嵐の前の
ちょうど王都へ向けて出発しようと用意をしていたダンヒル子爵は、使用人の報告を受けて急いで中庭に面した窓から外を見た。確かにそこには乗馬服に身を包んだロアがいて、モーリスから天馬乗馬の厳しい指導を受けているところだった。
天馬レースに出るとは聞いていたが、何故わざわざこんな辺境の城まで来て乗馬訓練をしているのか、ダンヒル子爵には検討もつかない。
ロアに悪意がないのは分かるが、自分の城へ尋ねてきておいて一言も挨拶がないのを許す訳にはいかず、仕方なく子爵は自分からロアの元へ出向くことにした。
「やあ、ロア・ジャンメール嬢。いい朝ですね」
白々しくならないよう精一杯の柔らかな声で、子爵はロアに呼びかける。鐙に足を掛けていたロアは振り向き、相手が子爵だと分かって足を下ろして背筋を伸ばした。
「ダンヒル子爵! 勝手にすみません、お邪魔しています」
「一体何があってこんなことになったのか、お聞きしても構いませんかな」
子爵はロアと馬丁二人を交互に見る。ジョーは気まずそうに身を縮めたがモーリスはどこ吹く風で、先ほど確認したばかりの蹄鉄を調べる振りをして子爵の視線から逃れている。
「も、もちろんです。えっと、天馬レースでユリシーズと勝負することになって。でも王城の人はみんなユリシーズを勝たせようとしてるから、モーリスに教えてもらっているんです」
どういうことだと更に詰め寄られればあっという間にぼろの出そうな事情を、ロアはもじもじしながら告げた。子爵は思わず苦笑する。
「なるほど。分かったような分からないような」
「えーっと……」
「舞踏会に間に合うようには帰るのでしょう。私も王城に向かおうと思っていたところです、天馬馬車の中でゆっくり説明してもらえますか?」
その言葉で時間感覚を取り戻したかのように、ロアははっとして空を見上げた。
「わ、もうこんな時間?」
日はもう高く昇り、僅かに傾き始めている。そろそろウィットバーン城を出ないと舞踏会に遅刻してしまうので、仕方なくロアは名残惜しそうに天馬の首を撫でた。それから馬具を外しに掛かる。
「すみません、ダンヒル子爵。モーリス、ジョー。私、そろそろ王城に戻るね」
ジョーはロアが馬具を外すのを手伝おうとしたが、モーリスにしかめっ面で首を横に振られて渋々引き下がった。モーリスは数日後に天馬レースが迫っていても、天馬乗りとしてロアが何もかも一から自分でできるように覚えさせるつもりなのだ。実際今日は馬具の装着に時間を割くあまり、ほとんど天馬には乗れなかった。
ロアは苦労しながら全ての馬具を外し、片膝をひょいと上げて下ろした鞍を支えて抱え直した。鞍の上の鐙のベルトがぶらりと揺れる。
「今日はほんとに、どうもありがとう。また明日、よろしくね」
「いえ。お役に立てて光栄です」
身分が上の立場の人間に丁寧に礼を言われるのは慣れず、ジョーはくすぐったそうに肩を竦めてはにかんだ。
「それで、どうしてまたユリシーズと賭けなんてすることになったのですか」
天馬馬車の用意ができるまで客室で待つことにしたのだが、しばらくは二人とも無言だった。
質問されないのを幸いとばかりに、ロアは説明をしなかった。焦れた子爵は足を組み、指を組み合わせた両手で片膝を軽く抱えるような姿勢になりながら仕方なく尋ねた。
窓から青い空を見ていたロアはぎくりと肩を揺らし、姿勢を正して子爵を見た。
「まあ、色々ありまして」
「ユリシーズの冗談ではないのですね?」
「違います。私もユリシーズも、本気です」
ロアが真剣な顔で答えたので、子爵も表情を引き締める。
「一体どんな賭けですか?」
「……私が負けたら、二度と馬には乗りません」
それは騎手としての引退も意味する。予想外に重い条件に、子爵は眉を上げた。
「ほう。それで、もしもユリシーズが負けたら?」
「ええっと、私に協力してもらいます」
「あなたの何に協力してほしいのですか」
次々に質問が飛び、ロアは汗をかく。
「それはそのう、私自身のことではないんです。他言無用という感じなので、説明するのはちょっと……」
「それは残念ですね。私にも協力できることがあれば、協力して差し上げたいと思ったのですが」
「えっ、本当ですか?」
ロアは動きを止めて問い返した。レースで勝つ以外にもクローディアのためにできることがあれば、何でもしなくてはならない。コンラッドとの会話を思い出す。普通に考えれば辺境の一子爵が、国王や皇帝を向こうに回してできることは少ないはずだったが、ロアはそこまで頭が回らない。
「もちろん」
「……ユリシーズの味方をしなくていいんですか?」
ダンヒル子爵とユリシーズが親しいことは、この間の会話を聞いていたロアもよく知っている。そのユリシーズと対立する形になることを、子爵が了承するのが不思議だった。味方をしなくていいのかという児戯を思わせる言葉遣いに、子爵は少しだけ笑った。
「内容にもよるけれど、まあそうですね」
ロアは考え込んだ。そしてふと、ダンヒル子爵夫人との会話を思い出して子爵を見た。
「子爵夫人は、ユリシーズを自分の子どもみたいに思ってるっておっしゃってました」
急に話題が変わって、ダンヒル子爵は瞬きをした。
「ええ。本人には決して言えないけれど、そんな風に思ってしまうこともありましたよ」
「ユリシーズとは親しいんですよね? どうして王位を継ぎたがらないのか、知ってますか?」
またしても予期せぬ方向からの質問に、子爵は息を詰めた。ロアの真っ直ぐな目が子爵にとっては圧になる。
「……さてね。コンラッド王子やマーヴィン殿下が、自分よりも王に相応しいと思っているのではないですかな」
はぐらかすように答えて子爵は組んでいた足を戻し、両手を広げた。
「それはなぜですか? コンラッドも不思議がっていました、性格的に自分よりユリシーズの方が国王に合っているのにって」
第二王子の名が呼び捨てされたことに、子爵は静かに驚いた。そして思った以上に二人の王子の内情にロアが食い込んでいることを察して、ウィットバーン城でのユリシーズとロアのやり取りを思い出した。
目の前の少女は気の毒になるほど単純で、感情のままに生きており、驚くほど行動的だ。そんなロアならば強い風のように、王城の中の淀む空気を一新してくれるような気がした。生まれた時から王子としての立場から逃れられない少年が、辺境のこの城で見せた無邪気な姿を思い出す。だがそれでもなお子爵は迷い、しばし沈黙が流れた。
「本人が秘しているなら、私から話すべきではない。だが──」
ユリシーズが自分の出生について長年苦しんでいることを、子爵はよく知っている。何故なら、子爵自身がそのきっかけを与えてしまったからだ。
だがだからこそ、彼が立ち上がるきっかけを作るのも自分の役目なのかもしれないと子爵は思った。たとえ全てが裏目に出て、更に恨まれることになったとしても。
「君なら、もしかしたら彼の力になれるのかもしれない」
後悔と諦めと少しの期待の滲む目で、子爵はロアを見つめ返した。そしてふっと短く息を吐いた。ロアには何故子爵がそんな表情をするのか分からない。
「おいで。私の秘密のコレクションを見せてあげよう」
「え?」
今度はロアが予想外の子爵の言葉に目を丸くする番だった。子爵は立ち上がり、手のひらで軽く扉を示してロアを誘った。それはもう子爵として異国の令嬢に接する態度ではなく、対等な友人に話しているかのようだった。





