のドゥラカを思い出した。絵の中の中年男性もドゥラカと同じく、ギリヤの民独特の顔立ちをしていたからだ。


「隣の人は、ギリヤの民でしょうか」


 子爵はふうっとため息をついた。


「ああ。父親は純血の、その息子は半分ギリヤの民だ」


「この二人は、親子なんですか?」


「昔チェッリーニからウィンフィールドに渡ってきた、肖像画家とその息子だよ。一時は我が家のお抱えの肖像画家だったんだ」


 子爵は昔を懐かしむ目をして答えた。この年で自画像なんてと渋る肖像画家にこの絵を描かせるために、かなり時間を掛けて説得したことを思い出す。


「息子はともかく、この絵は描いた父親にとっては肖像画ではなく自画像になるからね。自画像を描いたことはなかったそうだから、描くのにずいぶん苦労していたよ」


 当時はまさかこの絵が、これほどまでに罪深い一枚になるとは思ってもいなかった。


「息子さんの方は、ユリシーズの親戚ですか?」


「…………」


 これだけ似ているのだから当然の質問だ、と子爵は思った。だがすぐに肯定はできなかった。喉に大きな石が詰まっているようだった。


「ダンヒル子爵?」


 俯いた子爵が心配になり、ロアはそっと近づいた。子爵は心配を振り払うかのように顔を上げた。


「その子の名前は、クレメンテ・パッツィーニ」


 長年窓は開けられていないのだろう、空気の淀んだ静かな部屋に子爵の声が響いた。


「ユリシーズの、本当の父親だ」


 子爵は悲しむような哀れむような眼差しをロアに向けた。


「──え?」


 ロアは目を瞬かせた。ユリシーズは王子なのだから、当然国王の息子のはずだ。


「だ、だって、ユリシーズは国王陛下の、」


 恐ろしい事実を耳にしたロアの声は震えていた。子爵はロアの真っ直ぐな緑の目から逃れるように、窓の外へ顔を向けた。


「……父親のパッツィーニは腕が良かった。我が家のお抱えだったのはほんのしばらくの間で、すぐに王宮に召し上げられたんだ。特にユリシーズの母であるルイーズ様は、パッツィーニが描くご自分の絵をいたくお気に召してね。その時々で話題になった絵のポーズなんかを真似させて、何枚もご自分を描かせていたよ」


 肖像画のおかげで、子爵はあの頃の画家親子の姿をありありと思い出すことができた。厩舎の脇で何やら揉めている馬丁の祖父と孫の姿が、当時のパッツィーニ親子の姿と重なる。


「でもパッツィーニは、ルイーズ様からのお誘いを上手くかわしていたんだ。今になって思うと、それがルイーズ様のプライドを傷つけたのかもしれない。パッツィーニの妻はウィンフィールドに来る前に亡くなっていたから、息子のクレメンテはいつも父と一緒にいたんだが……自分になびかないパッツィーニへの当てつけだったのか、ルイーズ様は、あろうことかクレメンテに誘いを掛けたんだ。幼いクレメンテは、ルイーズ様の誘いを断れずに──」


 流石に未婚で十代のロアの前では言いよどんで、子爵は気まずそうに顎髭に触れた。


「……ルイーズ様の妊娠を知ったクレメンテは、父親に全てを打ち明けて懺悔した」


「妊娠?」


 ロアは肖像画へ視線を移した。そこに描かれたクレメンテ少年は十は過ぎているが、まだ十五にはならないくらいの年に見える。


「ああ。それで親子は事が明らかになる前に、ウィンフィールドを出てベルンシュタインに渡ったんだ」


「ベルンシュタインに?」


 この部屋に入って初めて子爵は素直な笑顔を見せた。


「そうだよ、きみの国だね。……そしてその数ヶ月後に、ウィンフィールド王城でユリシーズが生まれた。待望の王子の誕生に国じゅうが沸く中で、王族にない肌の色や外見の特徴から陛下はご自分の子ではないのではと疑った。それでルイーズ様の周囲を洗うと、特徴からパッツィーニに行き当たったんだ」


 ロアはじっと子爵の言葉に耳を澄ませた。どうやらこの国の根幹を揺るがすような、とんでもない話を聞いているらしいと思うとぞくりとした。


「でも陛下もまさか、その息子のクレメンテがユリシーズの父親だとは思いもしなかったんだろう。当時のクレメンテは、まだほんの子どもだったからね」


 ルイーズ様も罪深いことをなさる、と子爵は目を伏せて呟いた。


「ユリシーズが生まれた頃、画家のパッツィーニは先代のベルンシュタイン皇帝陛下のお抱えになっていたんだ。国王陛下はパッツィーニに無実の罪を着せて身柄の引き渡しを要求したんだが、皇帝陛下に断られてしまった。そしてパッツィーニはある日、酒場を出たところをごろつきに刺されて死んだ」


「そんな!」


 ロアは両手で口元を覆った。ごろつきに刺されたのは事実だが、その裏に国王陛下の指示があったらしいことはクレメンテからの手紙で子爵は聞き及んでいた。ロアの目が泳ぎ、それから視線が子爵へ戻ってきた。


「……ユリシーズは、そのことを知っているんですか?」


 子爵は力なく首を振った。


「あの子に質問されたことには、その当時私の知っていることは全て答えたよ。それが真実を知ってしまったあの子にできる、私なりの精一杯の誠意だったからね」


 声色には言い訳のような響きがあった。


「国王陛下はまだクレメンテさんが、ユリシーズの本当の父親だとは気づいていないのでしょうか」


「一生誤解したままでいて頂きたいね。そうでなかったら、クレメンテの命も危ない」


 頷いた子爵の返答には迷いがなかった。ロアは国王陛下もまた、皇帝陛下と同じように恐るべき人物であると確信した。


「陛下とユリシーズの間でどんな会話があったのか、或いはなかったのか。それは私には分からないよ。だがユリシーズが今も王城で王子の務めを果たしているところを見ると、陛下は事を荒立てる気はないらしい」


「……それが、ユリシ-ズが王位を継承したがらない理由だったんですね」


 震えの止まらない手をもう片方の手で押さえつけるようにして、ロアはどうにか動揺を沈めようとした。ユリシーズが国王の子でないとしたら、あれほどまでに頑なに王位継承を拒むことも辻褄が合う。コンラッドはそんなものは噂に過ぎないと言っていたが、噂ではなく真実だったのだ。しかも、実の父親は大人の男でさえない。彼だって被害者と言えるだろう。

 ロアは涙の滲む目でもう一度肖像画を見上げる。まだ幼い、気まずいような照れくさいような表情で父親に描かれた少年がロアを見つめていた。



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