信頼
「はあ。天馬と地上の馬で、こんなに違うものなんだね。確かにちょっと、舐めてたのかも」
昨夜のユリシーズの言葉が思い出されて、ロアは憂鬱そうに呟いた。洗濯室で乗馬服を洗い終え、それを乾燥室に干したそばかすのある侍女が部屋に戻ってきた。
「あら、ロア様が読書なんて珍しいこともあるものですわね」
「天馬レースのルールブックですって」
「ルールも覚えて、天馬に乗る練習をして、ダンスを踊って、ついでにお喋りも嗜んで。ロア様ったら大忙しですわね」
レースの結果如何によっては皇帝を敵に回し、ジャンメール男爵家全体を巻き込んでしまい兼ねない状況ではある。だが現実味がないせいか、そばかすのある侍女は楽しげに言った。
「そうだよ、私は忙しいんだよ」
ロアは真面目くさった顔でため息をついた。
「本当に。舞踏会では壁の花でおとなしくお過ごしなのかと思ったら、とんでもないことに首を突っ込んでしまったものですわねえ」
丸顔の侍女が不安半分諦め半分の顔で、マヌエラから使い終えたタオルを受け取る。
「だって、クローディアが可哀想すぎるよ。マヌエラだってそう思うでしょ」
ロアは鏡の中で自分の髪を梳くマヌエラを見た。正義感が強いマヌエラなら、少なくともその部分に限ってはきっと同意してくれると期待しての問いだ。
「思います」
「ほらね!」
マヌエラの同意を得られて、得意顔でロアは丸顔の侍女を見た。だがマヌエラは首を横に振って諫めた。
「思いますが、立場はわきまえるべきです。ロア様は赤の他人で、異邦人なのですよ。昨日も申し上げましたが、やんごとなき方々の恋路にお節介を焼ける立場ではありません」
「それはそうだけどさあ」
喜びも束の間、またもや反対意見を打ち出すマヌエラにロアは口を尖らせる。
「それにコンラッド様は賭けには関わらないのですから、クローディアさんを諦めはしないのでしょう?」
「まあそうだね」
「となるとこれは、ロア様とユリシーズ様お二人で行う、当のご本人達とは関係のない純然たる場外乱闘ですわね」
使用人の部屋でカップを洗い終えて戻ってきたそばかすの侍女が、くすくすと笑った。
「あれ、そういうことになる?」
「なりますね」
気づいていなかったのかと呆れ果てた顔で、マヌエラはブラシをドレッサーに置いた。それから立ち上がったロアのバスローブのベルトを直す。
「おそらくは売り言葉に買い言葉といったところなのでしょうが……しかしユリシーズ様も、存外に幼い方だったのですね」
マヌエラがそう言うと、二人の侍女も頷いた。一歩引いたものの見方をできていなかったロアは、マヌエラ達の視点に小首を傾げる。
「そういうことになるのかな?」
「なりますねえ」
似たような会話を再度繰り返して、ロアは笑った。もはやレースで何が起きても受け入れるしかないと諦めたマヌエラも、苦笑いをしてふっと息を吐いた。
ロアは幾らか心が軽くなった気がした。
「あちらにしてみればただの余興なのかもしれませんが、やれやれ、まったくもう。レースでユリシーズ様が、万が一にも落馬なさらないことを祈るのみですよ」
丸顔の侍女が苦笑いで十字を切る。
「ああ。もし怪我しちゃったら、レースに誘った私が悪いことになるのかな」
侍女達はそんな未来を想像しただけで肝が冷えるのに、当のロアは今その可能性に気づいたというようにきょとんとしている。マヌエラは軽くロアを睨んだ。
「もちろんそうでしょうとも。さあ、お喋りは終わりです。明日の朝も元気に天馬と格闘なさりたいのなら、もうお休みになって下さい」
「うん。お休みなさーい」
素直にベッドに横たわって枕に頭を乗せたロアに、マヌエラは布団を掛ける。
「お休みなさいませ」
燭台の火をスナッファーで消したマヌエラが、使用人の部屋に続く扉を開ける後ろ姿を見てロアは急に心細くなった。
もしもこのまま天馬に嫌われ続けて、天馬レースで負けてしまったら。馬に乗れない自分は、一体どうなってしまうのだろう。今更ながらロアの心はざわめいた。
「マヌエラ」
ぽつりと掛けられた言葉を耳に拾ってマヌエラは振り返り、ロアを見た。
開いた扉の向こうの、使用人の部屋の明かりが仄かにマヌエラを照らしているが、ロアの部屋にはカーテンの隙間から僅かに差し込む月明かりしかない。
「はい。何ですか」
心細くなってただ呼んだだけとは言えずに、ロアはぱっとマヌエラに背を向けて布団を頭まで被った。
「……何でもない。お休みなさい!」
布団の中から聞こえるくぐもった声に、マヌエラは腕組みをして少し意地悪そうに微笑んだ。
「さては、今頃になって不安になってきましたね?」
「うっ……ちが、違うよ。初心者だから、別にすぐに上手く天馬に乗れなくても仕方ないし……と、とにかく私、絶対勝つから」
図星を刺されて布団の中で足をもぞもぞさせながら強がるロアを見て、マヌエラは枕元まで引き返して布団を引っ剥がした。乱れた髪の、恥ずかしいような甘えたいような顔で頬を染めるロアと目が合う。
マヌエラは笑って、そっとロアの前髪を撫で上げて額に触れた。
ロアが幼い頃からの付き合いではあるが、主と使用人なので額に接吻はしない。その代わりマヌエラは、ロアの両頬を両手で挟んでむにむにと動かした。
「むぶっ」
「素直に自分の気持ちを言えない人は、損をしますよ」
ロアはマヌエラの両手に自分の手を重ねて、何かと戦っているような表情をした。
「……。どうやったら天馬に、乗れるかな」
不安だとは素直に言えなかったが、一応ロアなりに不安を認めはした上でぼそりと呟く。
「検討もつきませんね、私は乗馬は門外漢ですから。ましてや天馬など論外です」
マヌエラは肩をすくめた。
「ですが、おやりなるしかないでしょう。あなたが始めた賭けなのですから」
しばらく黙って視線を交し、マヌエラが頬から手を離す。行かせまいと引き留めるように、ロアが慌てて続きの言葉を紡ぐ。
「あのっ。あのね。えっと……天馬レース、応援しててね」
じっとマヌエラの眼鏡の奥の黒い瞳を見つめ、ロアはまたぼそぼそと小声で言った。不安に緑の瞳が揺らいでいるのを月明かりで確認したマヌエラは、ロアの鼻先をちょんと突いた。
「もちろんですよ、跳ねっ返りのお嬢様」
伸ばされた指先に反射的に目を閉じてしまったロアは、鼻先の感触に目を開けた。ぱちぱちと瞬きをした後で、降り注がれた温かな言葉に幸せそうに目を細める。
「……ありがとう」
「あなたが勝つ方に、今月のお給料をすべて賭けましょう」
マヌエラが冗談を言うのは珍しい。声を上げてロアは笑った。





